オーストラリアで今を生きる人 永田朝子さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.16 永田朝子さん

ワクワクする旅の感動、写真と旅行記で発信

旅行作家の永田朝子さん(日本ペンクラブ会員、日本旅行作家協会会員)は日本で生命保険のトップ・セールスレディーとして活躍した後、2000年にオーストラリアに移り住んだ。「あこがれ発シドニー行き」(2002年)、「朝子 in Sydney」(05年)の2冊の著書を出版。ウェブサイト「アサコ・イン・シドニー」(ASAKO INSYDNEY)で、海外生活や旅行の体験を発信し続けている。 (聞き手:守屋太郎)

——幼い時から海外に憧れていたのですか?

終戦の年に兵庫県城崎市の近くで生まれ、今年、古希(70歳)を迎えました。中学時代、テレビの紀行番組「兼高かおる世界の旅」に影響を受けました。今のように海外の情報が溢れている時代ではなかったので、強い刺激を受けました。

海外の美しい風景、人々の生活に夢中になりました。世界を飛び回る兼高さんに憧れ、毎週、放映を心待ちにしていました。知らない広い世界への夢をかき立てられ、「いつかは海外で暮らしてみたい」という想いが芽生えたのです。半世紀後、日本旅行作家協会の会員になり、当時会長を務めていた兼高さんにお会いできるとは夢にも思いませんでした。

——その願いをどうやって実現したのですか?

兵庫県の県立高校を卒業後、商社マンと結婚して駐在員夫人になることを夢見て、大手総合商社「日商」(現在の双日)に就職しました。約5年間のOL生活の間、洋裁や茶道、料理などの花嫁修業に打ち込みました。5つ上の男性と社内恋愛の末、23歳の時に結婚したのです。

寿退社してからは、阪急電鉄の豊中駅そして武庫之荘駅(兵庫県尼崎市)に近いアパートで趣味の洋裁をして新婚生活を送りました。海外暮らしの希望がようやく実現したのは30歳の時。先に赴任した夫を追いかけて、3歳と5歳の娘を連れフィリピンのマニラに引っ越しました。

日本の狭いアパートと、ヤシやパパイヤの木が生い茂る広い庭のあるマニラの豪邸のギャップにはびっくりしました。しかも、美味しい日本食を作る住み込みの料理人、掃除のメイド、専属の運転手付き、という貴族のような生活。夫が駐在していた4年間、パーティーに明け暮れたり、ディスコに通ったり、英会話や水泳を習ったりと、楽しい日々を過ごしました。

——その後、営業職に転身します。

マニラで私の中に秘められた「可能性」が開花しました。同じく駐在していたプエルトリコ人の友人に「あなたには時間があるじゃない!」と言われ、目からウロコが落ち、それ以来、私の行動力に火が付きました。駐在員夫人として迎えた日本企業の社長さんから商売の話を聞くのが楽しくて、「仕事って楽しい。男の人のようにビジネスをしたい!」と思うようになりました。

帰国後の1980年、第一生命保険の法人向けセールスの仕事に就きました。人と会うことが大好きなので、「この仕事は私の天職!」と気付きました。大手商社の担当に配属され、まずはチームでトップ、次は支社でトップ、そして地区でトップという風に、目標をクリアしていきました。その達成感は何物にも代えがたい喜びでした。

日本で保険のセールスレディーとして活躍していた頃
日本で保険のセールスレディーとして活躍していた頃

トップ・セールスマンが集う米国の団体「ミリオン・ダラー・ラウンド・テーブル」(MDRT)に加入して世界のセールスのプロとも交流を重ね、後に終身会員になりました。会社に行けば固定給が保証されるサラリーマンとは異なり、保険のセールスは実力主義の世界です。支社内に「永田朝子事務所」を設立して秘書を何人も雇い、経営者の視点で法人向けの保険ビジネスを手がけました。

もちろん、辛いこともありました。思うようにいかず、うつになって寝込んだこともあります。1日だけですが(笑)。それでも、素晴らしい上司と働きやすい環境に恵まれ、運やタイミングも味方してくれました。そして、家族やお客さんが私を支えてくれたお陰で「全国準王座」の成績を収めることができたのです。

——営業職にとって大切なことは?

一番はタイミングです。慎重にタイミングを図り、顧客にアプローチして、契約に至るまでのプロセスを楽しみました。「誰がキーマンか」「決定権は誰にあるのか」を的確に把握することも重要です。決定権のない人に一生懸命アプローチしても、労力と時間のムダです。

断られたお客さんにでも、子会社に出向している社長さんや取引先の社長さんといった具合に、次々とお客さんを紹介してもらい、ネットワークを広げていきます。成功者の話を聞いたり、本を読んで知識を深めたりすることも刺激になります。

最盛期の私は平均的なサラリーマンの年収の何倍も稼いでいました(笑)。夫はフィリピンから帰国後も海外への単身赴任が多く、私が身の回りの世話や家事をしなくても「自立」できるようになりました。2人ともリタイヤした今、日本とオーストラリアで離れて暮らしています。「仲が悪いんですか?」ってよく聞かれますが、「卒婚」(長く連れ添った夫婦が、子どもの独立や夫の定年退職などを機に、婚姻関係は解消せず、それぞれの新しい道に進んでいくライフスタイル)ですね(笑)。1年のうち何カ月間かは一緒で「良いパートナー」の関係を続けられています。

——退職後、単身で移住しました。

マニラから帰国して35歳で仕事を始めて勤続20年。その間、夫が赴任していたインドのカルカッタやカリブ海のドミニカ共和国を含めて世界50カ国以上を旅しました。昔からの夢だった「海外暮らし」を実現するため、どこが自分にとって最適の場所かをずっと探していました。

その中で、シドニーの自然に恵まれた環境に惚れ込みました。00年5月に55歳で退職し、五輪が始まる3カ月前の同年6月に、シドニーで新生活をスタートしました。

——世界各地を旅しながら2冊の著書を出版し、インターネットでも発信を続けています。永田さんにとって旅の魅力とは?また、一番印象に残っている旅行先は?

これまで合計64カ国と南極大陸を訪れました。旅先が決まった時点からもう旅は始まっていて、出かける前のドキドキ感がたまりません。そして、知らない土地を歩き、異文化を肌で感じ、新しい人に出会います。旅先での未知との遭遇にワクワクします。

オーストラリア国内で一番印象に残っているのはQLD州のウィルソン島という無人島ですね。ヘロン島から船で渡り、3日間、天から星が降ってくるような大自然の中で、豪華なテント暮らしをするツアーを体験しました。もしシドニー以外の場所に住むとしたら、ヌーサ(QLD州南東部サンシャイン・コーストにあるビーチ・リゾート)がいいですね。海外だと、やはり南極大陸。10年前に還暦の記念に娘と行ってきました。地球の壮大さを体感し、キーンと張り詰めた冷たい空気に身が引き締まる思いがしました。

還暦の年の正月、流氷が漂いペンギンが地面を覆う南極大陸で迎えた
還暦の年の正月、流氷が漂いペンギンが地面を覆う南極大陸で迎えた

——シドニーでの日常生活は?

一番気に入っている場所は、ワトソンズ・ベイ(シドニー東部)です。レストランのテラスから、湾内の美しい景色と高層ビル群のスカイラインが見渡せます。天気が良くて暖かい日は、シドニー・オペラ・ハウスの手前にある「オイスター・バー」で、美しいシドニー湾を眺めながら、ワインやビールを飲みながら生ガキをつまみ、1人でのんびり読書をするのも大好きです。

日本語を教える資格を通学と通信講座で取得し、3年前からタウン・ホール(シドニー市内中心部)の学校「ウェスリー・スクール・フォー・シニアズ」で日本語会話を教えています。毎月1つのテーマを決めて日豪の草の根交流を行う「日本語英語ソーシャル・クラブ」にも参加しています。

シドニーのタウン・ホールで行っている日本語クラスの生徒たちと
シドニーのタウン・ホールで行っている日本語クラスの生徒たちと

——オーストラリア生活を振り返って思うこと、そして今後の人生の目標は?

さまざまな人と出会えたことが何よりもうれしいです。2冊の本を出版し、作家の故・藤本義一さんと奥さんの藤本統紀子さん(タレント、エッセイスト)とのご縁もあり、「日本ペンクラブ」と「日本旅行作家協会」の会員として著名な作家や文化人の方々とお知り合いになることができました。

自分のウェブサイトで、オーストラリアで活躍されている人々にインタビューさせていただくとともに、紀行文をアップしていくことが、私のライフワークになっています。異業種交流会「シドニー企業ネット」をはじめとするさまざまなイベントに参加し、現地のコミュニティーに人脈を築くこともできました。

これからも、夫婦が互いに健康でいられるうちはオーストラリアと日本を行ったり来たりしつつ、旅行を続けたいですね。自宅マンションの下階にあるジムで毎日、筋力を蓄え、体力増強に勤んでいます。

ともあれ、今は「人生100年」の時代。今後は女優の岸惠子さんのような素敵な80歳を目指します。還暦は南極大陸で迎えましたから、傘寿はぜひ北極に行ってみたいですね。北極の旅を目標に、ますますパワーアップしていきます!

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