目覚めとんちんかん記

極楽とんぼの雑記帳

エッセイ202

ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子

目覚めとんちんかん記

 
 この間、朝と夜の区別のつかぬ、おかしな目覚めを体験した。 こんな経験は初めてだった。

 目が覚めた。時計が8時15分前を指し ている。ガラス戸の外は、まだ明けきっ ていない感じ。「あれ ?」寝過ごしたよ うだ(朝食は7時半から)。シャワーを 浴びる時間はない。慌てて洗顔をし、食 堂に駆けつけたが、人っ子1人いないの だ。きょろついていると、キッチンから 女性スタッフが顔を出し「照子、どうし ましたか ?」と声をかけてきた。 私が「もう、みんな食事を終えたんで すか ?」と聞くと「ええ、夕食の時間は 5時半だから(この時、私は「?」と思っ た)6時半には皆いなくなりましたよ。 空腹なんでしょ ? サンドイッチでも作り ましょうか ?」と彼女は言う。何が何や ら分からない。

 「いいえ構いません、大丈夫です。あり がとう。ランチの時間にお会いしましょ うね」と言うと、スタッフは、はとが豆 鉄砲を食ったような表情で首を傾げ、私 が食堂を出る時に振り返ると、同じ表情 で私を見送っていた。後で考えたが、 「照子もついに認知症 ?」と思ったのか もしれぬ。彼女の反応が当然であったの だと、後で納得できた。

  部屋に帰る途中、私の部屋とは斜め向 かいの2部屋の住人で、親しくしているC 夫婦のドアをノックしてみた。夫妻は大 きなソファーに寝そべり、DVDを鑑賞中 だった。

 奥さんのJが「夕食に来ませんでした ね」と話し掛けてきた。「ええ、嫌いな メニューだったので。だから今朝、目が 覚めたらお腹がぺこぺこ。朝食に間に合うように(夫妻の顔が不審な表情に変 わった)駆けつけたら、誰もいなかった んです」と私が言うと、夫婦はますます 不審な表情でお互いに顔を見合す。

 「あなたたち、ずいぶん早い朝食だっ たのですね ?」と続けると、数秒の沈黙 …。やがて「照子、ちょっと待って。今 朝は月曜のホット・ミールで、あなたは マッシュルーム料理を喜んで食べてまし たよね。それが月曜。今 ? ええ、今も月 曜よ」と応えた。

 「あれえ !?」。頭がこんがらがり、分 からなくなってしまった。心の中で「こ れ、おかしいぞ…」と呟いた。

 しばらく記憶の糸を手繰り寄せてみ る。月曜日はとにかく眠くて、午後のお 茶の後、自室に帰ってベッドにごろり。 そして、そのまま眠りこけ、目が覚めた ら8時15分前。その時点ではまだ月曜日 の夕方なのに、翌朝の火曜日だと思い込 み、食堂へ駆けつけたという一席を演じ た次第であった。

 私たち3人、大笑いはしたが、すっきりうごめ しない何かが心の底に蠢いていたような気がしたと、今も私は思っている。進行 していく認知症なのだろうか。年を取る とは、こういうことなのだろうか。背筋 を冷たい風が吹き抜けるような、ぞおっ とくる思いだった。

極楽とんぼの雑記帳

  照子が認知症になるわけがないとよく 言われるが、その理由たるや、認知症と はさして関係のないものだと私は思う。

1. 昔の記憶が実に鮮明である
2. あまりにも小さいので「豆子」と呼ば れた2〜5歳のころに覚えた歌の数々や、 小学校のころに習った文部省の唱歌、女 学生時代の歌、娘時代に会社内の歌のグ ループで習った歌、戦後、ちまたにどん どん広がった歌(昔は流行り歌、歌謡曲 などと言ったが、やがて演歌と呼ばれる ようになった)などを覚えている

といったことが、私が認知症にならな いと言われる理由に挙げられるのだが、 歌詞の記憶や、過去の記憶の鮮明さいか んで、認知症か否かの判断をするのはお かしいと思う。

 当ホームに入っている日本人の女性、 K子さんのことは、以前に述べているの で改めて書かないが、相当進行した認知 症なので「スペシャル・ケア」に入って いる。その彼女が日本の童謡や、流行り 歌、民謡、そして酔った男たちがかつて 歌った歌などの歌詞を、時々間違えたり しながらもよく歌うのである。

 先日、彼女の83歳の誕生日を祝い、 皆がバースデーの歌を歌うと、彼女は終 始、きょとんとした表情を崩さなかっ た。そして歌が終わると、「タンタリ ヤーノータンタン」とタンタンのとこ ろで手を叩いた。といった次第で、私は 歌詞をよく記憶しているからといって、 認知症ではないと断定できないのだと思 う。

 当ホームが、彼女にベビー人形と小さ な乳母車を与えたのだが、彼女がその様 子を押していたのは、その日のある時間だけで、次の日からはそれを見ることは なかった。「赤ちゃんはどこへ行った の ?」と聞いても、彼女はきょとんとし ているだけ。私の名前も、日本人である ことも知らない彼女。どうして私がここ に住んでいるのかも理解できない。しか し、彼女はホームの皆さんから愛されて いるのだ。彼女に暗さが全くないからだ と思う。

 じっと見据えられると、怖気立ち、背 筋の寒くなるような目の持ち主が数人、 このホームにいて、過去の人生の怨み、 辛みが、目の奥深くに燻り、鬼火のよう な炎を燃やす…。「そんな年寄りにはな りたくないものだ」と思った。

 私より後に入居したIさんは「3度結婚 して3度離婚。別れる度に金持ちになっ た」と誇らしげに言っていた。

  異性(特に新顔)に手が早いと言われ ている。しかし最近、彼女の人相が変 わってきた。以前、私はよく彼女と話を したが、彼女が女性と話をしている場面 を見かけなくなり、食事中、急に泣き出 すことが増えた。彼女の面倒をよく見る 男性が、彼女の手を取り、自分も涙ぐむ のである。

 彼女の行動や人相の変化は、認知症の 進行によるものなのだろうか。それとも 過去の怨み、辛みが彼女の内側で頭をも たげたのだろうか。

 懊悩に明け暮れた過去の苦しみや怨み、悲しみが彼女の心に舞い戻ったのか もしれぬ。それらの泥沼から早く抜け出 してほしい。


筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)
1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子どもがいる。現在サウス・コースト在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。

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