【現代アート】アートに付いている「題」もアートですか?

現代アート塾

関心はあるものの、実はまったく理解できない! いったいどこから勉強していいのか分からない! そんな読者の心の声に答えるべく登場したこのコラム。奥深い現代アートの世界に対する素朴な疑問に、著者がずばり回答。優しく解説してくれます。これを読めば、芸術の世界がぐっと身近に感じられるはず。

第15回

“アートに付いている「題」もアートですか?”

Image Title: René Magritte,
Image Title: René Magritte, “Ceci n’est pas une pipe”

モダン・アートで「題」を付けなくなったのはいつ頃からでしょうか?「踊り子」や「ひまわり」のように、描かれた主題に基づいて題を作家自身や画商が付けていたのが、「作品1」とか「コンポジション3」とかになっていったのはいつ頃からなのでしょうか?

「絵」という伝統には、画家の目に映るものと描かれたものとの間にレファレンス(参照)関係があります。画家が意図したもの、つまり画題以外のものが認識されることは、画家の技量が足りないとみなされた時期がありました。例えば、王室お抱えの肖像画家ならば、描かれた人物に注意を集中し、全ての要素がその主題に貢献することを求められたのです。現代において、お見合い写真や雑誌の表紙を作る時にフォトショップで色補正したりするように、ありのままの人物肖像画以上に、威厳・若さ・豊さといったものを加味し描き切ることが画家の技量でした。スペインの画家ゴヤは、スペイン王女の決して麗美とはいえない真実を描いたとして処罰される危惧もありましたが、とにかく主題に忠実であったことには変わりはありません。

ピカソとそのモデルになった小説家ガートルード・スタインとの面白いエピソードがあります。その頃ピカソは後期キュービズムに差しかかった時期で、対象をイベリア彫刻のようにデフォルメする傾向がありました。ガートルードはできあがった絵を見て驚きました。キュービズムを理解し、まともには描いてはくれないと心の準備はできていた彼女にとっても、アフリカの仮面の木彫のようにこわばった自分の顔に、「全然似てないじゃないの」と不平を言いました。そこでピカソは、「そのうち君の顔のほうがその絵に似てくるよ」と、言ってのけたのでした。

皮肉なことに、今その絵を見ると確かに本人以上にガートルード・スタインなのです。ガートルード・スタインという絵の題名が指し示すもの以上に、その絵自体がガートルード・スタインになってしまったのです。真実はどちらにあるのでしょうか?作品の中だけに存在しているガートルードでしょうか?

写真のような肖像画としてのガートルードでしょうか?ルネ・マグリットに「これはパイプではない」という題名の絵があります。実際にはパイプがど真ん中に大きく描いてあるだけの絵なのです。どこがパイプでないと言えるのでしょうか?この絵は、絵というものは「イメージ」であって、それが指し示すものとのレファレンス関係が密でなくとも絵は絵として成立すると言っているのです。この絵においてパイプは「パイプ」という言葉のメタファー(隠喩)です。

仏の哲学者ポール・リクールは、メタファーの力を、「本来結びつきそうもないものを結びつけてしまう力」と定義しました。言語の音とそのレファレンスには本来何の関係もないのです。それをスイスの言語学者ソシュールは、言語の恣意性と言いました。ミッシェル・フーコーによれば、「起源を欠いた世界」ということになります。

マグリットはそのメタファーの力を逆手に取ったといえるでしょう。つまりメタファーとしてのパイプの意味は、パイプという命名が流通している社会では安定しています。しかし、その命名とレファレンスとの関係を切断し、本来の命名とレファレンスとの危うい関係を、その絵であからさまにして晒したのでした。つまりここでは題名が絵画に従属するどころか、同等、いやそれ以上に題名が絵画自体を抹殺してしまっているという事態に至っています。

デュシャンは、典型的な額縁付きの売り絵を買ってきて、赤と青の点を施し、「ファーマシー(薬局)」と題名をつけました。何の変哲もないショベルを「In Advanced of the Broken Arm 折れた腕に先駆けて」と名付けました。美を鑑賞する我々の目をまひさせ、あざ笑っているようです。我々はこういったいたずら好き(ダダ)の画家たちに、ただ翻弄されるだけなのでしょうか?

モンドリアンやカンディンスキーといった抽象絵画家たちは対象を描きません。幾何学的抽象といわれるものは、形といえば三角四角丸と線という要素だけです。題名を付けようがありませんね。マグリットの「これはパイプではない」に比べるとその点正直です。カンディンスキーだと「コンポジション1」とか「2」とか、モンドリアンだと「コンポジション:赤・青・黄」とか「A・B」とかです。つまりモダンアートでは題名を付けない方が正直という事態に至るのですね。

一方、1月号で話題にした、河原温の日付絵画はまさに題名だけで成り立ち、バーバラ・クルーガーやホルツァーなどのアフォリズム・アートは、作品自体が題名に吸収されたと言えなくはありません。

現代アートは題名だけがひとり歩きしていると言っても過言ではないかもしれません。

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<著者プロフィル>
登崎榮一(Ph.D)◎メルボルン大学美術史/哲学学部博士課程修了、モナーシュ大学 アート&デザイン学部博士課程所属。現在は、メルボルン大学哲学科名誉フェローまたアーティストとして活躍するほか、ディーキン・RMIT大学(藝術の哲学)でも講師を務める。Web: bimanualdrawing.wordpress.com

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