オーストラリアで今を生きる人 ベネットめぐみさん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

ベネットめぐみさん

木は手をかけるほど可愛くなる


在シドニー日本国総領事公邸で開かれた外務大臣賞の授賞式で夫のブライアンさんと(Photo: Moto)

日本では学生時代から師範を務める華道家だったが、1970年代にオーストラリアへ渡航してから盆栽の魅力にのめり込んだ。長年にわたりオーストラリア人に盆栽を教え、シドニー北部で盆栽園を運営した。2007年には日本文化の普及に寄与したとして、日本の外務大臣賞を受賞している。(聞き手:守屋太郎)

 

——子どものころから生け花や盆栽に興味があったのですか?

出身は東京都品川区ですが、3歳から7歳まで長野県松本市の郊外にある有明という農村で暮らしていました。父は製薬の技術者をしていて、東京の工場が空襲に遭ったので信州に転勤になったんです。美しい山と緑に囲まれた環境で、植物にも興味を持つようになりました。小学1年生の時、東京に戻り、初めてお金というものを見てびっくりしました。それくらい、大自然に恵まれた田舎の生活にどっぷり浸かっていたんですね。

子どものころは、静かな、恥ずかしがり屋でした。特に将来の夢もありませんでした。中学1年生の時、母親が「勉強が忙しくなる前に何か趣味を持てば」と言ってくれて、生け花の稽古に通うようになりました。愛知県渥美半島の母の実家で、ハサミを持って盆栽をいじる祖父の姿をよく見ていましたが、後でのめり込むようになるとは思いもしませんでした。生け花の方は、大学1年生の時に師範の資格をいただきました。いわゆる「お花の先生」です。

高校の時から文学に興味があり、詩や随筆を書いたりしていたので、明治学院大学の英文科に進みました。自由な校風の中で英文学の大家の先生に学び、良い経験をしました。書くことが好きで、卒業後は演劇やドラマのシナリオ・ライターを目指していたんです。夜間にシナリオ・ライターの養成学校に通い、卒業後は仲間とシナリオを書いていました。結局、実現はしませんでしたが、もう少しでテレビのドラマに採用されそうな所までは行ったんですよ。

それだけでは収入がないので、女子校で非常勤の英語講師を勤め、生け花教室でも教えていました。女子校では演劇部の顧問になってコンクール用のシナリオも書きました。

 

——もしプロのシナリオ・ライターになっていたら、全く違う人生を歩んでいたかもしれません。

大学卒業後、6年くらいシナリオを書きながら英語や生け花を教える生活をしていました。そのころ、旅行も好きだったので、海外を見てみたいと思うようになりました。1966年にオーストリアのザルツブルグで開かれたインターナショナル・ユースホステル協会の大会に参加しました。初めての外国でした。大会ではボランティアの通訳や生け花のデモンストレーションなどをしました。

オーストラリアと接点ができたのは、68年に日本で開催されたインターナショナル・ユースホステル協会の大会でした。協会の発刊物に記事を書くボランティアの記者を務めたのですが、その時にオーストラリアから参加していた高校の美術の先生と知り合ったんです。先生とはその後文通友達になり、ある日、オーストラリアの珍しい「ネイティブ・フラワー」(原産の花)の本を送ってくれました。その本にはバンクシアやプロティア、カンガルー・ポーといった見たこともない美しい花の写真が載っていて、衝撃を受けました。その魅力にすっかり引き込まれ、「オーストラリアに行きたい。オーストラリアの花で生け花をしてみたい」と考え始めたのです。

両親に気持ちを打ち明けたところ、父は「1年くらいなら行っていいよ」と言ってくれました。当時、ワーキング・ホリデー制度はありませんでしたが、日本の生け花をオーストラリアに紹介するという名目で1年間の就労ビザを取得してシドニーへやってきました。1971年5月1日のことです。

 

——オーストラリアに来たのは生け花を教えることが目的で、その時はまだ盆栽は始めていなかったんですね。 

日本を発つ時、たまたま機内で、旅行に来ていたライド・スクール・オブ・ホーティカルチャー(TAFE=州立専門学校)の盆栽の先生のウェバーさんという人と知り合いました。オーストラリアに来てからも日本の盆栽の本に何が書いてあるかを英語で教えてあげたりしたんです。ウェバーさんも生け花を教えてほしいと言って、オーストラリアで最初の私の生け花の生徒にもなってくれました。

その後、生け花をしながら、宝石のギャラリーで説明文を日本人客向けに翻訳する仕事を始めました。その会社で2年目のビザを延長してもらい、3年目に永住権を申請することになりました。特に母は反対しましたが「行ったり来たりするから」と説得しました。ところが、永住ビザはなかなか取れず、そろそろ日本に帰ろうと思っていたころ、日本人の共通の友達を通して現在の夫のブライアンに出会ったんです。

申請していたビザがやっと取得できたのは、母が病気になったので日本に帰国していた時でした。その後、ブライアンが私の両親に会いたいということで、日本に来ました。そして、正式に婚約し、シドニーに戻って結婚式を挙げました。ブライアンはシドニーで会計士の仕事をしていたので、私はしばらく専業主婦をしていました。

盆栽にのめり込んだのは75年10月ごろからです。この年に開かれたオーストラリア初の盆栽大会のために、大会運営委員の人たちとのご縁で大会で使う盆栽の鉢を日本で買ってくることになりました。そして、大会の晩さん会でのラッフル(抽選会)で、13本の木が1つの鉢に入った「寄せ植え」という盆栽が私に当たったんです。その時のあいさつで、責任を感じた私は「盆栽を通してオーストラリアの人たちとの架け橋になりたい」と言ってしまったんです(笑)。

そのころ、盆栽を趣味にしていらした水谷さんというシドニー日本人学校の先生がおられて、オーストラリア人に盆栽を教えることになったんです。水谷先生は英語が得意ではなかったので、私が通訳をすることになったんです。ところが、通訳をしているうちに私も実技がしたいと思うようになりました。そこで、ウェバーさんと水谷さんの2人に師事して、正式に盆栽の技術を身に着けたというわけなんです。

翌76年には、サクラ・ボンサイ・スタジオというクラブを設立してシドニー日本人学校で第1回の盆栽展を開き、日本の盆栽展を通してオーストラリア人の愛好家に教えることができました。日本の盆栽の鉢や道具などの輸入も始めました。盆栽を教える傍ら、TAFEに3年間通って「ホーティカルチャー」(植物・園芸学)のコースを修了しました。卒業後はTAFEで盆栽も教えました。

盆栽を知らない人にその魅力を伝えたいと思い、88年にシドニー北部郊外のテリー・ヒルズで盆栽園を開園しました。数多くのテレビ番組や雑誌で取り上げてもらい、一般に盆栽を広めることができたと思います。99年には生徒が100人以上に増え「めぐみ盆栽会」(後にシドニー盆栽会に名称変更)を発足させました。2006年の「日豪交流年」には関連イベントとして盆栽大会を開催しました。収益をガン協会や子ども病院、盲導犬協会などに寄付してチャリティー活動にも力を入れました。07年には日本の文化である盆栽をオーストラリアに広めた功績が認められ、日本の外務大臣賞をいただきました。

 

——これまで40年以上にわたるオーストラリア生活を振り返って思うことは?

私を理解して支えてくれたブライアンの存在が大きかったと思います。盆栽も好きになってくれ、もともと会計士なので盆栽園の経営を見てくれました。「もし奥さんに才能があるのなら、手伝ってあげるのが主人の役目じゃないか」と彼は言ってくれます。

オーストラリアで本格的に盆栽を始めて今年で40年。盆栽園は昨年まで26年間経営しました。盆栽を通して、人と人のつながりが広がって、様々な人と出会えたことも嬉しいです。昨年からベルローズに場所を移し、息子のアレックスに後を譲りましたが、今も週4日は手伝いに行っていますし、盆栽教室も続けています。


盆栽教室で生徒に指導するベネットさん

 

——今後成し遂げたいライフワークがあれば教えてください。

「フィグ」(イチジクの木の種類)の木をいかに盆栽として育てるかを研究してきました。オーストラリアにはフィグの木が45種類もありますが、オーストラリアの人たちはフィグの木についてあまり知っておりませんし、植物図鑑もありません。趣味として「ボタニカル・アート」(植物画)を描き始めて12年ほどになるのですが、植物学の観点からフィグの木をボタニカル・アートの手法で描いた本を出版する計画です。また、自然との関わり、家族やオーストラリアの人たちとの関わりなど自伝も書いてみたいと思っています。

 

——盆栽の魅力とは何ですか?

植物は小さい時から大好きだったんですが、生け花は時間が経つと枯れてしまうので、寂しさを感じていました。しかし、盆栽は世話をすれば何百年も育ちます。自分が死んでも何代も後世まで残していけるんです。その一方で、若い木には可愛らしい魅力もあり、育つにしたがって品格や重厚感が出てきます。木を見ていると、小宇宙が感じられます。手をかければかけるほど、余計に木が可愛くなってきます。盆栽と一緒に生きられることは素晴らしいです。

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