天災、人災

極楽とんぼの雑記帳

エッセイ203

ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子

天災、人災

食後、自室に戻りテレビをつけ、現われた、悪夢のような、 奇怪な映像に息を飲んだ。

  それは、黒く盛り上がって押し寄せ る、巨大な津波、それが津波だと知った のは後のこと。その無気味な盛り上がり が、ビルとビルとの間の道に轟音たてて なだれ込んだのだ。根こそぎ飲み込まれ た家屋、屋根などが揉み合うように浮き つ沈みつ押し流されてゆく。海水とはとても思えぬ黒い怪物の驀進。その正体が何であるか、テレビを通してやっと理解 できたが、あの溶融体のように見えた海 水が、どれだけの貴い生命を飲み込んだのであろうか… ? 慄然とした。黒い大津波が引いた後の、惨憺たる地獄図が、戦時中の、空襲の記憶を蘇らせた。瓦礫の下に閉じ込められた、かけがえのない生 命…思わず私は合掌していた。

 私も20歳の夏、空襲を受けている。前 代未聞、世界初の原子爆弾投下。聞いた こともないその名。私の故郷、広島は潰 滅した。

 目も眩む閃光に、剥げて垂れ下がる皮 膚を、薄く長い手袋を指先まで脱いだように、両手の指先からぶら下げて彷徨う やけど人々…それが閃光による火傷であると知 る由もなかった。当時、原子爆弾という 恐ろしい兵器の存在など知らなかった のだ。私たち4人の姉弟妹は家の中にい た。閃光に続く轟音と、体を投げ飛ばさ れる激しい衝撃。倒れる家具、落下する 天井…閃光で目が眩み、暗闇の中で妹と 抱き合い「死ぬ !」と思った2人が、曲が りなりにも生き長らえた。神仏の御加護 としか思えぬ。

 あの日から9日目、8月15日、「神国日本、無敵日本」と謳歌した祖国の無条
件降伏 ! 空襲の恐怖からは解放された が、我が家は全焼。正真正銘の宿無しとなった。援助の手は皆無に等しかった。 その夜、顔面と両手の甲に火傷を負った 父と、私たち姉弟妹は、太田川を渡り向 こう岸の山の洞穴に入り、火の海の広島 から逃れることができた。

 空襲を受けた時、避難できる身内か、 親交のある友人を田舎に持たない一家 は、A郡Y町の小学校に赴き、数日泊め てくれる農家の手配をされるようにと町 内会から指示されていたので、翌朝私たちはY町へ向かい洞穴を出た。前日、近所の2階から火の手が上った時、父は庭の防空壕から、当座役に立つ物を納めた行李を取り出し、父は待ち合わせの洞穴へそれを担いできたのだが、それをまた 担いでY町へ向かった。化膿したのか父 の顔面が天ぷらのようになっていた。6 日の早朝、父は警防団へ出かけるので不 燃性の繊維でできた警防団員用(父は消 防を受け持っていた)の制服を着て出か けたおかげで顔面と両手の甲の火傷だけ ですんだのは幸いだった。

 さて、小学校で指示され、訪れた農 家の主は出征中。2人の幼児と若い母親 3人の留守宅だった。竹林に囲まれた静 かな家の、畳に敷かれた布団…前夜の洞 穴の一夜と何という相違 ! そこでの3泊 は、その後私たちを待ち受けていた焦土 の暮らしと比べ、何という贅沢であった ことか。

極楽とんぼの雑記帳

 2日目のこと、小川のほとりで私たち の隣組の人にばったり会った。昨日、彼 女が焼け跡の様子を見に帰った時、母に 会ったという。まだ熱い瓦礫の上を、家 族の骨を探して泣いていたという母。母 は続く勤労奉仕の肉体労働で肋膜(*) を痛めていたので、瀬戸内海の倉橋島に同姓の旅館があり、新鮮な野菜や魚が食 べられるのでそこへ療養に行っていた。

 8月6日、広島から船で避難して来る 人たちから「広島は生き地獄じゃ」と聞 いた母が矢も盾もたまらず、宿の主人が 強く引きとめるのを振り切り広島へ帰っ た。宇品港で船を下り、焦土と化した我 が家まで辿りつき、そこからさらに北へ 歩を進めた(あの体で !)。

 私たち姉妹が、ひょっとしたら母は小学校で私たちのことを尋ねているのかも…と思い、そちらへ急いでいると、小川のほとりを大きな麦藁帽を被った母…誰からもその色白を羨望されていた母の真っ赤に灼けた顔が見えた。私たちは歓喜の叫びを上げて駆け寄り、抱き合って泣いた。「よう生きとってくれた !」これが母の口から最初に出た言葉だった。小学校に辿り着いた母は昨夜、大勢のケガ人が呻吟する講堂の床で雑魚寝をし た。背後で呻いていたケガ人が、今朝目 が覚めたら、冷たくなっていたという。

 その翌日、8月9日、広島に投下され たのと同種の爆弾が長崎に投下され、同 じ日にソ連(ロシア)は日本に宣戦布 告。両国が結んだ「不可侵条約」の期限 は、翌年4月というのに ! 農家のラジオ・ ニュースでそれを聞いた13歳の妹は、 ショックと恐怖のせいかひと言も発せ ず、深くうなだれたままだった。

 翌10日、私たちは、お世話になった農 家の主婦に篤く礼を述べ、父は、「ご主 人が1日も早くご無事で帰還なさいます よう念じます」と言ってから農家を後に した。息苦しいほど蝉が鳴いていた。こ の時も、父が行李を担いだ。弟は、倒壊 した家から逃げ出す時、踏み抜きをしたのが痛み、まともに歩けないので父の助 けにはなれなかった。先頭を行く父が、 私たちに、励ましの声をかけてくれな かったら、私はへこたれていたかもしれ ない。

  漸くして辿り着いた、変り果てた私たちの町。はかない一縷の夢をかけてはい たが、我が家は瓦礫の焦土と化してい た。口を開くのもしんどかったが、雨露 を凌ぐ小屋を建てるため、市中に焼け残 りの建材が残っているかも…と、火傷の父と、病躯の母がそれを拾いに出かけて行った。無傷で20歳の私に、付いて来いとは言わなかった。申し訳ないとは思 いながら、私は立ち上がる気力もなかっ た。

  どれだけの時間が経ったのか、焼けた トタンを頭に載せ、こちらに帰ってくる 両親の姿が見えた。胸が痛んだ。ごめん なさい ! 次の日も両親は出かけて行っ た。前日は、握り飯の配給を食べたが、 次の日に何を食べたのか記憶しない。父 の顔面は、天ぷらから痛々しいかさぶた に覆われていった。

 父は、器用で、数日後、拾ってきた焼 け残りのもので、表の石塀を支えに雨露 凌げる小屋を建て上げたので、これで雨 露を凌げると喜んだのも束の間、「枕崎 台風」に吹き飛ばされてしまった。

 天災、そして、国の責任である戦争の ために投下された原爆による戦災、ある いは人災 ? の物凄さ ! しかし、国から の援助らしい援助はなかった。溺れる私 たちに、助け舟は来なかった。

*編注:胸膜


筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)
1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子どもがいる。現在サウス・コースト在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。

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