オーストラリアで今を生きる人 小田村さつきさん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

小田村さつきさん

日本と西洋の違いを超え、文化の境界を広げたい


(Photo: Mayu Kanamori)

9歳の時から日本の伝統楽器、箏の修行を積んだ。1980年代に箏を広めるために海を渡り、四半世紀にわたり師範としてオーストラリアに箏の魅力を伝承。演奏家として、自由な発想でほかの和楽や西洋音楽のミュージシャンとコラボ演奏を行い、オリジナル作品を発表してきた。(聞き手:守屋太郎)

 

——9歳の時に初めて箏に触れて以来、箏一筋の人生を歩んできました。

長崎県の佐世保で生まれ育ちました。小さい時、頭の中には日本地図しかなく、将来海外に住もうとは思ってもみませんでしたね。当時から音楽が好きな子どもでしたが、芸術や音楽とは無縁の家族でした。ピアノを弾きたいと言っても、親は習わせてくれませんでした。田舎なので、普段から気軽に交響楽団のコンサートを聞きに行けるような環境ではありませんでした。

そんな小学3年生のある日、仲の良い友達が「今日はいっしょに遊べない」と言いました。友達は箏のレッスンに通っていたからです。当時の私には、箏の響きはとてもエキセントリックに聞こえました。それで「箏を習いたい」と親に言うと、箏の先生がたまたま父の知り合いで、母方の叔母が以前に使用していた箏があったこともあって、承諾してくれたんです。最初に音楽がやりたいという思いがあり、なんとなく始めたのが箏だったんです。

入門したのは「沢井箏曲院」という独創的なスタイルの流派でした。高校を卒業してすぐに上京し、創立者の故・沢井忠夫氏の自宅に住み込んで「内弟子」を4年間務め、85年には「師範」の資格を取得しました。

 

——オーストラリアを訪れたきっかけは?

沢井氏には海外に箏を広めたいという願いがあり、支部を創設するために「オーストラリアに行かないか」というお話をいただいたんです。しかし、英語は全くできませんでしたし、東京でずっとプロの箏曲家を目指していましたので、海外で箏を教えることには葛藤もありました。

ただ、9歳から20代前半まで箏一色の人生でしたので、このまま結婚して自由がなくなるのも面白くないとも思っていました。「外の世界も見てみたいし、オーストラリアでも行ってみようかな」と。

そんな経緯で1988年2月にオーストラリアに渡りました。シドニーを拠点に箏の教室を開設し、お弟子さんに教えるとともに、英語の学校にも通いました。同時に演奏家になりたいという希望もかなえるために、現地のミュージシャンとのコネクション作りも始めました。2年目に沢井箏曲院の支部を会社登録して、その責任者という形で永住権を取得しました。当時は数年で日本に帰るつもりでしたが、そのまま移り住んで現在に至る、というわけなんです。

 

——それ以来、師範として箏の普及に力を入れる傍ら、演奏家としては尺八奏者やフルート、和太鼓、クラシック、ジャズなどとても幅広いジャンルの音楽家とコラボしてきました。オーストラリアだけではなく世界中で演奏活動を行い、これまでにオリジナルCD3枚のほか数多くの競作も発表しています。

オーストラリアでの演奏家としての活動は、90年代初頭に開かれた「まつり」というコンサートに出演したことがターニング・ポイントになりました。オーストラリアの和太鼓グループ「タイコズ」の前身となった「シナジー」というパーカッションのグループと競演したんです。その時に知り合ったイアン・クレワースさん(現タイコズ・アーティスティック・ディレクター)を通して、さまざまなミュージシャンとの出会いが広がりました。

1枚目のオリジナル・アルバムは94年に発表した「ライク・ア・バード」です。オーストラリア政府の芸術振興機関「オーストラリアン・アーツ・カウンシル」が、レコーディング費用に補助金を出してくれました。日本人の演奏家と作曲家が手がけた日本の音楽のCDを支援してくれるなんて、なんてオーストラリアは寛容な国なんだろうと感動しました。


(Photo: Mayu Kanamori)

箏という未知の楽器に触れることで、ほかのアーティストたちは箏を新しい次元に導いてくれます。これまでに、作曲家でサキソフォン奏者のサンディー・エバンスさんが率いる「ゲスト8」、メルボルンの音楽集団「ウェイ・アウト・ウエスト」、現代音楽のグループ「エリシオン」、メルボルン在住の舞踏家ゆみうみうまれさんとのデュオ「シャシャテン」、打楽器奏者のトニー・ルイスさんとサンディー・エバンスさんとのトリオ「ワラタ」、箏とインドの打楽器、バス・トロンボーンのトリオ「PRRIM」のメンバーとしても活動してきました。

また、オーストラリア交響楽団をはじめとするクラシック音楽のオーケストラのほか、タイコズ、尺八奏者のライリー・リーさん、管楽器奏者のジム・デンリーさんやリンジー・ポーラックさん、打楽器・ピアノ奏者のエリック・グリズウォルドさん、シドニー在住のバイオリニストの後藤和子さん、シドニー在住の映像作家の金森マユさん、ディジュリドゥ奏者のマシュー・ドイルさんといった多様なジャンルのアーティストと競演させてもらいました。国内のさまざまなアートや音楽のフェスティバルに加えて、ベルリン、香港、ニューヨーク、英国、日本など海外の音楽祭でも演奏しました。

 


(Photo: Mayu Kanamori)

——これまでの音楽活動を振り返って思うことは?

日本でも異なるジャンルの音楽家とコラボしている箏の演奏家はおられます。しかし、そこは日本人同士なので習慣や考え方に共通の土台があり、ジャンルの違いという「バウンダリー」(境界)はあっても、それほど違和感はありません。例えば、日本の音楽には西洋にはない独特の「間」があります。日本人のDNAと言えるでしょう。
 ところが、オーストラリアをはじめ西洋の世界でほかのミュージシャンと競演するということは、音楽のジャンルの違いだけではなく、文化的バックグラウンドの相違というさらに大きな壁があるのです。いかにカルチャーのバウンダリーを乗り越えて箏の音楽性を実践的に生かしていくかが課題になります。「Music is where you’re from」(どのような環境に身を置くかによって音楽は変わってくる)という言葉があります。長年オーストラリアに住んだ日本の演奏家ならではの独自の視点で、日本と西洋の文化のバウンダリーを広げていきたいと考えています。

 

——今後の演奏活動の方向性は?

さまざまなミュージシャンと競演してきましたが、これまではずっとソロで活動してきました。しかし、これからは、オーストラリアで育ってきた箏の演奏家とのアンサンブル(複数による演奏)に力を入れていきたいと思います。

日本を離れて20数年、オーストラリアで活動してきましたが、もし私が死んじゃったらこの国の箏がそれで終わり、というのでは悲しい。オーストラリアに箏という音楽を植え付け、発展させていくために、今後は培ってきたものを次世代に継承していかなければいけません。師範として演奏家をしっかり育てるとともに、演奏家として曲も後世に残していきたいと思います。

西洋の次世代の音楽家に箏を移植していくためには、その過程を記録したドキュメンタリーの映像作品も作っていきたいと考えています。

 

——最後にオーストラリアで頑張っている若い世代の日本人にひと言メッセージを。

オーストラリアに来た当時、正直言って「演奏家になりたいのに、こんなところに来て」という思いはありました。箏曲の本場である日本にいなければ、自分の芸を磨くことができないという思いがあったからです。でも、オーストラリアの音楽家とぶつかって新しいモノを創造することで、自分なりに道を切り開いてきました。だから、今振り返って、オーストラリアに移り住んだことは後悔していません。

海外では自分の力で可能性を見つけなければ、誰も頼れません。まずは行動を起こすことです。アクションを起こさなければ、受け身でただ待っていても何も起こりません。志を持って、大きな目標に向かってチャレンジしてほしいと思います。

サバサバした性格と明るい笑顔が印象的だが、音楽と文化についての熱い語り口からは長年、西洋のミュージシャンとの競演から培った深い経験と、プロの箏曲家としての矜持(きょうじ)が感じられる。音楽が持つ可能性を広げ、日本と西洋の境界を超えて活躍する小田村さんのさらなる飛躍に期待したい。

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