タスマニア「タスマン・ブリッジの悲劇」

タスマニア再発見
No.90 タスマン・ブリッジの悲劇
文=千々岩健一郎

人口20万人の広域ホバートは、ダーウェントの流れを挟んで東西に大きく分断される。中心地は西側だが、東岸のクラレンス側にも30パーセント以上の人々が生活している。そして東西を結んでいるのがタスマン・ブリッジ(Tasman Bridge)だ。全長1,396メートル、往復5車線、タスマニアでは最も交通量の多い要路で、高い橋脚の上をゆるやかに弧を描くその姿はまさにこの港のランドマークと言えよう。今回は40年前に起きたこの橋の崩落事故について取り上げる。

西のホバート側から見た現在のタスマン・ブリッジ
西のホバート側から見た現在のタスマン・ブリッジ

1975年1月5日、約1万トンの亜鉛の鉱石を満載した運搬船が、下流側からこの橋をくぐろうとして橋脚の1つに衝突したのだ。本来は、間隔の広い中央のスパンを通過すべきところだが、船長は何を思ったのか1つ隣を通過しようとし、折からの強い流れに追いやられてぶつかってしまった。この衝突で、橋脚と共に127メートル分の橋げたと道路が船上に落下、船は沈没。同時に橋の上を走っていた数台の車も落下した。不幸中の幸いは、日曜の夜で交通量が少なく、犠牲がこの程度で済んだことだ。

しかし当時、勤務先や学校、病院をはじめ各種公共機関のほとんどが西側の中心部に存在しており、この橋が使えないことで人々は更に上流のブリッジ・ウォーターを迂回し50キロにも及ぶ移動を余儀なくされた。そこで事故の少し前に両岸を結ぶフェリーの運航を始めていた会社が活躍することとなり、その後、世界的に有名なフェリー造船会社として発展するきっかけともなった。結局、この橋の修復工事が完了し再び東西の移動が再開したのは77年。何と2年間もの間、ホバートの人々の不便をかこつ大事故となってしまったのだ。タスマン・ブリッジの下の水深は35メートルと深く流れも強いため、橋の崩落と共に沈没した鉱石運搬船を引き上げることはできず現在も橋の下に沈んだままである。

この悲劇の再発を防ぐため、修復完成以降、大きな船の橋の通過の際には一時的に車の通行を遮断することが決まり、船の運航が間違いなく行えるよう特殊なライトを使用した仕組みが導入された。また、84年には数キロ先の上流部にボーエン・ブリッジが新たに作られ、タスマン・ブリッジが使えない場合のサポート的な役割を担うことになった。


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千々岩 健一郎 プロフィル

1990年からタスマニア在住。1995年より旅行サービス会社AJPRの代表として、タスマニアを日本語で案内する事業の運営を行うとともに、ネイチャー・ガイドとして活躍。2014年代表を離れたがタスマニア案内人を任じて各種のツアーやメディアのコーディネートなどを手がけている。北海道大学農学部出身。

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