マーベラス・メルボルン「オーストラリアン・フットボールとメルボルン・グラマー高校」

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第22回 オーストラリアン・フットボールとメルボルン・グラマー高校

オーストラリアン・フットボールの母体となったメルボルン・グラマー高校
オーストラリアン・フットボールの母体となったメルボルン・グラマー高校

1850年、メルボルンのトム・ウィルス少年(14歳)がイギリスの名門私立ラグビー高校へ留学した。

ラグビー高校では在校生たちが5年前の45年に新しいスポーツ、ラグビー・フットボール・ルールを作り出していた。運動神経が良く、体格にも恵まれたウィルス少年は、クリケットとラグビーの優秀な選手として活躍した。

55年、20歳になったウィルス少年は、ゴールド・ラッシュに沸くメルボルンに戻ったが、スポーツ・ヒーローとして受け入れられ、ビクトリアの幾つかの高校で体育の教員として授業を教えていた。また、イギリスのラグビー高校の少年たちが作り出したラグビーに負けない、オーストラリア独自のフットボールを作り出したいと願ったウィルスは、58年に新聞にオーストラリアン・ルール・フットボール(オージー・ルール)に関するレターを発表した。ラグビー・ルールの誕生から遅れることわずか13年目のことである。なお、サッカーのルールができたのも1850年代である。

ウィルスは、当時の熱狂的スポーツであったクリケットのオーストラリア代表チームのキャプテンを務めたほどの有名人であり、オージー・ルールは、彼の知名度も手伝ってすぐにメルボルンの高校などで受け入れられた。

メルボルンきっての名門私立高校メルボルン・グラマー高校は、植民地政府からセントキルダ通りの一等地を55年に貸与され、58年に開校した。

キリスト教教育の伝統的な英国式をモットーとする同校は、できたてのオージー・ルールをすぐに取り入れた。

オーストラリアン・フットボールを作ったトム・ウィルス(手前)の銅像
オーストラリアン・フットボールを作ったトム・ウィルス(手前)の銅像
オーストラリアン・ルール・フットボールの歴史はラグビーとほぼ同じである
オーストラリアン・ルール・フットボールの歴史はラグビーとほぼ同じである

記念すべきオージー・ルールでの最初の試合は、メルボルン・グラマー高校対スコッチ高校の対戦カードで58年8月7日に行われた。翌59年には、メルボルンFC(フットボール・クラブ、現デーモンズ)が結成された。プロ・リーグ「オーストラリアン・フットボール・リーグ(AFL)」の最初のチームである。

メルボルン・グラマー高校と並ぶビクトリアの名門ジーロン・グラマー高校は、メルボルン第二の都市ジーロンに55年に開校した。

ジーロン・グラマー高校でもメルボルン・グラマー高校に負けじとオージー・ルールが始まった。ジーロン・グラマー高校の卒業生らで59年に結成されたジーロンFC(現キャッツ)は、メルボルンFCに次いで誕生した第二のクラブである。

ちなみに、ジーロン・グラマー高校の卒業生の中には、イギリス・エリザベス女王の長男で、国王の座を継承するとみられるチャールズ皇太子がいることで広く知られている。

メルボルンで人びとがオージー・ルールに熱狂していたころ、日本はまだ明治維新前の幕末であった。


文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る