38年目のシンガポール その1

極楽とんぼの雑記帳

エッセイ197
ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子

38年目のシンガポール その1

 2009年8月のある朝、突然激しい筋肉痛に襲われたことについては既に述べたが、それ以来痛みは13カ月間続き、体の動きの不自由さには閉口した。また、食欲減退と嘔吐が続いていたが、週に1度貼り替えるモルヒネ入りの貼り薬が私には強すぎたことが原因だと判明。そのころ、私は心身ともに落ち込み、真剣に自殺を考えるようになっていたのだった。広島で被爆した時に死んでいても不思議ではなかった。しかしその私は、あの日から65年生き延びた。
 65年というボーナスをせっかく頂きながら、今のこの状態では生きている価値などない。自分が苦しいだけではなく、愛する者たちを心配させるばかり。
 昼はひねもす、夜は夜もすがらの苦痛に、私は精神不安定になり、言葉の前に滂沱と溢れる涙…。主治医から抗うつ剤を処方された。
 そのころ、長女と次女が私に付き添い、シンガポール5泊の旅行計画をたてていたが、私の症状が悪化したため、キャンセルするべきか迷ったそうだ。
 そんなある日、部屋に帰ってみると電話にメッセージが入っていた。キャンベラで日本国全権大使の任を果たされ、日本へお帰りになったK大使夫人からだ。懐かしい優しい声…。私に伝えたいことがあるということで、東京の自宅の電話番号が吹き込まれてあった。
 次の日電話を差し上げると幸いご在宅で、懐かしい思い出話が弾んだ。そして以前、私に伝えたかったという話を聞き、驚きと感激で言葉を失いそうになった。任務先の国から日本に帰任された幾人かの大使と夫人が皇居に招かれた時のお話だった。
 キャンベラ駐在中に、在住の日本人コミュニティーや、戦争花嫁に会われたことなどを夫人が皇后様にお話しになった時、皇后様が「それはブレア照子さんでしょう ? 」とおっしゃった。そして「今、どうしておいでですか ? 」とお尋ねになったそうだ。

極楽とんぼの雑記帳

「ホームにお入りになりましたが、お元気です。大使館の催しにも出席されます」と、夫人がお答えすると、皇后様は「ああよかった…」とおっしゃり、(ここに書いていいのか、いけないのか私は判断できないが)涙ぐまれたという。
 体に電流が…という表現があるが、それはその時の私を表現したものと言えよう。私の名を記憶されているなんて ! 信じられない思いだった。お目にかかったこともないのだ。
 思い当たることといえば、20年くらい前に紀宮様がキャンベラへお見えになった時、日本大使館でお目にかかり、大使ご夫妻から紹介された。紀宮様が「あなたのご本、感動しながら読ませていただいております」との励ましの言葉をいただき、胸が一杯になった。
 後で大使ご夫妻から宮様に拙著「『オーストラリアに抱かれて』を差し上げては」と言われ、後日その道を通し、拙著は宮様のお手許に届いた。皇后様が一面識もない私の名前を記憶されていたのは、紀宮様に届いた拙著をお読みくださったからでは…と思う。年老いた「戦争花嫁」の名を御心に留めていてくださったその温かさ ! 受話器を握り締める手が震え、じわーっと涙が湧いた。
 心身とも落ち込んでいた私の心が、K大使夫人のお話でリフトされたためか、この時から徐々に私の症状が好転して来たように思う。そして11月14日、計画通り母娘3人でシンガポールへ行くことになった。現金なもので、あれほど真剣に考えていた自殺が、いつの間にか念頭から遠ざかったのである。
 亡夫が元気だった1970年?72年、彼の任地であるシンガポールに住んでいたため、シンガポール行きは一種のセンチメンタル・ジャーニーと言えよう。長女のつれ合い、ジムの計らいで私たち母娘3人はビジネス・クラスに。13日にゴールドコーストを発つ二女とシドニー空港で落ち合い、翌朝シンガポールへ出発する。
 思い返せば1953年11月13日、私は肉親たちに見送られ、広島県呉駅から神戸へと向かった。元気だった亡夫ビルと、生後2カ月の長男ビリー、神戸港まで私を見送るという妹順子(当時は京都の美大生)と汽車に乗る。翌日、26日間のオーストラリアへの航海が私とビリーを待っていたのだ。一方、夫は後日に空路で帰国。
 3年住んだ瀬戸内海沿岸の丘の上から小川に沿って降り、タクシーに分乗した。霧雨が降っていた。そして母方の伯母が呟いた。「ああ、今日はブラック・フライデーじゃ」。私を乗せた急行列車が、肉親たちの視野から消えた途端、プラットフォームに座り込み、ズボンの上にポタポタと涙を落としたという父。人生につきものの悲しい別れだった。
 あれから57年後の2010年11月14日早朝、私たち母娘3人はシンガポール航空のカウンターで搭乗の手続きをすませた。2人の娘が付き添い、すべてを任せておけるため気軽だった。車椅子に乗せられ、ビジネス・クラスのラウンジに案内され、軽い朝食を取った。機内で盛りだくさんの朝食が出ることを知らなかったのだ。そこから搭乗口まではかなりの距離があったと思う。車椅子で助かった。女性の係員が押してくれたのだった。
 飛行機が空中に浮き上がった時、私の脳裏にありありと蘇って来たのは、体を引き裂かれるような悲しい記憶…。
 57年前の今日、神戸港の埠頭で私を見送ってくれたのは、亡夫と妹と、小娘時代から私を可愛がってくださったH夫人の3人だった。妹は終始無言で、見送り人の下船を促すアナウンスがあるまで、ずっと私の背中をさすってくれた。妹の万感の思いが、ひしひしと私の血の中に流れて来るのを感じた。
 9時間ほどで日本へ着く今とは違い、当時のオーストラリアは世界の果て。再び日本に帰れるかどうか全く分からなかったのだ。船は岸壁を離れ、妹の姿が遠ざかる。彼女が振るコール天の登山帽(私たちはルンペン帽と呼んでいた)。肉眼では捕えられないほど小さくなってゆく妹の姿…。あの時の悲しみには2度と遭いたくない。
 やがて、シンガポールに到着。ここにもたくさんの思い出を残して、1972年、私たちは去ったのだった。


筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)
1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子どもがいる。現在サウス・コースト在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。

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