マーベラス・メルボルン「メルボルン市誕生」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第5回 メルボルン市誕生

市政の象徴メルボルン・タウン・ホール
市政の象徴メルボルン・タウン・ホール

1842年にニュー・サウス・ウェールズ植民地議会の承認を得てメルボルン町(Town of Melbourne)として正式に成立し、12月には誕生セレモニーを行ったが、メルボルンの人口は5,000人ほど、家屋数はわずか800戸程度で、貧しい丸太小屋やテントが並ぶ寒村であった。

最初の市長ヘンリー・コンデルは、ビールの製造業者であった。当時のビールは、英国やタスマニアからの輸入品で大変貴重なものであり、ヘンリーのビールは飛ぶように売れ、彼は財産を作り、市長になった。

メルボルン町は、貧しい寒村といえども市民は生活をかなり楽しんでいた。メルボルン・クリケット・クラブ(MCC)は1838年11月に設立されたが、メルボルンに移民開始後、わずか3年のことである。筆者の想像だが、最初の移民船でビールなどと共に遊具を持ち込んで、休日にはクリケットを楽しんでいたのだろう。現在、MCCは10万人を超える会員と20万人の入会希望者がいる世界最大のスポーツ・クラブとなっている。

この頃、現在のメルボルンの基礎となる多くの出来事が始まっている。1841年、現在のGPOビルの場所に本格的な郵便局が建設された。

中央郵便局GPO
中央郵便局GPO
ビクトリア州最高裁判所
ビクトリア州最高裁判所

1800年代の欧州から豪州への移動や通信は帆船が唯一の手段であった。名船カティーサーク号に代表される高速帆船の時代であったが、片道4カ月から半年かかり、往復書簡で1年もの長い時間がかかった。英国から大西洋を南下しアフリカ最南端の英国領南アフリカ・ケープタウンで水や食料を積んで、インド洋を真東へ向かうとメルボルンだ。魔のバス海峡でメルボルン直前に多くの帆船が難破、沈没していった。なお、南アと豪州の仲が良いのはこの理由である。

豪州の人びとは英国からの郵便船の到着を心待ちにしていた。メルボルン湾に外航船が到着すると、市内のフラッグスタッフ公園の旗ざおに旗が上がり、毎日確認するのがメルボルン市民の日課であった。待ちに待った本国からの郵便物を受け取るのがGPO中央郵便局であり、GPO局長は、メルボルン市長に次ぐ高い地位であった。

1840年には現在のメルボルン・カップが開催されるフレミントンの地で、最初の競馬が実施されている。恒久的な学校はまだなく、インディペンデント教会で子どもたちのための1日学校が始まったのもこの頃。最高裁判所が小さなレンガ造りの建物で建設され、本格的なメルボルン刑務所ができたのも1841年だ。

1847年6月25日付の英国ビクトリア女王の書簡により、メルボルン市(City)の承認を受けた。英国から各種の認可承認を得るためには、まずシドニー植民地政府の許可を取る必要があったが、メルボルンの人びとには我慢ならぬ屈辱であった。植民地としての独立を人びとは熱望していた。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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