マーベラス・メルボルン「役人たちの物語」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第3回 役人たちの物語

メルボルン初の役所「メルボルン税関」(現、移民博物館)、フリンダース通り
メルボルン初の役所「メルボルン税関」(現、移民博物館)、フリンダース通り

今月はシドニーから送り込まれた役人たちの話をしよう。1835年にタスマニアからの違法移民に占拠されたことに驚いたシドニー植民地政府のリチャード・バーク総督は翌年、信頼が厚いウィリアム・ロンズデール大佐を行政長官、司法長官、暫定市長としてポート・フィリップ(現メルボルン)に送り込んだ。

不法移民に対して大英帝国の威信を見せつけるため、ウィリアム・ホブソン大佐が艦長を務める大英帝国軍艦「ラトルスネーク」が使用された。当時シドニーからメルボルンへは海路が唯一の移動手段であった。

1836年10月1日、第一種軍装に身を固めたロンズデール大佐とホブソン艦長は水兵隊と共に小型ボートでヤラ川をさかのぼり、200人ほどの不法移民が集落を形成していたエリザベス通り河岸に着岸。さっそくシドニーから運んできた建築資材で、ビクトリア最初の政府建物(メルボルン税関)をヤラ川そばに建築した。

初期の裁判所
初期の裁判所
ホドル通り(コリンウッド・タウンホール前)
ホドル通り(コリンウッド・タウンホール前)
ラッセル通りとバーク通りの交差点
ラッセル通りとバーク通りの交差点

ロンズデール大佐は着任後すぐに、人口統計、土地占有状況、原住民族アボリジニーの状況などを調査している。1837年6月に初の公式土地売り出しが行われ、やっと不法移民状態が解消した。

メルボルン市の基本設計を実施したのは、ロンズデール長官の副官ロバート・ラッセルとロバート・ホドルで、2人がメルボルンの地形調査を実施し、基本的な都市プランが固まった。

メルボルンの東西の通りは、コリンズ通りなどの大きな通りと、リトル・コリンズ通りなどの小さな通りが順番に配置されている。大きな通りを市民用とし、小さな通りを業者の作業用として、消費活動と物流を分ける近代的な設計であった。碁盤目状の区画をホドル・グリッドと言う。

ロンズデール長官や副官たちが職務に誠実で有能な官僚であったことは、メルボルンの初期の時代には非常に幸いなことであった。

バーク総督は1837年、ポート・フィリップ地区を訪問したが、時の英国メルボルン総理大臣の名前を出来たての小都市に命名した。同年は英国ビクトリア女王が即位し、輝かしいビクトリア時代が始まった年であり、ポート・フィリップはビクトリアと命名された。

これは、マーベラス・メルボルンと呼ばれたメルボルンの幸運な将来を象徴するスタートであった。バーク、ロンズデール、ラッセル、ホドルなどの有能な行政官の名前は、メルボルン市内に主要な通りとして残っている。メルボルン湾の一部であるホブソン湾はホブソン艦長に由来する。

次回は、メルボルン市設立の話をしたい。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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