【現代アート】古典アートと現代アートの境界となる時期はいつですか

現代アート塾

関心はあるものの、実はまったく理解できない! いったいどこから勉強していいのか分からない! そんな読者の心の声に答えるべく登場したこのコラム。奥深い現代アートの世界に対する素朴な疑問に、著者がずばり回答。優しく解説してくれます。これを読めば、芸術の世界がぐっと身近に感じられるはず。

第18回 “古典アートと現代アートの境界となる時期はいつですか”

Joseph Kosuth: One and Three Chairs, 1965(出典:George Massoud/Architectural Association)
Joseph Kosuth: One and Three Chairs, 1965(出典:George Massoud/Architectural Association)

古典アートとは、例えば美術館の壁に掛かってる収蔵絵画などのように、作品の鑑賞に伝統という枠組みが暗黙の了解で定着しているものと考えて良さそうです。技術的な点から言えば、「アルベルティ・ウィンドウ(イタリアの絵画論を書いたアルベルティが教える絵画の窓)」を代表とする、絵画表面から奥行きを持つ、ルネサンス以来の遠近法に則った疑似空間を持つ絵画が古典アートに当てはまります。

反対に「古典でない」とは、評価が定まらない作品、美術館や有名なコレクターたちのコレクションに入っていない作品群ということになります。

いわゆる古典と現代アートの間にはモダン・アートという領域があり、モダン・アートと現代アートとの間に線引きが出来なければ現代アートの領域を確定したことにはなりません。

実は、モダン・アートと現代美術との間に線は引きにくいのです。アートと直接関係のないところでは、戦後のアメリカン・アートの興隆はCIAを始めとしたアメリカの文化世界戦略の一端として語られることもあります。アメリカ各州で美術館の建設ラッシュがあり、また世界の主要都市に現代美術館が建てられたのも現代美術の成立に主要な影響を与えています。つまり「箱物ありき」の現代美術です。驚くなかれ、現代美術館と名の付くものはコレクションを持っていないところが多いのです。

現代美術には2つの源流があると言われ、1つはポスト・イズム。つまりモダニズムの「流派(キュビズム、シュールレアリズムなど)」を超えた活動。もう1つは、1945年以降の美術評論家グリーンバーグを代表的論客として興隆した戦後アメリカン・アートです。

質問と少しずれるかもしれませんが、モダン・アートが現代アートに移行する過渡期の作品や芸術運動と言えば、横綱級がデュシャンの「便器」と「レディメイド」、大関級が「ミニマル・アート」と「ポップ・アート」、関脇級が「コンセプチュアル・アート」ということになります。その他、幕内には「アクション・ペインティング」、「スーパー・リアリズム」、「アルテ・ポーヴェラ」、「シュルポール・シュルファス」、「キネティック・スカルプチャー」という面々がいます。反対に既にモダン・アートと一線を画し、現代美術側に位置し高笑いしてるのが、ロバート・スミッソンを始めとするランド・アート、オノ・ヨーコも関わったフルクサスなどの芸術活動でしょう。

現代美術のそれぞれの領域でデュシャンの影響が見られます。デュシャン自身のアートには過去に何度も触れていますが、関脇級の「コンセプチュアル・アート」はデュシャンの直接の申し子です。この分野で有名な作家にジョセフ・コスースがいます。彼はウィトゲンシュタインの分析哲学などを参照しながら、例えばプラトンの有名な「椅子」についてのミメーシスを揶揄(やゆ)します。この「椅子」はまたデュシャン流のレディメイドでもあります。展示されている「椅子」の持つさまざまな側面をテキスト(言語)、イメージ(写真)、オブジェクト(物体)のレベルで言及しつつ、「これはアートではない」と煙に巻くのです。

デュシャンとは別に、現代美術の成立に直接的に影響したのは20世紀の「複製時代」の到来です。哲学者フーコーは、さかのぼって19世紀のグーテンベルグの印刷機の発明で「個人」という概念が成立したと言います。写真の流布で、あらゆるビジョンは複製可能になりました。絵画を始めとするアート作品も例外ではありません。ヴォルター・ベンヤミンの著作『複製技術時代の芸術作品』や、その後のボードリヤールの「シミュラークル」という考えは、まさにポスト・モダンの理論的支柱になりました。ウォーホルの『キャンベルのスープ缶』に代表されるポップ・アートの到来も複製時代の象徴です。

また、アートはもはや政治とは切り離しては存在出来ないものという立場は、ベンヤミンから始まるものです。これはアートを「テキスト」と見る見方で、フランスのフロイト派精神分析医ジャック・ラカンが無意識を言語の機能と目したように、「全てはテキストの織物である」(ジャック・デリダ)と見なすのが現代美術の立場だと言います。

アートはテキストに回収出来ぬものというのが私の考えですが、テキストが意味の織物だとすると、意味に回収出来ないアート、例えば「アブストラクト・アート」やアクション・ペインティングなどのアートとしての存在意義は「意味の織物」をすり抜けていきます。コスースの「椅子」も芸術作品の成立過程を言っていて、意味をすり抜けるものは何かを示そうとしていたのです。つまり、ウィトゲンシュタインの「意味の限界」を超えたアートとしての織物の意味をあぶり出そうとしていたのです。それが成功しているか否かは別として、現代アートは、テキストという織物に観者を潜り込ませ、失われた伝統や物語を個人が探し当てるゲームとも言えます。

現代アートに関するあなたの疑問・質問を募集中! ご質問内容は本紙編集部までEメールにて送信ください。
Email: advert@nichigo.com.au

<著者プロフィル>
登崎榮一(Ph.D)
◎メルボルン大学哲学/美術史(2002)並びにモナーシュ大学 アート&デザイン(2016)でPhDを収得。現在は、アーティストとして活躍するほか、メルボルン大学哲学科名誉フェローまたディーキン大学でも講師を務める。
Web: bimanualdrawing.wordpress.com

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る