オーストラリアで今を生きる人 橋本邦彦さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

橋本邦彦さん

人生、予測できないし

しちゃいけない

劇団四季での俳優活動、有名音楽家のレップ(代理人)やジャーナリストの経歴後、26年前にシドニーに移住。俳優として「アンブロークン」(2014年)をはじめ数々の映画やドラマに出演する傍ら、音楽祭の運営、ミュージカルやオペラの台本執筆・翻訳、機内放送のDJ、ナレーター、声優、プロデューサーを務めるなど活動領域に境界はない。2月にシドニー在住の写真家・金森マユさんが手がけた演劇「村上安吉〜スルー・ア・ディスタント・レンズ」(第2次世界大戦中にオーストラリアの収容所内で死去した日本人写真家・村上安吉さんを描いた作品)で村上を演じたほか、3月には自らが書いた戯曲「カウラから遠く離れて」がオーストラリア作家協会が選ぶ賞の戯曲・シナリオ部門で「ナショナル文学賞」を受賞、今年も稀有なマルチタレントを惜しみなく発揮している。(聞き手:守屋太郎)

 

——日本時代の話を聞かせてください。学生のころから俳優になろうと決めていたのですか?

いいえ、大学は法学部に進み、損害保険の会社に就職したんです。ただ、芝居が好きで、学生時代から演劇をやっていて、自分で言うのは何ですが才能はあると思っていました。そこで特技を生かそうと、劇団四季のオーディションを受け合格し、即、団員になりました。四季では団員になると舞台に出るごとにしっかりしたギャラがもらえたので、俳優で食べていくことができました。1980年代のことです。

物を書くことも得意だったので、芝居をやりながら自分で編集プロダクションを立ち上げました。出版大手マガジンハウスの雑誌や婦人画報社などから仕事をもらい、ジャーナリストとして記事を書いたりしていました。有名人をインタビューすることも多かったですね。当時から英語はできたので、海外のセレブを取材することもできました。

そこから仕事の幅が広がり、米国の有名作曲家・指揮者レナード・バーンスタインのレップを引き受けることになりました。そして彼が85年に開いた原爆投下40周年の「広島平和コンサート」も実現しました。バーンスタインは強いオーラを持つ人物で、彼はその後の私の人生に強い影響を与えました。

四季の仕事は旅公演が多いので、両立が難しくなってきました。自分の会社の仕事に専念するために四季は退団しましたが、在籍した4年間に芝居のさまざまなことを教えてもらいました。

 

——劇団四季での経験が俳優としてのキャリアの土台になったわけですね。それにしても俳優、ジャーナリスト、音楽家のサポートと当時から非常に幅広い活動をしていました。そこでなぜ、オーストラリアへ渡ることになったのですか?


日本でのジャーナリスト時代、歌番組「夜のヒットスタジオ」の司会・芳村真里さんと撮ったポラロイド写真

広告関係で付き合いのあったニュージーランドの旅行会社から、インバウンド(現地手配)業務をしないかという話があり、マガジンハウスからはシドニー特派員の話が出てきたんです。それで「1年くらい海外で自分を見つめ直すのもいいかな」と89年に来豪しました。事務をやりながら、声優やナレーションの仕事も始めました。当時はバブルの絶頂期で、日本関係の仕事はたくさんありました。例えば、オーストラリア産牛肉「オージー・ビーフ」の日本向けプロモーション・ビデオ(PV)のナレーションの仕事。英語版をただ翻訳するのではなくて、うまく映像に合わせて英語の声にボイス・オーバー(声をかぶせていく作業)をしていくんです。

シドニーの生活は居心地が良くて、「取得しておいて損はない」と思い、永住権を自分で申請しました。ビザの面接ではボイス・オーバーなどの特殊職でいかにオーストラリアに貢献しているかをアピールしました。


シドニーで上演された「太平洋序曲」に主演した橋本さん

オーストラリアに移り住んでからも出張ベースで日本の仕事は続けました。多い時は1年に5、6回は日本に行っていましたね。バーンスタインは90年にガンで他界してしまうのですが、彼が札幌で創設した「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」(PMF=世界の若手音楽家育成のための国際音楽祭)に携わったり、ミュージカルやオペラの台本・歌詞の翻訳・ナレーターを務めたりしました。ミュージカルの名作「ウエスト・サイド物語」の作詞を手がけたスティーブン・ソンドハイム(1930年〜)という有名な作詞・作曲家がいます。彼のミュージカルの1つ「太平洋序曲」のシドニー公演で私は主役を演じたのですが、宮本亜門(日本の演出家)が日本の新国立劇場で演出する際、台本と歌詞の翻訳も依頼されました。これはニューヨークでも招待公演され、ソンドハイムとも仕事をしましたが、宮本亜門とソンドハイムも、バーンスタインと並んで私が最も影響を受けた人物です。

 

——音楽祭のマネジメント、ミュージカルやオペラの台本、出演といった海外での活動の傍ら、オーストラリア国内では数々の映画やテレビ・ドラマなどで日本人男性を演じてきました。最近では、「ウルヴァリン」(2013年)や「アンブロークン」といったハリウッド映画の大作に出演していますね。

でも小さい役ですよ(笑)。出演回数としてはオーストラリア映画の方が多いです。私が出た主なオーストラリア映画は「ミュリエルの結婚」(1994年)、「ヘブンズ・バーニング」(1997年)、「ココダ」(2006年)、「ザ・テンダー・フック」(2008年)、「シスターズ・オブ・ウォー」(2010年)、「プリデスティネーション」(2014年)などがあります。

来豪当時に始めた声の仕事では、カンタス航空の機内放送のラジオDJを25年間務めたので、馴染みのある読者も多いかもしれません。英国航空やブルネイ航空でもDJをしていました。BBC(英国の公共放送)の野生動物のドキュメンタリー番組の日本語吹き替えも担当しました。声優としては、ワン・パターンにならないように、7種類の声を、演じるタイプによって使い分けるんですよ。

以前はSBS(オーストラリアの多文化公共放送)でも放映された、ニュー・サウス・ウェールズ文部省制作の「日本語だいすき」という教育番組のプロデューサーを務め、日本文化紹介のコーナーを担当したり、出演したりしていました。ここ数年は「祭り・イン・シドニー」(シドニーで毎年開かれる日本の文化・芸能の祭典)の司会も務めています。

 

——プロフィルを見ると、そうしたお仕事はほんの一部で、ほかにも数えきれないほどの映画やドラマに出演しています。俳優として一番苦労する点は何でしょうか?逆に、一番嬉しいと感じるのはどんな時ですか?

俳優という仕事は、いかに役になりきるかが大切ですが、まずは「モノマネ」なんです。そこで、人を観察することと、真似することが重要。だから私もどこの国に行っても見よう見まねで、すぐに言葉を覚えてしまうんです。英語は日本にいた時から話せました。そうは言っても、母国語ではないので、やはり英語で台詞を覚えるのが一番大変です。

映画の撮影現場というのは時間が限られていますから、臨機応変に対応できなければ俳優は務まりません。せっかく台詞を覚えても、監督の即興に合わせてすぐに演技を変えられる能力が求められます。「アンブロークン」で敵兵の捕虜を尋問する日本軍の士官を演じた時も、同じようなことがありました。微妙なタイミングで機転を効かせて、監督のアンジェリーナ・ジョリーから「イッツ・ワンダフル!」(素晴らしい演技だわ!)と褒められて。もうメロメロになってしまいましたよ(笑)。

その上、自分が出た映画が当たったり、舞台が高く評価されたら、さらに最高ですね。舞台では「オーラが出ている」、そんな風に言われた時は嬉しいです。

 

——プライベートの楽しみと、オーストラリア生活を振り返って思うことを聞かせてください。

楽しみは犬の散歩(笑)。シーズーとマルチーズの混血を飼っています。あとジム通いです。

英語ができる日本人の声優はなかなかいないので、日本に行けば重宝がられるとよく言われます。でも日本に仕事で行くと疲れるんですよ。理想を言えば、日本で稼いでオーストラリアでリラックスするのがいいんでしょうけど。

世界のいろんな国に行くと、オーストラリアの良さを改めて感じます。英国はまだ人種差別意識が残ってると感じるし、米国は金次第でウィナー(勝ち組)かルーザー(負け組)を分ける傾向がある。フランスは優秀な芸術家を受け入れるけど、まずフランス語が話せるのが前提。日本は「世間体」があって窮屈な感じがします。でも、オーストラリアでは有名な女優でも気を使わずに普段着でその辺を歩いていて、レイド・バックした(素朴な)、のんびりできるところがいい。

 

——今後の人生の目標は?

これからもずっと映画や舞台でいい仕事をしていきたいと思います。でも、以前インタビューした時に高野悦子さん(映画プロデューサー、岩波ホール総支配人。2013年没)がおっしゃった「人生は予測なんかできませんし、予測してはいけません」という言葉をずっと心に刻んでいるんです。本当にいろいろな経験をさせてもらったので、悔いることはありません。ただ毎日をいきいきと輝いて過ごしていければ、幸せですね。

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