オーストラリアで今を生きる人 渡部重信さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.23 渡部重信さん

人びとが安堵できる礼拝らいはいの場を提供したい

20代で画家を目指してフランスに渡ったが、夢はかなわず、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶となった。海外に教えを広める「開教使」としてカナダで約10 年間活動した後、2000年に来豪した。以来、「カウラ・ブレークアウト」(NSW州中部カウラの捕虜収容所で1944年8月、決起して脱走した日本兵231人と豪州兵4人が死亡した事件)の追悼法要に参加したり、豪州に眠る日本刀を返還しているカトリック神父を支援するなど、かつて戦火を交えた日本とオーストラリアの歴史に正面から向き合っている。(聞き手:守屋太郎)

――子どもの頃は将来何になろうと考えていましたか?

能登半島の先端にある石川県珠洲市の蛸島という海辺の小さな町で生まれ育ちました。実家が寺だったわけではありませんが、同じ浄土真宗でも宗派が違う東本願寺の門徒でした。小さい頃から仏壇に手を合わせて育ちましたが、特に将来僧侶になろうとは思っていませんでした。

地元の高校に通っていた頃から、水彩画、油絵、デッサン、墨絵などとにかく絵を描くことが好きでした。画家になろうと思って美大を目指しましたが志望校に受からず、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の龍谷大学(京都市)の法学部に進学しました。大学時代も美術部で絵ばかり描いていました。中でもフランスの印象派の絵が好きで、法学部なのにフランス語の勉強に力を入れていました。

大学卒業後は地元の小学校の教員に就きました。しかし、フランスに行って絵を描きたいという夢をあきらめることができず、「このまま田舎にいたら夢が遠ざかってしまう」と思いました。1年で教師をやめて、フランス留学を決意したんです。

パリから200キロほど西に行ったところにあるアンジェ大学で、フランス語を学びながら、街の絵ばかり描いて過ごしました。友人の紹介で、1年間描きためた絵の個展を開いてもらいました。2点だけですが自分の作品が売れたのはうれしかったです。それで1つの区切りを付けて、資金も使い果たしたので、日本に戻りました。

3月11日、シドニーで行われた東日本大震災5周年追悼式典で読経を行う渡部さん
3月11日、シドニーで行われた東日本大震災5周年追悼式典で読経を行う渡部さん

――僧侶になろうと思ったきっかけは?

フランスにいた時、熱心なカトリック教徒の友人らに「一緒にマリア様にお祈りをしましょう」と誘われたのですが、僕は仏教徒だからと言って断ったことがありました。ところが、その時に仏教について質問され、根本的な教えについて何も答えられなくて、悔しい思いをしたんです。

そんな経験もあったので、フランスから帰国後に、仏教を海外に広める「開教使」という仕事があると聞いて、やってみようと思いました。開教使の資格を得るには、まず僧侶にならなければいけませんので、京都にある西本願寺の中央仏教学院に通いました。昼は学校で仏教の勉強、夜は学生時代に働いていたそば屋さんで夜遅くまでアルバイトという忙しい生活でした。僧侶になると、住職になれる本願寺派の教師資格を取り、その後、開教使課程を受講し海外で開教使を勤めることができる資格を取得しました。

そうしてようやく開教使として、1991年にカナダに派遣されました。最初に赴任したのはアルバータ州のレスブリッジという街です。ここは第2次世界大戦中に日系人が強制移住させられた所で、着任当時は寺がいくつもありました(現在は一ヶ寺に統合)。それから、果樹園を営む日系人が多いブリティッシュ・コロンビア州のケローナという街に転勤になり、2000年まで合計10年近くカナダに住んでいました。レスブリッジ駐在当初通っていた英語学校で今の妻と出会って96年に結婚し、カナダで長男と長女を授かりました。

一方、浄土真宗本願寺派オーストラリア開教事務所は、当時駐在していた日系企業の社長さんが発起人となって93年に設立されていました。2代目の所長(開教使)が急に実家の寺を継ぐことになったので、本部からカナダに電話がかかってきて「オーストラリアに行くか?」と言われたんです。短い人生だから、地球の反対側に行ってみるのもいいかなと思いました。00年8月、シドニー五輪開幕まであと1カ月というタイミングでオーストラリアにやって来ました。

――それから15年以上にわたり、日豪和解の活動に力を入れてきました。

シドニーに来てすぐにカウラの追悼法要に参加し、それ以来毎年行っています。歴史を知れば知るほど、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に従って死に場所を求めた兵士の方々の切ないお気持ちを考えます。この悲劇を忘れてはいけない、風化させてはいけないと感じています。

カウラ事件をめぐる戦後の日本とオーストラリアの協力関係については、以前は「和解」(Reconciliation)という表現が使われていましたが、現在は「和敬の追悼式典」(Service of Respect)という言葉に変わってきています。日豪関係は互いを許す段階から、敬い合う時代に入っていると言えるでしょう。

6月16日、マルコム・ターンブル首相(右)主催の夕食会にて
6月16日、マルコム・ターンブル首相(右)主催の夕食会にて

オーストラリアには今も、兵士が戦利品として戦地から持ち帰った日章旗、軍刀などが眠っています。09年には、それらを日本に返還する運動をしているポール・グリンさんというカトリックの神父さんのご縁で、4月25日のアンザック・デー(戦没者追悼の日)に合わせ始まったNSW州北部リズモアで開かれる平和の式典「リメンバリング・アンド・ヒーリング」(追憶と癒やし=Remembering and Healing)に参加して、読経を行っています。その初めての式典で日章旗を預かり、在シドニー日本国総領事館を通して、持ち主の日本兵の遺族にお返しするのをお手伝いしました。翌年、翌々年には軍刀を預からせて頂きました。また、14年末にシドニーで起きたカフェ立てこもり事件、15年11月のパリのテロ事件の際も、シドニーのセント・メアリーズ大聖堂で行われた追悼集会に参加して、さまざまな宗教や宗派の聖職者と共にみんなで祈りを捧げました。

――普段はどのような活動をしていますか?

シドニー北部リンドフィールドにある開教事務所で、毎週日曜日の午前11時から「礼拝(らいはい)」を行っています。メンバーだけではなくどなたでもお参りしていただけます。葬儀や法事、レストランの開店時の法要、仏式の七五三の儀式なども執り行っています。

ロイヤル・ノース・ショア病院、ノース・ショア・プライベート病院、マーター病院(いずれもシドニー北部)では、ボランティアで仏教徒の入院患者をお見舞いしています。

オーストラリアでは、公立学校にも宗教のクラスがあります。開教事務所の近くにあるリンドフィールド・イースト小学校では毎週1回、仏教を習いたい児童を対象とした宗教のクラスで教壇に立っています。

僧侶としての活動の他には、シドニー日本クラブ(JCS)のニュースレター「JCSだより」の編集長を08年から務めている他、キャメレー(シドニー北部)の「シドニー日本語土曜学校」で中学生に国語を教えたり、シドニー日本人会の水泳部長を務めたりしています。

――オーストラリアに来てからの人生を振り返ってどう思いますか?また、今後の目標は?

妻と小さい子ども2人を連れてカナダからやって来て、オーストラリアで更に2人子どもが生まれたので、あっという間の目まぐるしい16年でした。カウラやリズモアでさまざまな人と知り合いになれて、宗教の枠を超えて追悼の想いを共有できたことのは素晴らしいことです。

2009年4月24日、リズモアで行われた平和式典。オーストラリア兵が持ち帰った日本兵の日章旗の返還を受けた
2009年4月24日、リズモアで行われた平和式典。オーストラリア兵が持ち帰った日本兵の日章旗の返還を受けた

オーストラリアは新しい国です。恵まれた環境の中で多文化のコミュニティーが成り立っています。文化や宗教は違っても、新しい土地で生活する上で感じることは共有できるのではないでしょうか。子どもたちが育つにも最適な環境だと思います。この平和な環境を享受している宗教家の責任として、困っている人にいかに手を差し伸べられるかを考えていきたいと思います。

オーストラリアに開教事務所を設立した当初の目標は、シドニーに寺を建てることでした。生活コストや不動産価格がどんどん高くなっていて、実現に至っていません。初代の所長(開教使)が赴任してから約25年が経ちましたが、寺を建立するという夢は今後も抱いていきたいと思います。宗教家として、人びとが訪れたら安堵できるような礼拝の場を提供したいですね。

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