AUSメディア・ウォッチ「アイデンティティーを求めて」

オーストラリア・メディア・ウォッチ

オーストラリアの新聞をはじめ、テレビ、ラジオ、映画、書籍などのメディアで今話題のもの、または面白い記事やエピソードを毎月1つ取り上げ、そこから見えるオーストラリア社会を在豪日本人の視点で紹介する。

第7回:アイデンティティーを求めて

オーストラリアに日本のような戸籍制度はない。けれども出生・死亡・結婚の際には、「Registry of Births, Deaths and Marriages」という登記所に届け出ることになっている。

そこで繰り広げられるドラマを追ったドキュメンタリー・シリーズ、『Hatch, Matchand Dispatch』が2月から3月末までABCテレビで放送された。

平穏で単調なイメージがある登記所の仕事だが、意外にもそこにはさまざまな人間ドラマがあった。訪れる人びとはそれぞれにストーリーを持っている。

老年のオーストラリア人男性と、英語のままならない20代のベトナム人女性の結婚。男性名から女性名に変更したいトランスジェンダーのバレエ・ダンサー。夫の家庭内暴力から逃れるため、本名を偽って生きてこなければならなかった女性。出生国アルゼンチンでの埋葬を願った移民の死とその遺体の搬送。自分が養子だったことを知り、実母を捜す女性。

人びとがここを訪れるのは、自分の結婚、子どもの出生、家族の死など、人生の節目となる時だ。それは自分自身と向き合う時でもある。持ち込まれるケースのほとんどでアイデンティティーの問題が絡んでいるのも不思議ではない。

オーストラリア人になったのになぜ出生国に埋葬されたいのか。男性名から女性名への変更が、ある人にとってなぜそんなに重要なのか。本当の母親は誰なのか。全ては「自分は誰か」という問いにつながる。

在豪日本人のアイデンティティー

オーストラリアに住む日本人にとっても、このようなアイデンティティーの問題は身近だ。結婚したら名字は変更するのかしないのか。子どもの名前は日本語名にするのか英語名にするのか。オーストラリア国籍は取得するのか。離婚をしたら、または配偶者やパートナーが死亡したら、日本へ戻るのか。人生の最期はどこで迎えたいのか。

「オーストラリアに骨を埋めるつもりですが、日本人であるという意識は強くあります」と言うのは、ワーキング・ホリデーを利用して22歳で渡豪して以来、人生の中で日本と日本国外で過ごした年数が半々になった山本亜希子(仮名)さん。オーストラリア人男性と結婚したが、名字は変えていない。「日本というヘリテージ(受け継がれたもの)に誇りを持っているから」だと言う。オーストラリア国籍を取得するつもりもない。

一方、国籍にはこだわらない人もいる。結婚を機に25歳でオーストラリアに移り住んでから、2人の子どもを育て上げたトムソン静子(仮名)さんだ。

「国籍の問題は皆が考えているほど大げさなものではないと思います。もっと現実的なこと。国籍を持っている国に義務と責任を果たし、国から恩恵を受けるという、ただそれだけの話です」

成人したばかりの子どもたちも、自分がどこの国の人であるかということに対するこだわりはないという。「母親が日本人で、父親がオーストラリア人という事実だけです」

DIYアイデンティティーの時代

日本人なのかオーストラリア人なのか。国籍はどちらにするのか。そんなアイデンティティーの問題に正解、不正解はない。自分なりの答えを見つけるだけのことだ。

「(近年)アイデンティティーは、自分で作り上げる『Do-it-yourself(自作)』プロジェクトになってきています」と言うのはタスマニア大学の社会文化学者、ニコラス・ホックウェイ博士。その背景には、以前はアイデンティティーのよりどころとなっていた階級、性別、宗教などの意味合いが弱くなってきていることがあるという(シドニー・モーニング・ヘラルド紙、電子版:15年6月21日)。

南オーストラリア大学のアンソニー・エリオット教授も、伝統的な価値観が弱まり、インターネットを通じて世界規模の影響を受け、選択肢にあふれる今の文化においては、「自分は何者なのか」という問いに答えることは難しいと言う(同紙)。

日々ドラマが繰り広げられる登記所のカウンター
日々ドラマが繰り広げられる登記所のカウンター

そのような時代だからこそ、自分のアイデンティティーについて考える機会はむしろ増えてきているのかもしれない。それは、オーストラリアと日本のあいだで生きる私たちにとっても言えることだ。

ドキュメンタリーのなかで、名前の登録や変更の手続きを行う登記所のスタッフの1人がこう言っている。「たかが名前、されど名前なのです」

オーストラリアにおけるアイデンティティーの問題を映し出す鏡のようなこの番組。出生・死亡・結婚の登録という事務手続きの奥にある、もっと大きなものを見つめてみてはどうだろう。

『Hatch, Match, and Dispatch』シリーズ1(全8エピソード)はABC iViewで4月14日まで視聴可能。(Web: iview.abc.net.au/programs/hatch-match-and-dispatch


クレイトン川崎舎裕子
Hiroko Kawasakiya Clayton
◎米系通信社の東京特派員(経済・日銀担当記者)を経て、2001年よりオーストラリア在住。クイーンズランド大学院にてジャーナリズム修士号を取得後、03年からライター。キャンベラを拠点に社会事情などについての記事を雑誌や新聞に執筆する
Web: twitter.com/HirokoKClayton

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