豪と米南北戦争の唯一の接点

南部の軍艦メルボルン寄港150年祭

 日本で言えば幕末の動乱期にあたる1861年から1865年までの間、アメリカ合衆国では主に奴隷制度と経済金融問題をめぐって国を二分する内戦が起きていた。オーストラリアでは鉱業ライセンス料値上げを不満としたビクトリア植民地バララットの砂金鉱夫らがメルボルンから派遣された政府軍と戦闘を繰り広げるユーリカ砦事件が起きて10年ほどの頃だった。

 米南北戦争終結間際の1865年1月25日、南部軍がイギリスから購入した蒸気船シェナンドー号がイギリスからアメリカに戻る途中喜望峰回りでビクトリア植民地のメルボルンの南西、ウイリアムズタウンに寄港した。同艦は、小型快速船の特徴を活かし、北軍側の海の補給ルートを撹乱し、数多くの艦船を破壊し、輸送船の貨物を押収し、船員を投獄した。

 オーストラリア大陸近海では修理が必要な時には当時盛んだったアメリカの捕鯨船を襲撃していた。当時、物資補給の寄港地としてはケープ・タウンとメルボルンがあったが、ケープ・タウンは北軍艦船と出会う可能性があり、その点ではメルボルンの方が安全だった。

 ウイリアムズタウン停泊中にメルボルン男性市民42人が密かに乗り込み、アメリカに戻る途中でもで北軍側の艦船を襲撃したとされている。

 記念式典では4発の礼砲が発射され、主催者の一人ピーター・ヘンピル氏が、「当時、シェナンドー号は大陸近海で捕鯨船4隻を沈め、また南北戦争最後の大砲を発射することにもなった。また、南北戦争とオーストラリアを結ぶ唯一のできごとということでも記念すべき事件だった。ジェームズ・ワデル船長はメルボルンからアメリカに向かう郵便貨物船を探した。それによって、南軍司令官にシェナンドー号の所在を伝えようとした。また、プロペラを修理する必要もあった。その頃、北軍はシェナンドー号乗組員を海賊として捜していた」と語っている。

 さらに、メルボルン港ではオーストラリアの住民を南軍に募ろうとした容疑でオーストラリアの警察と軍に囲まれたことがあるとしている。メルボルン港を出ると42人のメルボルン市民が船内の隠れ場所から現れ、北太平洋での捕鯨船襲撃に加わった。当時の捕鯨は主として鯨油が目的で、シェナンドー号でも潤滑油として鯨油を必要としていた。しかし、当時既に戦争は終わっており、シェナンドー号も降伏、後に「イギリスが南軍に協力した」という名目の裁判で乗組員が証人として出廷、イギリスはアメリカ合衆国に対して当時の金貨で1,550万米ドルの賠償を行った。現代の価値にして何十億ドルにもなる」と語っている。
■ソース
American Civil War: Confederate ship CSS Shenandoah’s arrival in Melbourne remembered

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