マーベラス・メルボルン「2人のジョン」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第2回 2人のジョン

メルボルン発祥の地、エンタープライズ・ワーフ
メルボルン発祥の地、エンタープライズ・ワーフ

第2回は、ジョン・バットマンとジョン・パスコ・フォークナーという2人の悪漢によるメルボルンの開拓、植民開始の話である。

3人の船長によるメルボルン調査から約30年後の1834年。タスマニアでは全島の開発、分割はほぼ完了し、欧州からの開拓者たちは次の土地を探していた。ビクトリアはニュー・サウス・ウェールズ植民地の管轄下に置かれ、シドニーの総督は植民を許可していなかった。バットマンとフォークナーはタスマニア・ロンセストン市のパブ(現バットマン・フォークナー・イン)でビクトリアの不法植民を議論していた。

最初の開拓者ジョン・バットマン
最初の開拓者ジョン・バットマン

植民開始者ジョン・フォークナー

植民開始者ジョン・フォークナー

8月30日はメルボルン・デー

8月30日はメルボルン・デー

最初の不法移民者バットマンは1835年5月29日に帆船レベッカ号に乗ってメルボルン湾に入った。タスマニアでは土地収用を巡り、多数のアボリジニーを植民地政府が主導して虐殺したがバットマンはその1人である。メルボルン湾を探検した後、ジーロンから徒歩で探検しながらヤラ川に達した。6月6日にバットマンは、原住民族アボリジニーのウルンジェリ部族からメルボルンを含む広大な土地を「バットマンの契約(Batman’s Treaty)」と言われる詐欺同然の方法で手に入れた。一時期バットマンは、メルボルンをバットマニアという名前にしていた。

フォークナーの移民船エンタープライズ号は、8月29日にメルボルン湾からヤラ川に入った。現在のエリザベス通りはメルボルン渓谷の谷底にあたり、飲用可能な川が流れていたため、移民船はクイーンズ橋たもとにあった滝The Fallの側に停泊。8月30日、植民者たちは家屋、倉庫を建てるために、本格的に上陸を開始した。フォークナー一行は、メルボルンの最初の植民者となった。毎年8月30日はメルボルン・デーとして上陸地エンタープライズ・ワーフで式典が行われる。

フォークナーは、フリンダース通りを東西の主要通り、エリザベス通りを南北の基軸に据え本格的に街づくりを開始。フォークナーは、メルボルン初の宿屋を開業し、1838年にコリンズ通りでメルボルン最初の新聞『メルボルン・アドバタイザー』を発行した。

バットマンは38歳の若さで不遇の内に亡くなったが、フォークナーは、ビクトリア植民地最初の議会議員に選ばれるなど要職を歴任して77歳まで生存した。バットマン通り、フォークナー公園など2人のジョンの名前はメルボルンに数多く残っている。

バットマンとフォークナーの成功を知ってタスマニアから次々に移民者たちがやって来たが、全て不法移民者であった。次回は、取り締まりと法の執行のためにシドニーから役人が送り込まれた話をしたい。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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