マーベラス・メルボルン「光と影~マダム・ブリュッセル~」

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第19回 光と影~マダム・ブリュッセル~

オッドフェローズ・ホテル、96年間も売春宿として営業していた
オッドフェローズ・ホテル、96年間も売春宿として営業していた

メルボルンの近代化には光が差してくる中、影の部分もあった。

ゴールド・ラッシュで1851年に3万人であった人口が数年で30万人に急膨張し、病院だけでなく、医者や医薬品も全く不足していた。抗生物質もない時代であり、不衛生な鉱山やスラム街では多くの病人や貧者がばたばたと野たれ死んでいった。メルボルン最初の死体安置所は、フリンダース駅南側のプリンセス橋のたもとに作られ、その後30年間もそこにあった。

移民の多くは金鉱山で働く独身男性で、彼らの金を求めたくさんの売春婦もメルボルンに流れ込んでいた。

市内のリトル・ロンズデール通り界隈は、通称「リトル・ロン」と呼ばれ、材木とレンガで造られた小屋がひしめき合い、小さな路地がたくさん通る典型的なスラム街であった。

元々は靴職人など小規模な軽工場の街であったが、小屋がひしめき合う中で汚れた地域となり、そこではアイルランド、イタリア、中国、シリアなどから移民したばかりの貧しい下層階級の人びとや職人などがその日暮らしで生きていた。チャイナタウンも近く、中国から持ち込まれる阿片などの麻薬もはびこった。

リトル・ロンの一般的な貧民小屋(左手前)とカッセルデンの小屋(右奥)
リトル・ロンの一般的な貧民小屋(左手前)とカッセルデンの小屋(右奥)
リトル・ロンに残る州遺産指定建物「ブラック・イーグル・ホテル」
リトル・ロンに残る州遺産指定建物「ブラック・イーグル・ホテル」
現在のリトル・ロン地区、高級アパートが林立する
現在のリトル・ロン地区、高級アパートが林立する

安宿、安い飲み屋、売春宿、阿片窟などがたくさんあり、赤い街灯がともされていたので「レッド・ライト地区」とも呼ばれていた。コソ泥などの犯罪者も多く、治安もメルボルン市内で最悪の地帯であった。

当時の一流紙“アーガス”は売春婦を「最低最悪の女性たちで、汚れた言葉を話し、その行動もひどい」と評し、また「午前11時ごろから翌日午前3時ごろまで、14歳から22歳くらいまでの30人ほどの若い女性が売春街をうろついている。夜中に男をあさり、隙あらば泥棒を働こうと見張っている。警察が巡回している間は逃げ散っている」と街の様子を伝えた。

コリンズ通りやバーク通りの華やかな「マーベラス・メルボルン」とは対極の世界であった。
「マダム・ブリュッセル」という高級売春宿が、ロンズデール通りにあり、金持ちの男性を引きつけていた。マダム・ブリュッセルとは元々、カロライン・ホッジソンというロンドンからの移民女性のことで、彼女は数カ所に高級売春宿を経営していた。67年には、メルボルンの警視総監がロンドンから訪問していたエジンバラ候(ビクトリア女王の次男)をお連れしているという記録があり、単なる売春宿以上の高級接待所であった。

1800年代のビクトリアでは、売春や麻薬は合法であり、麻薬禁止法が成立したのは、1905年である。

リトル・ロン地区は今では高級アパート地区だが、当時を忍ばせる建物が残っており、メルボルン博物館には詳細な展示がある。


文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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