マーベラス・メルボルン「ビクトリア植民地成立」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第6回 ビクトリア植民地成立

アングリカン教会大司教の館(1849年築)
アングリカン教会大司教の館(1849年築)

1840年代後半のメルボルンは、人口が2万人を超して都市機能が充実してきた。英国人のために、英国国教会(アングリカン)のセント・ジェームズ教会やセント・ポール大聖堂が設立され、アイルランド人のためにセント・フランシス教会やセント・パトリック大聖堂などのカトリック教会も多く建設された。また同じ頃、ユダヤ人のためにはユダヤ教会シナゴーグも設立された。

セント・ジェームズ教会(1842年築、最古の建築物)
セント・ジェームズ教会(1842年築、最古の建築物)

市内東側の高台スプリング通りに政府役所が集められ、その東側(イースト・メルボルン)の徒歩圏内が政府役人の居住区となった。スプリング通りに交差するコリンズ通りには、医者や弁護士がオフィスを構えてパリス・エンドといわれる高級ビジネス街を形成した。メルボルン・ロイヤル病院の前身メルボルン病院は、最高医療施設として1848年にスワンストン通りとロンズデール通りの交差点に2階建10床で建てられ、貧しい人びとのための慈善病院として寄付金で運営された。

ビクトリア競馬クラブが設立されメルボルン・カップの前身の競馬もこの頃に始まった。

メルボルン発祥の地であるヤラ川河畔のマーケット通りにウェスタン・マーケットと東側高台バーク通りにイースタン・マーケットの2つの市場も設けられたが、その後クイーン・ビクトリア・マーケットに吸収された。

1849年にメルボルン最初の石炭ガス灯がスワンストン通りに点灯された。それは、お菓子屋であったウィリアム・オバートンがフィッツロイの鍛冶屋であるジョージ・サウスに頼んで石炭ガス化設備を作らせたものであった。この成功により翌年植民地政府はメルボルン市ガス&コーク会社を設立している。

ヤラバレーに植民者が入ってワイナリーを作り始めたのもこの頃で、ワインは植民地開拓に欠かせないものであった。植民地建設のさまざまな許認可を英国政府から得る際、全ての事務手続きをシドニーのNSW植民地政府を経由する必要あったため、メルボルン市民は非常に苛立ちを感じていた。

分離の木(1846年植樹)
分離の木(1846年植樹)

1850年11月ロンドン大英帝国議会の承認により、ビクトリアがNSW植民地から分離して、新しく植民地として独立するというニュースが船でメルボルンに届いた。そして、分離運動に尽力したチャールズ・ラトローブがビクトリア植民地初代総督に就任。

その時の2万3,000人ほどのメルボルン市民の喜びは大きく、4日連続で祭日となり、かがり火が夜通したかれた。市民は、全ての仕事を放棄して、当時完成したばかりの初代プリンセス橋を渡ってヤラ川沿いのボタニカル・ガーデン公園に集まった。同公園にはビクトリア植民地成立を記念した「分離の木」が現在も植えてある。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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