『オオカミがきた』

オーストラリアの子どもの本
オーストラリアの子どもの本 第9回
「良い絵本の選び方は ? 」と時々尋ねられます。物語にきちんと起伏や起承転結があること、言葉が簡潔で分かりやすいこと、目に浮かぶように物語が語られていること、心が高まるような物語であること、絵が美しいこと、ユーモアがあってハッピーエンドであることなどの要素は重要だと思います。特に、小さな子どもに読ませる絵本は、楽しくて、生きることが素晴らしくなる作品がいいでしょう。
写真:『オオカミがきた』(“Woolvs in the Sitee”, by Margaret Wild, Anne Spudvilas, Penguin/Viking, 2006)


しかし、時にこうした「常識」に挑戦するような衝撃的な絵本に出会うこともあります。『オオカミがきた』(”Woolvs in the Sitee”、邦題筆者訳、マーガレット・ワイルド作、アン・スパッドビラス画、ペンギン/バイキング社、2006年)は、いわゆるハッピーで楽しい絵本ではありませんが、私には、たいへん心が揺さぶられる本でした。
また、これは紛れもないオーストラリアの作品なのですが、一読してそう感じる人はいないでしょう。
そして、不可解なことに、タイトルにあるオオカミは物語に登場しません。随所に陰のようなオオカミのイメージが描かれているだけです。
主人公のベン少年は、なぜか地下室に1人で暮らしています。歩道の横の小さな窓から道行く人が見えるだけの暗い牢屋のような一室です。ベンは決して外へ出ません。なぜなら、外にはオオカミがいるからです。ただ、そのオオカミとは動物のオオカミのことでなく、人々の心に巣食っている恐怖や憎悪のことです。
ベンは、ただ1人だけミセス・ラディンスキーという中年女性に会って心理カウンセリングのような会話を交わします。「もっと外に出た方がいいわよ」「学校に戻って、趣味を楽しんだらいいわ」などとミセス・ラディンスキーは言います。しかし、ベンは「オオカミからは逃げられない」と言って外へ出ようとしません。
ある時からミセス・ラディンスキーの姿は見えなくなります。やがて、ベンは地下室から出る決心をします。胸は、杭打ち機のように激しく打ちます。ベンは、勇気を振り絞って外へ出て行きました。
『オオカミがきた』は、高学年やティーンの読者を念頭に置いた作品でしょう。あるいは、私のような大人の読者にも読み応えのある本です。この本には、暗い雰囲気が立ち込めています。
背景の落書きのような文字は、メルボルンの裏町の壁にあるような落書きそっくりです。物語の文章も崩れたスペリングと文法で書かれ、オオカミはWoolvs、町はSitee、家はHowsといった具合に綴られています(音読すれば意味が通る程度の崩し方ですが)。
私は、この作品を読んで、英国人作家オーウェルの小説『1984』を思い浮かべました。『1984』は、支配者が人々の思考を統制する悪夢のような社会を描いた小説です。
『1984』が大人の読者のために書かれた意義は明白でしょう。小説や芸術には、しばしば憎しみや残虐、暴力や死といった人間性の陰が表現されますが、そういったネガティブな側面は、その対局にある愛や理解、平和や人権の尊さを浮き彫りにします。
ただ、どうして『オオカミがきた』のような絵本がわざわざ「年若い読者」のために書かれたのかについては、専門家の間でも大きな議論を巻き起こしたそうです。しかし、出版されてからのこの作品の評価はたいへん高いものでした。
それは、この作品が、私たちが普段気付いていない視点を与えてくれるからでしょう。それも、これから大人になっていくための試練や教育を受け、さまざまな体験を経ていく子どもの読者に、です。
地下室からの低い視点は貧困を、引きこもりは塞いだ心や孤独を、落書きのような断片的な言葉や思考は憎しみや怒りを、壁に映るオオカミの陰はトラウマ(心的傷)を表しているとも言えます。
それは、多くの不幸な境遇にある子どもたちの視点でもあります。この本を読むことは、社会にはそういう視点を持った子どももあることを健康で幸福な子どもたちに気付かせることにつながります。
絵本というメディアは、社会の暗い面を避けて通る傾向があります。しかし、『オオカミがきた』は、そうしたタブーを敢えて破った作品であり、私たちが持っている既成概念に真っ向から挑戦してくるのです。
こうした深みのある作品を、そろそろ絵本は卒業という年齢の子どもと一緒に読み、その体験を話すことはたいへん意義深いと思います。それは、子どもに本を楽しんでもらうだけでなく、読書を次のレベルの、より高い知的作業につなげていく大切なトレーニングになるからです。


渡辺鉄太プロフィル
著述業。息子との森歩きエッセイ「もりのなか」を日豪プレスに2005年から06年まで連載。著書に異文化での子育てについて書いた「緑の森のバイリンガル」(三修社)、絵本「もりのびょういん」(加藤チャコ・画、福音館書店)、翻訳書に童話「ベンジー」シリーズ(アリス館)など。メルボルンこども文庫主宰。モナシュ大学客員研究員、博士(言語学)。妻は美術家で絵本作家の加藤チャコ(web: www.chacokato.com/)。96年からメルボルン在住。

 

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