オーストラリアで今を生きる人 ハウズ愛子さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

ハウズ愛子さん

思い切って結婚して良かった
豪州に来て幸せな人生が送れた

1945年8月6日午前8時15分、山口県の岩国海軍航空隊で勤労動員中、北の空に原子爆弾が炸裂するのを見た。戦後、岩国に駐留したオーストラリアの兵士と恋に落ちた。終戦10年目にオーストラリアに渡り、1人娘を育てながら必死で働いた。来豪から60年目を迎えた今年7月、長年続けてきたボランティアの社会貢献が認められ、オーストラリア赤十字社と高齢者介護施設から感謝状を授与された。(聞き手:林さゆり)

 

——戦争体験について教えてください。
 1930年に山口県岩国市で生まれ、地元の女学校を卒業した後、洋裁学校に通いながら花嫁修業をしていました。70年前の夏、勤労動員で岩国海軍航空隊で働いていたんです。その朝、航空隊の近くにある河原で、滑走路の拡張工事のための石を拾っていると、突然、「バーン」というものすごい音がしました。私たちは一斉に空を見上げました。真夏の空に、真っ白な、巨大な煙がムクムクと立ち上がっていました。その日の夕方になって、広島に新型爆弾が落とされたことを知りました。9日後、戦争は終わりました。

 

——戦後、オーストラリアの空軍兵士だった夫と知り合いました。

戦後は岩国の米軍基地で働きました。54年に友達の家で開かれた集まりに行くと、そこに将来夫となるロン・ハウズも来ていました。家族には内緒で付き合い始めて間もなくロンからプロポーズされ、とても驚きました。時代が、時代でしたからね。

当時の国際結婚は、手続きの上でも簡単なことではありませんでした。まず警察が家に来て、実家や素性を調べる必要がありました。その時に初めて「オーストラリア人と結婚したいんです」と父に伝えました。予想通り、父には大反対されました。

「よく考えなさい。もしオーストラリアに行って、嫌になって帰りたくなっても、うちはお金持ちじゃないから、帰るお金はないんだよ。親や親戚の具合が悪くなっても、帰って来られないぞ。それでもいいのか!」。父の言葉は今でも忘れません。それでも私は「夫側にも調べが入るので、とりあえずそれぞれ調べさせようよ」と突っぱね、間もなく警察の許可が下りました。家族や親戚がどれほど肩身が狭かったか分かってはいましたが、「私、結婚します。オーストラリアに行きます」と改めて決心を伝えました。父は何も言いませんでした。

1954年、知り合ったころの愛子さん(右)と後に夫になったロンさん
1954年、知り合ったころの愛子さん(右)と後に夫になったロンさん

 

——いわゆる「戦争花嫁」として、かつての敵国だったオーストラリアに移り住みました。初めてオーストラリアの地を踏んだ日のことを教えてください。


ハウズ愛子さんの到着を伝える当時の新聞記事

夫は先にオーストラリアに帰国していました。私はビザが降りるのを待ち、神戸港から船に乗りました。シドニーに降り立ったのは、終戦から10年後の55年7月のことです。当時の船旅は、香港やケアンズを経由してシドニーまで28日間もかかりました。「やっと着いた」という嬉しい気持ちでいっぱいでした。

青く澄み渡った冬空の下、軍隊の上官2人に連れられて夫が迎えに来てくれました。南半球は真冬なのでとても寒いと聞いていましたが、ミンクのコートを着た人がいるかと思えば、半袖の人や海でサーフィンをしている人もいて、びっくりしましたね。

このころ、オーストラリアの兵士と結婚した日本人女性の中には「戦争花嫁」という言葉を嫌う人もいます。でも、私は「戦争花嫁」と呼ばれることに少しも違和感はありません。99年にキャンベラで、日豪友好の架け橋として貢献したとして、駐オーストラリア日本国特命全権大使から顕彰状をいただきました。戦争花嫁としてそのことを誇りに思っています。

 

——戦後間もない時代に、日本人がオーストラリアで生活するのはどんな苦労がありましたか?

英語が片言しか話せませんでしたので、言葉で苦労することは覚悟していました。夫は英国生まれで、家族はオーストラリアに住んでいませんでした。姑や小姑もいない2人だけの夫婦生活では、2人の間だけで意思疎通ができればいいので、その点は心配する必要はありませんでした。これといった大きな夫婦喧嘩をした記憶もなく、幸せな生活を送りました。

当時、トイレは屋外の小さな小屋の中にあり、市役所が週に1回、容器を取り替えてくれました。雨の日は傘をさし、夜は蜘蛛がいないか確かめてからトイレに行きました。来豪7年目に水洗トイレになり、主人と大喜びしたのを思い出します。お腹が減ると、馬のヒヅメの音に耳を澄ましていました。パン屋さんが馬車に乗ってパンを売りにくるからです。シドニーにもそんなのどかな時代があったのです。

よく人から「苦労したでしょう」と聞かれますが、別に苦労は感じませんでした。夫が軍隊を辞めた時にもらった退職金で土地を買い、土地を抵当に銀行からお金を借りて来豪10カ月目に家を建てることができました。オーストラリアに来て間もなくマイ・ホームを持つことができたのは、夢のような出来事でした。

夫は除隊後、まず民間企業に就職し、飛行機を修理する仕事をしました。その後、エアコンの会社に転職し、部品を作ったり、ビルやレストラン、工場などにエアコンを取り付けたりしました。

やがて1人娘を授かりました。母親が日本人ということで、娘がいじめられることがなかったのは、何よりも幸いなことでした。

私も近所の夫婦に子どもを預けて働き始めました。若い時に習った洋裁の経験を生かし、ミシンで洋服を縫う仕事をしました。当時、日本は海の向こうの遠い国でした。反対を押し切って出てきた日本の家族に会いに行きたい一心で、お金を貯めるために必死で働きました。来豪5年目に幼い娘を抱えて船に乗って里帰りしました。家を出てから初めての父との再会。父と我が子とが戯れ遊ぶのを見た時は、言葉には表わせない幸せを感じました。65年から工場で洗濯機のタイマーを作る仕事に就き、その会社が99年に倒産するまで34年間、ただただ働き続けました。2004年には、娘家族とともに故郷に帰り、亡き父と兄の墓に手を合わせました。

 

——仕事を辞めてからボランティアを始めたきっかけは?

勤めていた会社が倒産したのが69歳の時。「この歳で再就職は難しいだろう。かといって何もしない毎日を過ごすなんてできない」と思いました。そこで、ボランティアだったらできると考え、社会福祉事務所に相談したところ、オーストラリア赤十字社を紹介してくれたんです。

失業して3日目には、もう赤十字社でボランティアを始めていたんですよ。それから週1回のペースでボランティアをする生活が今でも続いています。現在、病院に寄付する手編みのテディー・ベア(クマのぬいぐるみ)に、目鼻をつけたり、ラベルを縫い付けたりして完成品にする作業をしています。

また、赤十字社を通してナーシング・ホーム(高齢者介護施設)を訪問するボランティアも同時に始めました。最初に担当したのは101歳のおばあさんでした。月に2回訪問して、お話ししたり、一緒に歌ったりするのです。私は11歳で母を亡くしているので、母が生きていれば同じことをしてあげられたのにと思いながら、お会いする度に心が躍りました。ナーシング・ホームのボランティアも現在まで続けています。

オーストラリア赤十字社のボランティアでクマのぬいぐるみを作るハウズ愛子さん
オーストラリア赤十字社のボランティアでクマのぬいぐるみを作るハウズ愛子さん

 

——ボランティアの社会貢献が認められ、感謝状を授与されました。

今年7月、オーストラリア赤十字社とナーシング・ホームから、15年間の社会貢献活動への感謝状をいただきました。来豪してからひたすら働いてきましたが、退職後は様々なボランティアをすることが生き甲斐になりました。2000年シドニー五輪の時も、選手や応援客に道案内をするボランティアをしました。ボランティアをしていなければ、これほど幸せと感じる人生はなかっただろうと思います。感謝状をいただけたのは、異国に住む日本人として本当に栄誉なことだと思います。

私が今もオーストラリアで元気に暮らしていて、ボランティアで感謝状までいただけたことを、日本の親戚に伝えられたのが一番うれしいです。

 

——69回目の原爆記念日だった昨年8月6日、長年連れ添ったロンさんが他界されました。これまでのオーストラリアでの人生を振り返って、現在のお気持ちをお聞かせください。

オーストラリアで暮らすことを深刻に悩んだ時期もありましたが、今では思い切って来豪してよかったとつくづく感じています。昨年、夫は亡くなりましたが、オーストラリア全土を旅行したことなど楽しかった思い出が次々と浮かんできます。ボランティアの仕事を続けてこられたのも、夫の理解と協力があったからこそだと感謝しています。夫と結婚したことに後悔は全くありません。オーストラリアに来たから幸せな人生を送れたと思っています。

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