【現代アート】映像作品の現代アートの鑑賞方法はありますか?(ビデオとフィルムの違い その1)

現代アート塾

関心はあるものの、実はまったく理解できない! いったいどこから勉強していいのか分からない! そんな読者の心の声に答えるべく登場したこのコラム。奥深い現代アートの世界に対する素朴な疑問に、著者がずばり回答。優しく解説してくれます。これを読めば、芸術の世界がぐっと身近に感じられるはず。

第20回
“映像作品の現代アートの鑑賞方法はありますか?”
(ビデオとフィルムの違い その1)

“Group Show at Witte de With Thomson & Craighead” 2006 at Contemporary Art Daily: A Daily Journal of International Exhibitions
“Group Show at Witte de With Thomson & Craighead” 2006 at Contemporary Art Daily: A Daily Journal of International Exhibitions

前回は禅の話で終わったので、今回は禅の話から始めましょう。

10年ほど前のことではありますが、ある音響デザインの国際会議で1人の音響アーティストが、「禅の瞑想を作品に使っている」、「目を閉じて瞑想中に浮かんでは消える映像を音にしている」といったことを言いました。それに対し、私は「禅の瞑想では目を完全に閉じない(半眼)。それは瞑想中でも現実との接点を失わないためである」と返しました。

つまり、そのアーティストの瞑想は脱現実の時間の映像であり、半分現実、半分自在(三昧)の禅の瞑想ではないのです。1960年代のビート・ジェネレーション以降、「禅」はアート・シーンにおいてファッショナブルな用語となりました。

禅は「現実」の真っただ中で、只管打坐(瞑想)を行います。目を閉じ瞑想し、イメージが生まれる。それは、映画館に行って、現実の雑踏から離れ映画の映像に浸るという体験とは違います。半眼の瞑想は、現実の雑踏や視覚情報を完全にはシャット・アウトしません。そこが今回の質問の「映像作品の現代アートの鑑賞方法」に結び付くきっかけとなった考察です。

つまり、ビデオ作品の現代美術画廊での展示は、禅の半眼瞑想に近いものがあるかもしれない、ということを端緒として今回の質問を考えてみようということです。

映像作品には映画、アニメーション、そしてビデオがあります。映画にも、商業映画(娯楽映画)、実験(アバンギャルド)映画、アート・ハウス・ムービー、ドキュメンタリー映画といろいろなジャンルがある中で、現代美術における映像は、主に「実験映画」に属します。

しかし、最近ではゴダールなどに代表される、アート・ハウス・ムービー(ヌーヴェル・ヴァーグ)は、ジャンプ・カットの手法や、エイゼンシュテインのモンタージュの技法、アニメーションを取り入れた混合体になってきています。哲学者のドゥルーズが言うように「全てはアレンジメント」の時代になってきているのですね。

映像作品は時間芸術で、そこが絵画や彫刻とは違うと言われるところです。映画の時間は持続です。その持続の流れに身を任せることで、映画の物語の中に没入することが出来ます。しかし、初期の映画はfpm(秒あたりのコマ数)の値が低く、荒いコマ撮りのアニメーション(例えば手塚治虫の初期のアニメは8fpm)と何ら変わらない状況でした。そこで20世紀初頭の哲学者ベルクソンは映画を「嘘の運動」として、生きた時間でなく、死んだ時間の連続として批判しました。しかし、現在は60fpmが映画の標準であり、現実の時間の流れといっても何ら遜色はありません。

さて、映画には普通、起承転結の物語があります。それに対してビデオは、スナップ・ショット的に日常の1コマをその場で撮り、始まりも不定で終わりも推定不可能です。映画は構造を持った時間、ビデオは不定限の時間と言っても良いかもしれません。その不定限の時間という性質上、日常空間に取り入りやすいとも言えるでしょう。いつ終わるとも分からないビデオは、全部見る必要は無く、他の作業で中断されてもまた戻って来ればいいのです。

私は昔、京都で吉田稔というアーティストの家に入り浸っていたことがあります。彼は80年代からビデオ・アーティストで、「映画館は嫌いだ。暗い箱に入って現実離れしている。その点、ビデオは日常と結びついている生きた芸術だ」と強調していました。彼は自分のアートを「青空美術館・超絶アート」と称していました。

私が最初に彼と会ったのは東京都現代美術館で、パーフォーマンス・アートの展示企画でした。彼は彼の家族(奥さんと小さな子ども)と共に美術館に住み込み、美術館訪問者にお茶を勧め、その情景を自分でビデオ・カメラを回し作品としていました。四角い工事現場用の木綿の布を敷いた家具の上に座りお茶を頂きつつ、小さい子どもの手を引いた格好良い奥さんと共に私は彼の家族とアートの姿勢に魅せられました。

自称宇宙人(もし宇宙人がいるならば地球人も宇宙人であるという論理から)である彼にまつわる話は尽きないのですが、彼と具体美術との関係、ニューヨークでのパーフォーマンスなどは別の機会にお話ししたい思います。私は、彼の影響もあって80年代からホーム・ビデオ・カメラを使ってビデオを撮ることになるのですが、その顛末と、現代美術における映像作品の問題は次回に続きます。

現代アートに関するあなたの疑問・質問を募集中! ご質問内容は本紙編集部までEメールにて送信ください。
Email: advert@nichigo.com.au

<著者プロフィル>
登崎榮一(Ph.D)
◎メルボルン大学哲学/美術史(2002)並びにモナーシュ大学 アート&デザイン(2016)でPhDを収得。現在は、アーティストとして活躍するほか、メルボルン大学哲学科名誉フェローまたディーキン大学でも講師を務める。
Web: bimanualdrawing.wordpress.com

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る