オーストラリアで今を生きる人 荒金育英さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.20 荒金育英さん

次世代のために踏み台になる

大阪の高級ホテルでシェフとして研鑽を積んだ後、1980年代にワーキング・ホリデーで来豪した。現在では、メルボルンでも有数のトップ・シェフとして活躍し、「きんさん」の愛称で親しまれている。飲食のプロデューサーとして数々のレストランのオープニングを手がけたり、日本とオーストラリアの食材や酒を双方に紹介したりと、幅広く活動している。(聞き手:守屋太郎)

――子どもの頃から料理人になりたいと考えていたのですか?

出身は兵庫県尼崎市です。絵を描くのが好きだったので、将来の夢は画家になることでした。調理に興味を持ったのは、中学3年生の時、森村桂さん(注:代表作「天国に一番近い島」で知られる日本の作家)の「お菓子と私」という本を読んだのがきっかけです。

いろんなお菓子にまつわるエピソードをレシピとともにつづる作品なんですが、その中で紹介されていたバナナ・ケーキを作ってみました。それで、作ったケーキを家族や周りの人に食べてもらったら、とても喜んでくれたのがすごくうれしくて、料理の素晴らしさに目覚めたんです。

料理人の道に進もうと決めて、中学を卒業したらすぐに働こうと考えました。でも、親は僕を塾に通わせ、受験勉強をして当然、大学に進学するものだと考えていました。なんとか親を説得して、高校だけは卒業するということで了承してもらいました。高校時代は、早く技術を身に着けたかったので、八百屋や鮮魚店で食材の切り方を学ぶなど飲食関係のアルバイトに明け暮れていましたね。

卒業後、大阪のロイヤル・ホテルに入り、フランス料理のシェフとして修業しました。そのうち、お客さんへの対応が良いという評価をいただいて、ホテル内の鉄板焼きセクションに配属されました。フレンチの料理人を目指していましたから最初は嫌でしたが、鉄板の上で料理を作りながら目の前のお客さんと直接触れ合って会話をするのが、とても楽しかったんです。

――歌手の矢沢永吉さんとの出会いが運命を変えたとか。

昔から洋画をよく見ていて、食事のシーンがとても楽しそうに描かれているのが印象的でした。それに比べて、日本での外食は接待も多くて、堅苦しいなと思っていました。また、外国人のお客さんもよく鉄板焼きを食べに来ていたのですが、英語ができないのでコミュニケーションが取れなくて、もどかしく感じていました。

そんな頃、私自身もファンで憧れていた矢沢さんが、よく鉄板焼きを食べに来てくれていました。ある日、「海外は面白いですか?」って聞いてみたんです。すると矢沢さんは「面白いから、絶対行ったほうがいいよ」って言ってくれました。すぐにホテルを退職して、ワーキング・ホリデー・ビザでオーストラリアにやってきました。1987年、25歳の時でした。

――なぜ他の国ではなく、オーストラリアを目指したのですか?

フレンチの料理人をやっていましたからフランスも考えましたし、アメリカもいいなと思いました。でも、周りで誰も行ったことのない、全く知らないところに行きたいと思ったんです。それで、日本から一番遠く離れたオーストラリアのメルボルンに決めました。

その頃のオーストラリアは、日本から見るとはるかな異国で、航空券もカンタス航空の直行便で往復49万円、シンガポール航空の片道で29万8,000円もしました。インターネットに海外の情報が溢れている今と違って、当時は事前に情報を調べることもできませんでした。英語は全く話せませんでしたが、若かったし、何も知らない分、怖いと思うこともありませんでした。

最初は、メルボルン市内のコリンズ・ストリートにある老舗の日本料理店「テッパンヤキ・イン」で働きました。日本では都会育ちでしたので、当時のオーストラリアの田舎っぽい雰囲気がとても気に入り、すぐに永住権を取得しました。今と違ってメルボルンは人口も少なくて、のんびりとしたとてもいい街でしたよ。

――来豪から約30年、現在ではメルボルンを代表するシェフの1人として活躍されています。料理長を務めたメルボルンのフュージョン料理レストラン「タクシー」が、日刊紙「ジ・エイジ」のレストラン評価本「グッド・フード・ガイド」で2006年の「レストラン・オブ・ザ・イヤー」を受賞するなど高い評価を受けています。

TAS州ホバートの高級レストラン「ザ・グラスハウス」のキッチンで
TAS州ホバートの高級レストラン「ザ・グラスハウス」のキッチンで

食のイベントで「フレンチの鉄人」坂井宏行さん(右)と

食のイベントで「フレンチの鉄人」坂井宏行さん(右)と

テッパンヤキ・インで5年ほど勤めた後、いったん日本に帰っていました。鉄板焼きの店を経て、尼崎で自分の店を経営していましたが、阪神淡路大震災で全てを失ってしまいました。そんな時、メルボルンでお世話になった山田耕二氏(現在、秋田ジャパニーズ・レストランのオーナー)から「きんちゃん、大変だったね。もうメルボルンに戻っておいでよ」という温かいお言葉と航空券代1,000ドルの小切手を送っていただいたんです。涙が出るほどうれしかったことを覚えています。それでまたオーストラリアに戻り、メルボルンにオープンしたクラウン・カジノから声がかかって、働くことになりました。

その後、新しい店を開業し、鉄板焼き店、カフェ、フュージョン料理のレストランなどを経て、2004年から5年間、「タクシー」の料理長を務めていた時、「レストラン・オブ・ザ・イヤー」を頂きました。ラッキーだったんですよ。当時はまだ「和食に刺激を受けたフュージョン料理」というのは、誰もやっていませんでしたから。

これまで、良い友達や知り合いに本当に恵まれてきたと思います。日本人としての感性も、非常にプラスになりました。オーストラリア人のシェフは、日本食はシンプルだから「食材を切ればいいだけだ。誰でもできる」と考えている節がありましたが、「料理をどう見せるか」にこだわりました。野菜のむき方やソースの作り方、ジビエ(野生の鳥獣)のさばき方などのフレンチの知識も役に立ち、「この人は違うな」と見てもらえるようになりました。

現在では、ホバートのウォーターフロントに昨年オープンしたダイニング・ラウンジ・バー「ザ・グラスハウス」のエクゼクティブ・シェフ(総料理長)を務めながら、タスマニアの新しいカフェのオープニングに携わったり、ブリスベンで開かれる「イノベーション・アンド・インベストメント・サミット」(注:QLD州に先端分野の投資を呼び込むための国際会議)のアナスタシア・パラシェイ州首相主催の夕食会(4月27日開催)で坂井宏行さん(注:テレビ番組「料理の鉄人」で知られる日本の著名シェフ)とともに約600人のお客さんに料理を作ったりと、レストランのプロデュースや食にまつわるさまざまなイベントに関わっています。シドニー・オペラ・ハウスで来年8月、日本から4人のトップ・シェフをお呼びして開く大規模なイベントのプロジェクトも進行中です。

また、自分の店として経営しているメルボルンの炭火焼きグリルのレストラン「ワッショイ・バー・アンド・グリル」では、月替りで1種類ずつ日本酒をプロモーションしています。高知県観光大使に任命され、高知県産ゆずなどの販売促進にも関わり、日本の美味しい酒や食材の紹介にも力を入れています。アルツハイマー病や乳がんの患者さんを支援するイベントで料理を作るなどチャリティーの活動も多くなっています。

――オーストラリアの食文化や食材についてどう感じていますか?

食文化は非常に豊かになりましたね。国土が広大で、その土地によって旬の異なる食材も手に入ります。食材の品質も良くなってきました。日本の食材をオーストラリアに紹介するだけではなく、オーストラリアの素晴らしい食材を日本に広めることにも力を入れています。

あるレベル以上に達した料理人は、よりシンプルなものを追い求めるようになります。オーストラリアでもそれができる時代になってきました。そうしたニーズが高まっているからこそ、良い食材に火と水だけを使ったシンプルな日本料理が流行っているんです。これからも日本料理はオーストラリアでもっと普及していくでしょう。

――きんさんにとって、料理の魅力とは?

お客さんの笑顔です。メルボルンで最初に働いた鉄板焼き店で、お客さんにビールを勧められたのですが、「仕事中ですから」と断ったんです。その時、親方に「なんで飲まないの?お前が楽しまなくてどうするの」って言われました。それで気付いたんです。こっちが堅苦しく仕事していたら、お客さんも楽しいはずがないって。

――今後の人生で成し遂げたいことは?

食を通して、オーストラリアと日本をもっと近付けたいと思います。日本のおいしい食材をオーストラリアに紹介するとともに、オーストラリアの素晴らしい食材を日本に紹介していきたいです。チャリティーのイベントにももっと参加したいですね。

――オーストラリアで夢を実現しようとがんばっている若いシェフに、ひと言お願いします。

料理は終わりのない世界です。何でもチャレンジしてほしい。そして、お客さんと話して、料理を楽しんでほしい。僕は一番良い時期に、良い体験ができてラッキーでした。これからはその経験を人に伝えていきたいと思います。次のジェネレーションが良くなるなら、僕たちの世代を踏み台にして、もっと上を目指して欲しいですね。

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