【現代アート】現代美術の問題点は何ですか

現代アート塾

関心はあるものの、実はまったく理解できない! いったいどこから勉強していいのか分からない! そんな読者の心の声に答えるべく登場したこのコラム。奥深い現代アートの世界に対する素朴な疑問に、著者がずばり回答。優しく解説してくれます。これを読めば、芸術の世界がぐっと身近に感じられるはず。

第19回 “現代美術の問題点は何ですか”

Title: Mondrian in his Paris Studio (1933) with “Lozenge Composition with Four Yellow Lines” RKD – Netherlands Institute for Art History、ⓒ2014 Mondrian / Holtzman Trust c/o HCR International USA
Title: Mondrian in his Paris Studio (1933) with “Lozenge Composition with Four Yellow Lines” RKD – Netherlands Institute for Art History、ⓒ2014 Mondrian / Holtzman Trust c/o HCR International USA

現代美術は「インスタレーション全盛時代」と言っていいと思います。絵画・彫刻といった伝統的な展示方法と比べると、インスタレーションを中心とした「ミニマル・アート」などの展示形式を揶揄(やゆ)して、「劇場的」と言ったマイケル・フリードの言葉もうなずけます。

つまり、その場のパフォーマティブな空間は劇場に似て、スペクタクルで即座の感興を得ますが、美的な判断は停止したままになるという批判でした。劇場のステージでは何でもありのように、インスタレーションは伝統的芸術展示以外は何でもありなのです。

インスタレーション・アートは敷衍(ふえん)してサイトスペシフィックといった「環境と関係するアート」と現在では結びついていますが、その形式自体に問題(批判)意識が無いこと自体が問題です。現代美術は「何でもあり」というアプローチ自体に問題があるのではないでしょうか。

オーストラリアの展覧会でもよくインスタレーションという展示形式を使います。画廊空間をキャンバスのように、オブジェクトあるいはTVモニターや、ビデオ、布といったものを絵の具代わりにアレンジして展示します。アーティスト自身がその展示空間に入ってパーフォーマンスや彫刻のように佇たたずんだりすることもあります。私がある若いオーストラリア人のアーティストに「なぜインスタレーションという形式を取るのか」と問うたところ、彼女は「大学で教えてもらったから」と答えました。私は、インスタレーションという形式自体が、作家自身の批判を通さず、教条的に現代美術の与えられたアプローチに従っているのはアーティストにとっていかがなものかと考えます。

さて、そのインスタレーションという形式が出てきたのはいつごろでしょうか。

画廊空間自体をキャンバスや絵画の延長として見なすという考えは、実は19世紀までさかのぼります。ウィリアム・モリスのデザインとアートとの間を凌駕(りょうが)する「アーツ・アンド・クラフツ運動」が始まりと言われています。つまり、生活空間自体をアートにしてしまうという考えです。この考えは日本の生活空間の美的感性についても言えることですが、多言を要するのでここでは触れません。

20世紀に入って個人のアーティストとしてアトリエ空間をそのままアートと考えたのは抽象画家のモンドリアンです。彼はアトリエを変えるたびに、まずアトリエの壁を真っ白に塗り、そこに色パネルを配置しました。絵画を制作するにつれて部屋の色面の配置を変えたとも言われています。彼は、自身の絵画作品を「アトリエ空間を構築したその延長である」と言います。

モンドリアンとデ・スティルそしてイタリア未来派に続き、バウハウス、ダダはパフォーマンスをアートの形式として定着させました。戦後ニューヨークでは、ネオ・ダダやフルクサス、そしてハプニング、イベントとこれでもかと言うほど、パフォーマンスやそれを記録したビデオ中心の展示を行ってきました。それら「ダダ」というコンセプトを中心とした活動は、美術史を超えること、画廊・美術館の制度を再構築すること、「ハイ・アート」と「ロー・アート」との境を取り払うこと、他芸術形式との融合、テクノロジーの導入に表現の意味を見出していました。写真はデュシャンがよく事実を証言するものとして利用しました(例えば、有名な『便器』の作品は意図的にも写真でしか残っていません)。しかし、彼の時代には写真は芸術として認められておらず、映画や、その後出てきたビデオなども美術という制度の枠外の活動でした。この「美術として認められていなかったもの」がインスタレーションで大いに活躍する道具となったのです。

現代美術の問題は、デュシャン以降の美術という制度自体を打つという活動が捨てきれなかったもの、音楽ではデュシャンの薫陶を受けたケージの「音」の再定義が消去しきれなかったもの、これらを再考することであぶり出されてくるという考え方もあります。デュシャンによって葬り去られようとしたものは、額縁に入った絵画、台座に乗った彫刻、そして芸術作品を札束同様に扱うアート・マーケットでした。そこのところ、デュシャンやケージの活動がアートに「ゼロ」を導入しようとしたと考えると理解が出来ます。

つまり、分数の分母をゼロにすることを試みたと考えると、その後の現代美術の活動がある程度見えてくるかもしれません。数学で分数にゼロはタブーです。分数にゼロを許すと数学自体が成り立たなくなってしまいます。デュシャン自身ゼロ分母の設定自体には至っていません。ケージも雑音を分母に導入することには成功しましたが、完全に音無しには成功していません。その成功しなかったところに現代美術の問題の落とし所が有ると考えます。

20世紀最大の哲学者と言われるヴィトゲンシュタインは彼の後期哲学で、「言葉の意味を経験しないことで何が欠けているのか」と問いました。まさに、これが現代アートに突きつけられている問題と言えます。意味が無いものは即無意味なのでしょうか。1960年代の、ケージやオノ・ヨーコが属した「フルクサス」というグループ、そしてアラン・ギンズバーグを始めとする「ビート・ジェネレーション」は鈴木禅師に始まる「禅」の洗礼を受けています。つまり、仏教における「無」の意識が芽生えたとも言えます。ゼロの分母と共に仏教の「無」を再考することに現代美術の問題の鍵があると言えるかもしれませんが、次の機会を待ちたいを思います。

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<著者プロフィル>
登崎榮一(Ph.D)
◎メルボルン大学哲学/美術史(2002)並びにモナーシュ大学 アート&デザイン(2016)でPhDを収得。現在は、アーティストとして活躍するほか、メルボルン大学哲学科名誉フェローまたディーキン大学でも講師を務める。
Web: bimanualdrawing.wordpress.com

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