見慣れた風景 『ファウストがみたもの』

オーストラリアの子どもの本
オーストラリアの子どもの本 第10回
メルボルンで暮らすようになって2、3年目くらいのことでしょうか。ある時、街を歩いていて、「たまには外国に行きたいなあ」、と思ったことがあります。その瞬間、ここは外国なのだと気が付いて、おかしくなりました。海外で暮らしていても、そこが見慣れた場所になってしまうと、そんなことも思います。


『ファウストがみたもの』(“What Faust Saw”、マット・オトレー作・画、ホダー・チルドレンズ・ブックス、1995年)という絵本を最初に手に取ったのも、そのころでした。私たち一家は近郊の借家暮らしでしたが、まだ洗濯機がなかったので、土曜日はいつも中古のコロナに洗濯物を山ほど積んで、まだ3歳だった娘の鼓子と一緒にコインランドリーに行きました。洗濯をする間、商店街の図書館の分館で、鼓子を膝に乗せて絵本を読むのが楽しみでした。
その図書館で『ファウストがみたもの』を見つけました。何だか安っぽいアメリカ映画のポスターみたいな絵本だと思ったのですが、読んでみると、おもしろくて思わずげらげら笑ってしまいました。
物語はこうです。ファウストは、グレートデンのような種類の犬です。立派な体つきのくせに臆病で、夜、外で物音がするとワンワン吠えてしまいます。そうすると家族に叱られ、外に放り出されます。ある夜、ファウストが外を見ると、庭の向こうの入り江に宇宙船が着水したところでした。その宇宙船からは、気味の悪い生き物がたくさん出てくるではないですか ! みな極彩色のヌメヌメした体をしています。爬虫類のようなもの、昆虫のようなもの、恐竜のようなもの、その怪物たちが窓からファウストを覗き込みます。ファウストは狂ったように吠えます。すると家族が目を覚まし、ファウストはまた外に追い出されてしまいました。外では怪物たちが待ち受けていて、ファウストを追っかけたり、抱き上げて空を飛んだり、大騒ぎをします。ファウストは家に逃げ込むのですが、家族は怪物に全く気付かず、その度にファウストを外に出します。ファウストは最後に町へ逃げ出しますが、運悪く保健所のトラックに捕まってしまいます。翌朝家族が迎えに来てくれなかったら、ファウストはどうなっていたでしょう ! それ以来ファウストは、どんな物音がしても外を覗くのは止めることにしました。
ファウストという名は、ゲーテの戯曲『ファウスト』から取ったものだと思われます。なぜなら、この戯曲の「ヴァルプルギスの夜」という場面は、『ファウストがみたもの』とそっくりだからです。この場面では、戯曲の主人公ファウスト博士は、悪魔メフィストフェレスに連れ出され、魑魅魍魎の集まる宴で一晩もてあそばれ、さんざんな目に遭います。この場面に作者のオトレーは触発され、この絵本の構想を得たのではないでしょうか。
この絵本の極彩色の怪物たちは、何かの動物に似ているようで、全く新しい生き物のように丹念に描き込まれています。怯える犬のファウスト、遠吠えする飼い犬に業を煮やす家族の表情もよく描かれています。一見ポスターのように見えたイラストも、よく見ると丹念に描いてあります。この画家の腕にかかると、見慣れたオーストラリアの郊外の風景も、まるで知らない外国の街並のように見えます。
美術や文学における手法に「異化(Defamiliarization)」というものがあります。これは、見慣れた風景や、当然だと思って見過ごしていることを、まるで違う、新しいものに描き直すことです。これは多くの現代美術家や作家たちが取り入れている手法で、オトレーのこの絵本も、登場キャラクターや背景の街並の肉付けに、異化の方法を巧みに取り入れています。キャンバスに(おそらく油絵の具を用いて)筆で描くという、やや古風な手法で現代的なイラストを描いていることもその効果を高めています。
おもしろいファンタジー作品は、現実をほんの少しだけひねって、視点をちょっとずらしたところから書かれているものです。『ファウストがみたもの』は、身近にありながら、見過ごしがちな視点を上手に生かして描いています。どこにでもいる臆病な飼い犬の長く眠れない夜を、豊かな想像力で脚色し、ゲーテの『ファウスト』に模したことは、絵本作品としては相当な離れ業と言えるでしょう。
マット・オトレーは、12歳までパプア・ニューギニアで過ごしました。どうりでこの絵本の怪物たちは、熱帯の動物のようにカラフルで生き生きしているはずです。また、オトレーはフラメンコのギタリストとしても活動しており、文章が短く歯切れがいいのも、音楽的素養のおかげでしょう。続編には、『ファウストのパーティ』という、さらに愉快な本があります。


渡辺鉄太プロフィル
著述業。息子との森歩きエッセイ「もりのなか」を日豪プレスに2005年から06年まで連載。著書に異文化での子育てについて書いた「緑の森のバイリンガル」(三修社)、絵本「もりのびょういん」(加藤チャコ・画、福音館書店)、翻訳書に童話「ベンジー」シリーズ(アリス館)など。メルボルンこども文庫主宰。モナシュ大学客員研究員、博士(言語学)。妻は美術家で絵本作家の加藤チャコ(web: www.chacokato.com/)。96年からメルボルン在住。

 

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