進出日本企業インタビュー第24回「兼松豪州会社」

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第24回 兼松豪州会社 社長

中根 一朗

兼松房治郎氏の肖像画を後ろにインタビューを受ける中根氏(Photo: Naoto Ijichi)
兼松房治郎氏の肖像画を後ろにインタビューを受ける中根氏(Photo: Naoto Ijichi)

日本の老舗商社・兼松の歴史は、明治時代に兼松房治郎氏が創業した「濠洲貿易兼松房治郎商店」にさかのぼる。日本の貿易を西洋勢が独占していた約130年前、房治郎氏は日本人の手で貿易に携わるべきだと考え、自ら豪州に乗り込んで羊毛などの直接輸入を手掛けた。初代シドニー支店長から数えて32代目となる中根一朗・兼松豪州会社社長に話を聞いた。(インタビュー=ジャーナリスト・守屋太郎)

生産者が見える商品を
ユーザーの視点に立って提供したい

――日豪貿易のパイオニアである兼松房治郎氏とは、どんな人物だったのでしょうか?

房治郎は江戸時代の弘化2年(1845年)に大阪で生まれ、丁稚(でっち)奉公から苦労して下級武士となりましたが、幕末の混乱の中で商人として身を立てることを決意したと言います。明治維新後の1873年、28歳で三井組銀行部(現在の三井住友銀行)の大阪分店に入店し、民間資金の取り扱い開始や帳簿の近代化などに力を尽くしました。

三井を退社後、1884年に大阪商船(現在の商船三井)の創設に参加して取締役に就任。87年には大阪日報(後の大阪毎日新聞)を買収し、物価表や読者の意見を掲載するなど、新聞業界に新風を吹き込みました。

房治郎にとって、貿易のほとんどを外国人商館に握られていることが不満でした。「国力の振興は貿易による他なく、貿易事業は日本人の手中に握らなければならない」と、当時の状況に風穴を開けようと考えたのです。

そこで目を付けたのが、羊毛や食料品の宝庫である豪州でした。約130年前の1887年(明治20年)、神戸港から船に乗り、約1カ月半後にシドニーに到着。他国人と間違われてホテルで宿泊を拒否されるなど苦労を重ねながら、半年間かけて豪州国内を視察しました。日本への帰路、途中の香港で、後に初代シドニー支店長となる北村寅之助と運命的な出会いを果たしています。帰国後、1889年に神戸に「濠洲貿易兼松房治郎商店」(現在の兼松)を創業し、翌1890年にはシドニー支店を開設して羊毛や牛脂・牛皮などの日豪貿易を始めました。

「我国の福利を増進するの分子を播種栽培す」――。房治郎が創業時に決意を述べた言葉です。人生50年と言われていた当時、既に44歳。既に実業家として成功していた人生を擲(なげう)ち、日本経済の発展のために、日本人の手による日豪間の直接貿易という種をまいたのです。

――幕末から明治にかけての激動の時代を生きた房治郎氏には、滅私奉公の精神が息づいていたのですね。房治郎氏の志を継いだ兼松はその後、豪州社会にも大きく貢献しました。

シドニーの歴史的に重要な建築物や場所101カ所には、「グリーン・プラーク」という深緑色の金属板が掲げられています。その81番目は、市内中心部オコーネル・ストリートの在シドニー総領事館の向かい側、濠洲貿易兼松房治郎商店シドニー支店と倉庫の跡地に建つビルの壁面に埋め込まれています。

シドニー市内のオコーネル・ストリートにある81番目のグリーン・プラーク
シドニー市内のオコーネル・ストリートにある81番目のグリーン・プラーク

金属板には「日本と豪州の直接貿易の先駆者である兼松房治郎は1890年、北村寅之助が運営するシドニー支店を開設した。同社は1891年から1965年までこの地にあった」と刻まれています。日豪直接貿易パイオニアとしての貢献を豪州にも認めて頂いた証と言えるでしょう。

そこから東へ数百メートル離れたマッコーリー・ストリートのシドニー病院には、兼松家の家紋が刻まれています。房治郎逝去後の1933年、当社の寄付によって建設された「兼松記念病理学研究所」が、かつてここに存在したことを記すものです。

当時としては最新鋭の施設で、移民が悩まされた風土病や眼病などを体系的に研究する目的で開設されました。優秀な学者が数多く蝟集(いしゅう)し、ノーベル賞受賞者も2人輩出しています。第2次世界大戦中、日本は敵国でしたから、「名称を変えるべき」との声も上がりましたが、当時の理事長の強い意向で「Kanematsu」の名前は残りました。建物は現存していませんが、シドニー病院内の博物館には研究所の資料や標本が公開されています。

その後も兼松豪州会社設立100周年の1990年には、病理学の若手研究者を支援する基金を創設するなど、当地における社会貢献の取り組みを続けています。

――房治郎氏による創業から約130年を経て、兼松はどのような企業に成長したのでしょうか。

現在、売上高ベースで最大の事業は、半導体装置や電子機器、携帯電話のカメラ・レンズなどの電子部品などを手掛ける「電子・デバイス」で、全体の約38%を占めています。2016年には携帯電話販売大手ダイヤモンドテレコムを買収し、モバイル事業を大幅に強化しました。

次が、畜・水産物、加工食品、穀物、飼料などを扱う「食料(食品/食糧)」で約34%。畜産は、牛・豚・鶏肉を核として、羊肉から馬肉、ターキーに到るまで全ての畜種を取扱い、昨今は日本以外の国々への販売も伸びてきました。その他の主な事業としては、「鉄鋼・素材・プラント」(約19%)、車両・車載部品や航空宇宙関連事業を手掛ける「車両・航空」(約8%)などがあります。

海外36カ所、日本国内8カ所の合計44拠点を展開し、グループ全体で関係会社116社を有しています。2017年3月時点で、単体835人、連結6,727人の従業員が在籍しています。17年3月期の売上高(国際会計基準=IFRS)は約1兆1,000億円、売上総利益は約1,001億円となっています。

――現在の兼松豪州会社は、主にどんな事業を手掛けているのですか?

豪州産の牛肉や羊肉、穀物、豆類、飼料などの食品・食糧事業が、全体の半分以上を占めています。主力の日本向けだけではなく、東南アジアなど他の市場との「3国間取引」、豪州国内市場への開拓にも力を入れてきました。

商品の特性に応じた差別化を進めています。一例としては、当社が出資しているSA州カンガルー島の農業法人「カンガルー・アイランド・ピュア・グレイン」(KIPG)があります。KIPGに参加する生産者は、非遺伝子組換の菜種、その菜の花からの蜂蜜、各種の豆、大麦や小麦、オーガニック(有機無農薬栽培)蜂蜜他を生産しています。

カンガルー島は東西200キロ、南北60キロで面積は山梨県とほぼ同じ、人口4,500人という辺境です。しかし、本土から13キロ離れている環境を、希少価値に転化することで、豊かな自然に育まれたプレミアム商品としてブランド化し、日本や東南アジア、豪州国内にも販売しています。

出資している農業法人が使用するカンガルー島の菜の花畑
出資している農業法人が使用するカンガルー島の菜の花畑

また、製鉄工程で不純物を取り除くための副原料である石灰石を日本から輸入するなどさまざまな分野の素材も手掛けています。最近では、シドニーのウィンヤード駅の内装に使用されている、表面が滑らかな特殊なステンレス鋼も当社が取り扱いました。

――豪州での事業戦略と今後の展望について聞かせてください。

豪州では、サプライヤーがエンドユーザーに直接会う機会がなかなかありません。私共は生産者と顧客の間に唯一介在する会社として、「双方が互いに顔が見える」関係を構築するお手伝いをするように心掛けています。

例えば、菓子原料の豆を取り扱う場合、サプライヤーと一緒に、エンドユーザーである菓子メーカーを訪問し、商品がどのように使われるかを実際に見てもらいます。そういう機会を通して、「兼松を介することで、真のニーズを理解でき、次の展開を具体的に考える縁になる」という付加価値を生み出しています。

今後も豪州市場は足腰の強い成長が続く見通しで、安定した商売を開拓できる素地はあるでしょう。相場商品で目先の利益を追い求めるのではなく、末端の市場に根付いた商品で事業を伸ばしていきたいですね。生産者の顔が見える商品を、それを消費する側の視点に立って提供していく。それこそが、兼松房治郎が望んだ商売の原点だと考えています。

PROFILE:なかね・いちろう
1960年生まれ。京都市出身。北海道大学法学部卒。1984年4月大洋漁業(株)(現マルハニチロ)入社。1989年10月兼松(株)入社。1999~2001年兼松欧州会社アムステルダム支店。2011年5月より現職(兼松ニュージーランド会社社長兼務)

<会社概要>
英文社名:Kanematsu Australia Limited
事業内容:商社(食品食糧、鉄鋼素材など)
代表者:中根一朗
拠点:シドニー
従業員数:4人

<沿革>
1890年(明治23年)「豪州貿易兼松房治郎商店シドニー支店」開設
1922年(大正11年) 豪州現法「F. Kanematsu (Australia) Ltd.」に改組

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