No.50 ホバートに残る日本人水兵の墓碑(前)

タスマニア再発見
旧海軍の記録に残されていた木谷次郎佐衛門3等水兵の墓前での写真

タスマニア再発見

No.50 ホバートに残る日本人水兵の墓碑(前)

文=千々岩健一郎

前回に続き、タスマニアと日本の関係史の古いページを飾る話を紹介しよう。明治のころ、はるばる日本から時の帝国海軍の練習艦が豪州をしばしば訪れていた。1878年(明治11年)練習艦「筑波」が最初に訪問し、以後1935年まで合計23回の親善訪問を行ったらしい。当時の遠洋航海の最大の問題は脚気で、1882年にメルボルンを訪問した「筑波」では水兵3人がこの原因で亡くなり、メルボルン郊外のウイリアムズタウンにその墓碑が残されている。この事実は、1991年VIC州在住のデビッドソン野口夫妻の尽力で明らかになった。しかし、ホバートの町にも同様の日本人水兵の墓碑が残されているという事実はあまり知られていない。今回は2回に分けてこの墓碑発見の経緯について取り上げよう。

話は、1902年(明治35年)5月13日、練習艦「比叡」の乗組員、木谷次郎佐衛門3等水兵がTAS州ホバート市で亡くなって埋葬され、その当時の墓前での写真が旧海軍の記録に残されていたというところからスタートする。

1996年2月、旧海軍や自衛隊出身者で構成される公益団体「水交会」から木谷水兵の墓所を探してほしいという要請を受けて、ホバートで水産業を営んでいた藤本寿一氏が調査を行うことになった。

同氏は、ただちに州の図書館および古文書保存館に赴き、1902年5月の新聞紙上に練習艦「比叡」と「金剛」がホバートに寄港したとの記事を発見、兵学校卒業の候補生を乗せた練習艦隊が、遠洋航海で訪れたことを確認した。しかし、木谷水兵のことは何も記されていなかった。この時、メルボルンで亡くなった3人の墓碑についての調査を行ったデビッドソン野口夫妻の所有する資料の中に死亡証明書の原本の写しがあり、そこにホバート市庁の受付番号が記載されていた。

この記録を元に藤本氏が調査を行った結果、故木谷水兵の墓所はサンディー・ベイのクイーンズボロウ墓地にあったが、同墓地は廃止され、コーネリアン・ベイの墓地に移設されたことが判明した。ただちに藤本氏は大学に通う長男に託してこの墓地に赴かせ、1つ1つの墓標を調べて入念に木谷水兵の墓碑を探したが発見できなかった。その旨を藤本氏に電話で報告するが、帰宅の途上に突然、乗用車が原因不明で動かなくなった。応援を求める声を電話で聞いた藤本氏は、直感的に探している墓所が見当違いで、理由の分からぬ自動車の故障は、再度原点に戻れという暗示ではないかと感じたという。(次回に続く)


タスマニア再発見

 

千々岩 健一郎 プロフィル

タスマニア在住21年。1995年より旅行サービス会社AJPRの代表として、タスマニアを日本語で案内する同社の運営を行なうとともに、ネイチャー・ガイドとして活躍。特に植物関係の造詣が深く、その専門知識をもとに各種の自然観察ツアーやメディアのコーディネートなどを手がけている。北海道大学農学部出身。

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る