オーストラリアで今を生きる人 松平みなさん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.18 松平みなさん

明治を生きた日本人の矜恃を今に伝えたい

(Photo: Kazuya Baba)
(Photo: Kazuya Baba)

1980年代にNSW州東部ゴスフォードに移住し、オーストラリアと日本の架け橋となって草の根交流に貢献してきた。そのかたわら、幼い頃からの根っからの本好きが高じてオーストラリアを題材にした小説を出版。昨年12月には、約100年前に日本の稲作をオーストラリアに伝えた日本人、高須賀穣を主人公にした作品『穣の一粒』を発表している。(聞き手:守屋太郎)

――幼い頃から作家や海外生活を目指していたのですか?

とにかく本が大好きな子どもでした。勉強もしないで学校にある本はどんなジャンルの本でも読みました。海外生活に目が向いたのは、両親も既に亡くなっていて「世界中どこに住んでも同じかな」と思ったからです。オーストラリアには既に旅行で4回訪れていて、気に入っていました。子どもが気軽に「コンニチワ」と声をかけてくれ、太陽が燦々(さんさん)と輝く陽気な国という印象でした。技術移住の制度を利用して87年に来豪して以来、今までずっとゴスフォードに住んでいます。

――オーストラリアに住んでみた感想はいかがでしたか?

当時の日本は今と違って何でも高かったですから、オーストラリアの物価の低さに驚きました。ゴスフォードの地元の人はとても素朴でした。中古の自転車を修理しながら家族何代もかけて乗り継ぐなど、本当に物を大切にする人たちなのだと、非常に関心したものです。

生活はともかく、仕事の方は大変でした。技術移住の資格を取るために受けた試験の結果は良かったのです。教壇に立って教えるつもりでした。ところが、いざこちらに来てみると、教えるには英語力が低くて。結局、移住者向けの教室で数学と日本語を週2回、6年間教えました。来豪4年目に好きなビートルズが縁でイギリス移民3世の夫と知り合い、結婚しました。

――日豪の交流に携わることになったきっかけは?

88年にゴスフォード市が東京都江戸川区と姉妹都市提携を結びました。その時に日本語ができる人を探していて、私に白羽の矢が立ったんです。当時のゴスフォード市長にお願いされて「じゃあ10年だけやります」って言って、ボランティアで通訳をしたり仕事として翻訳をしたり。それからもう30年近く関わっています。姉妹都市提携が実を結び、ゴスフォードには「江戸川庭園」というきれいな日本庭園が整備され、ゴスフォードの若者が毎年、日本に行くスポーツ・文化交流の事業も続いています。

98年には「環太平洋協会」(ソサエティ—・オブ・アジアン・パシフィック・セントラル・コースト=SOAP)という非営利団体を設立し、2008年まで理事長を勤めました。江戸川区だけではなく、日本各地との交流の橋渡しをさせて頂いています。

創立当時から理事長を務めた「環太平洋協会」の会合で
創立当時から理事長を務めた「環太平洋協会」の会合で

――06年に1作目の小説『地上50センチの世界』を出版しました。

ノース・ゴスフォードの自宅近くで愛犬と散歩する松平さん
ノース・ゴスフォードの自宅近くで愛犬と散歩する松平さん

VIC州北部にある「オーストラリアで最初の米農場」の看板

VIC州北部にある「オーストラリアで最初の米農場」の看板

高須賀穣にちなんで名付けられた道路「タカスカ・ロード」

高須賀穣にちなんで名付けられた道路「タカスカ・ロード」

これまで「ぜいたくしなくてもいい。本があればそれでいい」という生活をしてきました。でも、人生に何か残したいと考えて、物語を書いてみたんです。主人公はハンナという当時飼っていたゴールデン・リトリバーで、犬の視点から家族の人間模様、日本人とオーストラリア人の考え方、文化、教育の違いを描きました。

13年に出版した2作目の小説『天へ落馬して』は、かつてゴスフォード郊外にあったオールド・シドニー・タウン(注:現在は閉園)でアルバイトをしているイギリス人女性が、日本の江戸時代にタイムスリップするというストーリーです。オールド・シドニー・タウンはイギリスの植民地時代の生活が体験できる歴史テーマ・パークでした。そこで日本人観光客向けに同じ時代の日本史の出来事について書いたことがあるのですが、その経験が創作のヒントになりました。

――昨年上梓した3作目『穣の一粒』は、明治時代にオーストラリアで初めて稲作を始めた人物が主人公です。

20年来通っていた「鱒屋」(注:シドニーの日本食レストラン)の創業者である定松勝義さんに、高須賀穣について「書いてみませんか」と言われたのが、取材を始めたきっかけです。『天へ落馬して』を読んだ定松さんが、「あなたには書ける」と太鼓判を押してくれたんです。

14年の12月に高須賀の出身地、愛媛県松山市を訪れました。市電に乗って高須賀の故郷を周りながら、松山市役所や愛媛県庁で当時の史料や海南新聞(現在の愛媛新聞)の記事を読み漁りました。

高須賀は日本で国会議員を2期務めた後、オーストラリアで日本の米作りを伝えた人物です。本人は晩年、日本に帰国するのですが、子孫をオーストラリアに残しました。長男は、ハントリー郡の議員を7年間務め、その間の1年は郡長を務めました。次男は、第2次世界大戦にオーストラリア兵として従軍しています。長女は、11年間小学校の教師として働いています。当時の社会では考えられないことです。日本人が白人の子どもたちに教えたのですから。このように子ども3人が、当時の白豪主義の中で信じられない活躍をしています。

愛媛県での取材の後、オーストラリアに帰国してからは、VIC州にマレー・ワターズさんとノーナ・ラットクリフさんという高須賀の2人の孫を訪ね、話を聞きました。高須賀が当時、田を耕した土地には「タカスカ・ロード」という道路が通り、「オーストラリアで最初の米農場」という看板が掲げられています。

松平さんの3作目「穣の一粒」。シドニーの紀伊国屋書店で近日発売予定
松平さんの3作目「穣の一粒」。シドニーの紀伊国屋書店で近日発売予定

『穣の一粒』では、恵まれた境遇のすべてを投げ打ってオーストラリアに渡り、逆境の中で米作りを成功させた明治時代の日本人の精神力の強さと、その時代の躍動感に焦点を当てました。なぜそこまで苦労して白豪主義のオーストラリア社会に溶け込み、稲作を通してこの国に貢献しようとしたのか。明治の男の矜恃と、それを支えた女の強さを伝えたいと思います。

――これまでのオーストラリア生活を振り返って思うことは?

オーストラリアへの移住を決めたのは、人生の正しい選択だったと思います。この国でさまざまな人々に出会い、自分が日本人であることに誇りを持てるようになりました。日本の素晴らしさは、日本にいるとなかなか分かりません。日本の外に住んでみて、日本人の生き方や考え方がよく分かるようになりました。それが、オーストラリアに来て一番良かったと思えることです。

高須賀と彼を支えた妻のように毅然として日本人としての誇りを持ちたいものです。これからも姉妹都市事業やスポーツ・文化交流、本の出版などを通して、日本とオーストラリアをつなげる活動を続けていきたいですね。

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