“現代アートにタブーはあるんですか?”

関心はあるものの、実はまったく理解できない! いったいどこから勉強していいのか分からない! そんな読者の心の声に答えるべく登場したこのコラム。奥深い現代アートの世界に対する素朴な疑問に、著者がずばり回答。優しく解説してくれます。これを読めば、芸術の世界がぐっと身近に感じられるはず。

第7回

“現代アートにタブーはあるんですか?”

Andres Serrano:
Andres Serrano:”Piss Christ”(1987 photograph)

これは面白い問題です。というのは、現代美術はフリー・フォームであって、タブーはないというのが現代美術そのものの定義でもあるからです。しかし、実際には、この「現代美術はタブーがない」という定義そのものに問題があると言えるケースも出てきています。

芸術作品が「作品」であるためには、作品が何らかの形で展示されなければいけません。展示空間は、通常画廊や美術館ですが、野外やサイト・スぺシフィック(Site Specific)つまり特定のロケーションでその場に感興を受けて現地で制作するものがあります。スタイルも、壁・側面に展示する平面作品、または立体・半立体作品、建付けの壁そのものに描き込んだり組み込んだりするもの、インスタレーション、部屋や建物自体を変質させるもの、写真・ビデオ・プロジェクション作品、作家自身が作品になる(パフォーマンス)など何でもありです。その規模も、小さな画廊から古城や庭園をすべて使用したもの、また、国家間のアート・オリンピックとも言えるような、広大な敷地を使用したビエンナーレ形式のものまであります。

しかし、その作品が公共に展示されるまでには、画廊のオーナーや美術館の学芸員たち、またはプロジェクトごとに所属したり雇われている審査員たちに選出され、認めてもらうというプロセスを踏まなければいけません。一方で、アンデパンダン展という出品すれば何でも展示される展覧会もあるのですが、マルセル・デュシャンの「泉(便器)」はこのアンデパンダン展でも展示を拒否されてしまいました。ここが現代美術のおもしろいところ――。彼の話については、このコラムで既に何度も登場しているので詳細は省きますが、現代美術におけるタブーを語る際には、外せない存在ですね。

芸術作品のタブーにまつわる話は、19世紀のエドゥアール・マネの作品に始まると言われています。マネの「草上の昼食」(当時、台頭してきた富裕層のフラヌールが裸婦と野外で昼食を取っている図)は有名ですが、この作品は保守的な展覧会であったサロン展への展示を拒否されました。マネ自身が倫理観のタブーにあえて触れて展示を拒絶されることを意図していた節もあります。

政治的なタブーの典型に、ナチスの「退廃芸術」があります。これによって、抽象芸術やバウハウスなどはすべて否定されました。レッテルを貼られた芸術家たちはドイツから逃亡、もしくは殺害され、多くの作品が破壊されました。同様の事件は、スターリンや中国文化革命の体制でも起きています。この轍を踏まないようにと、現在では反政治的な芸術であっても展示はされる傾向にあります。その典型がアンセルム・キーファーの作品。彼は旧ナチスのタブーに挑戦し、ドイツ人のユダヤ撲滅の負の遺産を作品化。ドイツ人にとっては不快な記憶を呼び覚まされるものですが、キーファーは重要な作家として地位を築きました。

しかしそんな現代でも、作品の内容や作家の個人的な美意識が民衆の宗教心や倫理に反する場合、その対象となる作品は展示されなくなる場合もあるのです。最近話題になったタブー作品には、アンドレ・セラノの巨大な写真作品「小便キリスト(Piss Christ)」があります。本作は、黄金色の霧状の全景の背後にキリスト像が見えているという美しいものですが、黄金色は尿であるとも受け取れる題名になっていることがタブーとされ、展示を取りやめた美術館が続出しました。

さらに最近では、豪州のビル・ヘンソン(Bill Henson)の10代初期少女のヌード写真、ポリ・パパペトロー(Polixeni Papapetrou)が、チャイルド・ポルノであるとして批判されました。これは実は、自身の娘のヌード写真です。彼女の伴侶のロバート・ネルソン氏は、The Age紙の美術評論家。当時の首相だったケビン・ラッドからの「展示すべきでない」という発言に対して、彼は紙上で論陣を張りました。ついには、パパペトローのモデルとなった当時16歳の娘さんご本人までメディアに登場。自身がモデルに成った経緯、創作過程などについて、勇気を持って自己弁護しました。

こうしたタブーは、美術というコンテキストから生じた排泄物・嘔吐物と言えるかもしれません。このタブーに対し、ブルガリア出身のフランスの哲学者ジュリア・クリステヴァが提唱した「アブジェクト(Abject)」という有用なコンセプトがあります。これは、乳飲み子が言語を修得する過程で、母親から乳離れする間の苦々しい過程を理論化したもの。西村清和は、「アブジェクトとは、汚物・腐敗物・塵芥・血や膿でまみれた傷口・汗・死体の分泌物・糞便といった“身をそむけさせる反感や吐き気をもたらす事物”に対して“生きるために絶えず身をもぎ離す振る舞い”であり、“自然から文化へ上昇する糸口”である」と上手く表現しています。現代美術のタブーに直面し、我々観者自身も“身をもぎ離す”振る舞いを引き受けねばならないのかもしれません。


<著者プロフィル>
登崎榮一(Ph.D)◎メルボルン大学美術史/哲学学部博士課程修了、モナーシュ大学 アート&デザイン学部博士課程所属。現在は、メルボルン大学哲学科名誉フェローまたアーティストとして活躍するほか、ディーキン・RMIT大学(藝術の哲学)でも講師を務める。Web: bimanualdrawing.wordpress.com

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