豪州各地を襲う大洪水 ラニーニャ現象で記録的豪雨※2011年2月の記事

洪水特集
1月10日、トゥーウンバ市内を流れる川の増水によって、川沿いに止めてあった車が軽々と流されていくシーンの公開映像の一部

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【編集部からのおことわり】
クイーンズランド版2月号「QLD州大洪水特集」の記事中、誤解を与える可能性のある記述があり、全国版2月および本ウェブ掲載記事では以下 のように訂正いたしました。
前)QLD州のうち4分の3にあたる面積が水に浸かった。
後)QLD州のうち4分の3にあたる面積が災害地域に宣言された。
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豪州各地を襲う大洪水
ラニーニャ現象で記録的豪雨

 

 昨年末から今年1月にかけて、大陸東部と南部の幅広い地域が大規模な洪水に見舞われた。QLD州では中東部の広範囲が冠水し、主要産業である石炭や農業に打撃を与えたほか、1月に入ると南東部の市街地に人的被害が及んだ。VIC州でも1月中旬、州面積の約3分の1に相当する州西部のほぼ全域が災害地域に宣言され、農作物やインフラに大きな損失が出ている。豪雨の原因とされるラニーニャ現象は史上2番目の勢力を記録、秋まで衰える気配を見せていない(1月26日現在)。

 

犠牲者はQLD州南東部に集中
 豪気象局(BOM)の観測データによると、大陸東部では12月末までの約1カ月間に4回の大雨を記録した。このうち12月23~28日には、ケアンズ南方に25日上陸したサイクロン「ターシャ」の影響で激しい豪雨となり、QLD州中東部の多くの測候所で1日当たりの降水量の史上最高記録を上回った。QLD州と豪東部では12月1カ月間の降水量記録も更新した。
 この雨の影響で、バンダバーグやロックハンプトンなど州中東部から南東部にかけての広い地域で洪水が発生し、12月末には2万人が避難したと報じられた。日本の面積の3倍近い「100万平方メートルが浸水した」との報道も出た。
 年が明けると、豪雨の中心はQLD州南東部の人口密集地帯まで南下した。10日にはブリスベンの西方約100キロにある地方都市トゥーウンバの市街地などが鉄砲水に見舞われ、多数の市民が濁流にのまれて命を落とした。
 国営ABC放送によると、一連の洪水による死者は11月からの累計で30人以上。スカイニュースによると10日以降の州南東部の死者は22人、行方不明者は9人。犠牲者はトゥーウンバ周辺に集中している。
 その後、洪水は人口約200万人を擁する豪州第3の都市ブリスベンにも及んだ。市内を流れるブリスベン川は13日午前4時、4.46メートルの最大水位を記録。夜が明けると、高層ビル街が茶色い濁流に浮かぶ異様な光景が現れた。
 ブリスベン川は数十年に1度、氾濫を繰り返しており、1974年1月の洪水でも死者14人を出した。その後、上流にシドニー湾2つ分という莫大な貯水量を誇るワイバンホー・ダムが建設された。同ダムについては、最悪の事態を防いだとの見方がある一方で、放水が適切ではなかった(全国紙「オーストラリアン」)とする指摘もあり、意見が分かれている。今回の豪雨では同ダムの水位が最大貯水量の190%に達したため放水せざるを得なくなり、結果的にブリスベン川の増水につながった。

 

洪水特集 1月10日、トゥーウンバ市内のメイン・ストリートを襲う鉄砲水を放映するABCニュースの映像

VIC州も3分の1が洪水
 QLD州境に隣接するNSW州北部でも豪雨の影響で河川が氾濫、一部で住民が避難し、家屋や農地が浸水するなどの被害が出た。
 また、VIC州でも1月中旬にかけて集中豪雨が発生した。20日付オーストラリアン紙は被害状況について「洪水は州面積の3分の1に及び、62町村の1,730棟が浸水、4,300人が被災した」と報じた。
 市街地が被災したQLD州と異なり、メルボルン周辺は被害を免れた。しかし、州北西部から西部にかけての広範囲の農村地帯で穀物や青果物、肉牛、乳牛などの農産物に甚大な被害が発生した。VIC州農連は農作物と農場の被害総額について「推定数億ドル」と予測している。
 VIC州では雨は収まったものの、BOMの洪水予報によると被災地の下流に位置するマレー川沿いのスワン・ヒルなどでは2月初旬に最大水位に達する見通しで、依然として警戒が続いている。
 

 

石炭輸出額は最大25億ドル減少
 鉱業・農業部門の全国規模の損失については、豪農業資源経済局(ABARES)が21日、初期の見通しを発表した。これによると、3月まで4カ月間のQLD州の石炭輸出額は、従来の予想と比較して20億~25億減少する見通しだ。炭鉱の多くは浸水で閉鎖または生産を縮小している。石炭を運ぶ鉄道や港湾施設は徐々に再開しているものの、完全復旧まで数カ月かかると見られている。
 ABARESによると、QLD州産の鉄鋼用原料炭は世界貿易量の52%と最大のシェアがあり、洪水は価格に影響を与えている。原料炭の契約価格は1トン当たり225米ドルから同300米ドル以上に高騰する可能性があり、発電用一般炭のスポット価格は既に洪水前の同100米ドル前後から1月中旬には同135米ドルに上昇したという。なお、石炭以外の資源・エネルギーの生産・輸出に大きな支障は出ていない。
 また、農産物の被害は合計5億~6億ドル(インフラの被害を除く)と試算している。小麦など冬作物は多くが既に収穫されているため影響は限定的と見られる。肉牛も一時的に対日輸出が停滞しているものの影響は軽度という。一方、果物・野菜の被害はQLD州だけで2億2,500万ドルに達し、既に大半が作付を終えた夏作物のソルガム、綿花も影響の打撃は大きいと見られている。
 

 

ギラード首相、臨時特別水害復興税を発表
 ジュリア・ギラード首相は27日、復興目的の臨時特別税を導入すると発表した。中高額所得者を対象に年課税所得に課税する。
 年課税所得5万0,001ドルから10万ドルまでは0.5%、10万ドルを超える高額所得者には1%の特別税が課せられ、年所得6万ドルで週あたりの負担額は1ドル未満、年所得10万ドルで負担額は週5ドル未満となる。2011年に限って実施し、18億ドルの水害復興資金を見込む。水害被災者には課税しない。
 これまでの試算で、連邦政府の水害負担額は、再建や災害援助金などを含め56億ドルに上るとされ、QLD州再建経費は39億ドル、それ以外の州の水害被害額は10億ドルに上ると見積もられている。

 

豪雨に引き続き警戒
 BOMは19日に発表した2月~4月の長期予報で、ラニーニャ現象について「引き続き太平洋沿岸の気象に影響を与えるだろう。秋まで継続する可能性が高い」との見通しを示した。
 南米ペルー沖の海面水温が低くなるラニーニャ現象が発生すると、オーストラリア東部は多雨となり豊作となることが多い。逆に同海域の水温が高くなるエルニーニョ現象の年は、干ばつで凶作となるのが通常のパターンだ。
 干ばつに悩まされてきたオーストラリアにとって、昨年半ばから観測されたラニーニャ現象はむしろ朗報だった。しかし、BOMによるとラニーニャ現象の度合いを示す指数は、昨年8月~12月の平均で1917/18年度以来史上2番目に高い値を示している。勢力が強すぎて異常とも言える豪雨を各地にもたらした格好だ。
 世界気象機関(WMO)は25日、現在のラニーニャ現象は今年4月または5月まで継続する可能性があると発表した。ラニーニャ現象の年は熱帯低気圧サイクロンの発生数も増える傾向がある。1月末の時点では降雨は沈静化しているが、東部の雨期が終わる3月ごろまでは引き続き警戒が必要だ。


“サンシャイン・ステート” QLD州に、史上最悪の洪水
ブリスベンCBDも浸水
 “サンシャイン・ステート”の愛称を持つQLD州は、皮肉なことに2010年末から11年年明けにかけて猛烈な豪雨に見舞われ、100年に1度とも、同州史上最悪の自然災害ともいわれる大洪水の被害を受けた。人口200万の同州の州都ブリスベンの中心部にまで水が及ぶという最悪の事態となったが、アナ・ブライQLD州首相は、連邦政府と一丸となって復興に取り組んで行くとの決意を表明している。

洪水特集

州の4分の3が被害に
 2010年のクリスマス前から降り始めた雨は、とどまるところを知らず、1月11日にはQLD州のうち4分の3にあたる面積が州政府によって災害地域に宣言された。これは隣接するNSW州全体の面積や、ドイツとフランスを合わせた面積に匹敵する大きさだ。被害を受けた市や町は86にも上る。
 当初、特に被害が大きかったのは、チンチラやコンダマイン、エメラルドなど内陸部の町で、行政が住民を強制避難させる所も出た。さらに、河川の増水域が川下に移るに連れてバンダバーグやロックハンプトンなど、太平洋沿岸の街でも洪水の大被害を受けた。
 ロックハンプトンでは、町を流れるフィッツロイ川の水位が一時9.2メートルを記録し、州南部に通じる幹線道路が冠水して寸断されたり、滑走路が冠水して飛行場が使えなくなるなどの被害が出た。
 QLD州内の被害総額は、この時点で既に50億ドル以上に上ると言われ、ブライ州首相は「過去に例を見ない悲劇」から一刻も早く同州の地方経済を立て直すため、東ティモールなどの難局面での経験が豊富な、豪陸軍のミック・スレイター少将を復旧活動の長に任命した。

 

町を濁流が駆け抜ける
 QLD州はもともと、この時期が雨期に当たるため、専門家は、避難していた人々が家に戻り復旧作業を始めたからといって、危機が去ったというわけではない、今後も引き続き大雨・洪水に対する警戒が必要だと、呼びかけていた。
 既に10日以上にわたり降り続いていた豪雨のため、地面は大量の水を含んでおり、これ以上雨が降るとさらに各地で災害が起こる可能性があったが、不幸にして、それが現実となってしまった。
 1月10日昼過ぎ、トゥーウンバで1時間に200ミリという激しい雨が降り、鉄砲水が発生した。市のメイン・ストリートを突然何の予告もなく、ものすごい高さの濁流が駆け抜けた。何台もの車が一気に流され、商店の中に水があっという間に流れ込み、通行人は木や手近にあったものにしがみついて、激流を何とかしのいだ。
 激しい流れのために壁面が外側からそっくりもぎ取られ、中が丸見えになった建物もあった。メディアが「Inland Tsunami(内陸の津波)」と称したように、あっという間に町の真ん中を通り抜けた濁流のため、死者が2人出た。
 同市の市長は、後にメディアのインタビューに答えて、「鉄砲水の発生は全く予想していなかった。発生数分前まで自分もメイン・ストリートにいたほどだ」と述べている。 
 この後、下流の町にも大きな被害が出た。特に人口350人の町グランサムは、家も車も住人をも、すべてをひと飲みにするような激しい濁流に襲われ、町の半分以上を消失するという大被害を受けた。激流によって一気に土台からもぎ取られ遠くまで流された家や、橋桁にひっかかり宙ぶらりんになっている車を映したュース映像は、トゥーウンバで、大型バンが速い流れに乗って軽々と流され、助けを求めた市民が救助隊員と一緒に茶色の濁流に流されるところを映した映像とともに、視聴者に激しい衝撃を与えた。

 

ブリスベンも洪水に
 上流で大災害を起こした流れはその後、ほかの流れとまとまって下流のイプスウィッチを通り、ブリスベンを経て太平洋に流れ出たが、その過程で両市が洪水に遭うことになった。事前に洪水に見舞われることが分っていたため、両市では浸水する可能性のある地域に住む住人を避難させるなどの対策がとられた。
 イプスウィッチでは、少なくとも3,000戸が浸水、屋根まで水に浸かる被害を受けた地区もある。また多くのビジネスが多大な被害を受けた。
 ブリスベンは1974年に大洪水を経験しているが、その後、そうした大洪水による被害を少しでも減らそうと、ワイバンホー・ダムが建設されている。しかし、今回の豪雨で、同ダムの水量が危険なレベルに達したため、1日当たり49万メガリットルを放水しており、これが豪雨によるブリスベン川の増水と満ち潮の影響を受けて、市の中心のCBDと呼ばれるビジネス街や、観光客も多く訪れるサウスバンクをはじめとする30の地区で、住宅2万7,000戸、事業所5,000戸が浸水した。
 一方で、年末に大被害を受け、家の掃除やその他の復旧作業が始まったばかりのダルビーやコンダマイン、チンチラといった町が、また新たに洪水に襲われたり、洪水の恐れがあるとのことで強制避難の対象になった。
 QLD州内の道路は、洪水被災地を中心に各地で分断され、生活物資の輸送や人々の行き来に大きな支障が出た。
 24日時点の報道で、一連の洪水による死亡者は22人、行方不明者は9人となっており、豪軍によって引き続き捜索が行われている。在ブリスベン日本国総領事館の話では、死者、行方不明者のなかに日本人は含まれていないという。
 ブリスベンで水が引き始めたこの時期も、QLD州内での洪水の危険性がなくなったわけではない。それどころか、例えばNSW州との州境に近いガンディウィンディや、12月末に被害を受けたばかりのコンダマインなどは、まさにこの時期、洪水の危険に直面していた。
 QLD州の太平洋沿いにしつこく居座って、洪水の原因となった大量の雨を降らせた雨雲と入れ替わるように、大陸を縦に切るように前線が発生し、その後はNSW州内陸部、VIC州、TAS州が豪雨に見舞われた。

 

再建への決意
 ブライQLD州首相は、再三にわたり同州再建への固い決意を表明しており、州民にも「倒されても、起き上がる」タフなクイーンズランド精神で、この危機を乗り切ろうと呼びかけた。
 ギラード首相も、「洪水は物を流し去ることはできても、クイーンズランド精神と、オーストラリア精神まで取り去ることはできない」と言い、連邦政府はQLD州と「肩を並べて」同州の復興に当たっていくと、全面的な協力を約束している。
 また、各国から支援の申し出が多く寄せられており、ラッド外務大臣は感謝の意を示した。
■QLD州大洪水が残した爪痕
死者  22人
行方不明者  9人
州内災害指定地域面積  50万平方キロメートル
被災した街  86市町村
被災地の在住者数  200万人
被災した学校  92校
被災したチャイルドケア  86施設
再建が必要な住居  2万8,000棟
(1月24日時点の報道)


洪水を迎え撃つ
ブリスベンの挑戦
 1月13日、QLD州の州都ブリスベンも洪水に見舞われた。約200万の市民を抱え、オーストラリアで第3の都市であるブリスベンにとって、「2011年1月」は忘れられない月として、同市の歴史に残るに違いない。

 

「ストップモーション」の洪水
 ブリスベンでの洪水が上流での洪水と大きく違った点は、ブリスベンには、西側に位置する衛星都市のイプスウィッチなどと同じように、洪水に備える時間があったということだ。このためブリスベンでは、必ずやって来る洪水を待ち受ける、という状況となり、ABC放送の言葉を借りれば、トゥーウンバの鉄砲水が「内陸の津波」のようであったのに対し、ブリスベンが徐々に浸水されて行く様子は「ストップモーション」を見るようだったと言える。
 同市の中央を流れるブリスベン川の水位は当初、1974年の大洪水時の5.45メートルを超える5.5メートルと推定され、ブリスベンでは市内の地盤の低い地域、特にブリスベン川に隣接する30地区で浸水の可能性があるとして、住民に避難を呼びかけた。1974年の洪水時と比較して、現在ブリスベンでは都市化が進み、川岸の人口が増え、高層の建築物も増えていることが指摘された。
 事態が刻一刻と変化していることを踏まえ、ブライQLD州首相は、2時間ごとに記者会見を行い、その様子はテレビで生中継された。ABC放送では、そのほかの番組を中止して、終日洪水関係のニュースを放送したが、記者会見には手話通訳も同席し、市民に情報を徹底して知らしめようという行政の姿勢がうかがわれた。

 

避難開始
 準備・避難の始まった10日のQLD州南東部は、雨もようやく小康状態に向かい、翌11日は終日、久しぶりの晴天となった。自分の選挙区で住民の避難の手助けをしたラッド外務大臣は、天気が回復、久々に輝く太陽を目にしたことが、これから洪水に立ち向かうという人々の気持ちを奮い立たせるのに役立ったとしている。
 市民は荷物をまとめるなど準備を始め、避難を開始した。市は何カ所かで土嚢(のう)を配布した。家から家財道具を運び出したり、店から商売道具を運び出したり、土嚢を積んだりという作業に、多くの地域で、時に腰までの水につかりながら、隣近所同士が協力したり、店の常連が手伝ったり、浸水の状況を見ようとやって来た野次馬が「ただ眺めていることはできない」と力を貸したりしているところが、ニュースで紹介された。
 早いところでは11日の夕方から浸水し始めた地区もあり、そうした地域では、行政が住民に早く避難するよう呼びかけた。起伏の激しいブリスベンには高台も多いため、同市は市民に対し、まず高台やゴールドコーストなどの近隣で豪雨の被害の少ない所に住む親戚や友人の家に避難するよう薦めた上で、そうした避難先のない人々のために、市内に2カ所、3,000人規模を収容できる避難所を確保した。
 また、ブリスベン市は以前から、洪水の起こりやすい場所を市街地図に示した地図を市のウェブサイト上で公表しているが、マスコミを通じて、この地図を再度紹介、市民に自分の住む地区の状況確認を求めた。
 商店やオフィスの集中する都心のCBDでは、11日は仕事を早めに切り上げるところが多く、午後の早い時間から郊外ヘの道路が渋滞した。また翌日は、既にCBDが浸水していることが確実なため、出勤を控えるように呼びかけた。このため、ブライ州首相によれば、12日のCBDは「まるでゴースト・タウン」のようになった。

 

行政からもさまざまな呼びかけが
 パニック買いをしないように、という行政の呼びかけもあったが、実際には、直接洪水に見舞われる可能性の少ない高台の地区にあるスーパーなどでも、食料品を買い求める人で混雑、野菜・果物などの生鮮食料品やパンは売り切れ状態となった。
 また、野次馬によって現場のさまざまな活動が疎外されるのを防ぐため、ブライ州首相や警察から市民に対し、再三「これは観光対象ではなく、災害なのだ。見に来るな、必要がないなら外出するな」という呼びかけが行われた。しかし現実には、ブリスベンが洪水に見舞われる歴史的な状況をひと目見ようとする人々が、浸水地区やブリスベン川付近に集まった。
 またブライ州首相は、「(大雨なので)水はたくさんある、と思うかもしれないが、何らかの理由で(水道)水が汚染される可能性もあり、水は貯めておくように」との呼びかけを行った。
 翌12日は、安全上の観点からも、水に浸かった地区ヘの電気の供給が停止され、13日にかけて、一時はブリスベンで12万戸の家庭と事業が停電状態になった。
 この間も、ブリスベン川の水位はだんだんと上がってきていたが、小さな船着き場などは、濁流でもぎ取られ流されるとかえって危険だということで、事前に岸から意図的に取り外されて、下流に流され、河口で回収作業される手筈が整えられた。
 避難勧告を受けた地域には高層アパートもあり、こうした人たちの中には、浸水の恐れがないということで避難しなかった人たちもいたが、電力の供給が途絶えたため、灯りをつけることができなかったり、電力を使いポンプで作動している給水・排水が使用不能となったため、「閉じ込められた」状態になった住民もおり、都会の洪水の盲点が明るみになった。

 

そして水位が最高になった
 ブリスベン川の水位が最高になるのは、13日未明の午前4時と午後4時と予想され、水位は当初、1974年の洪水時を上回る5.5メートルと予想されたが、その後、4.9メートルに、またさらに4.6メートルに下方修正され、実際には、13日の朝、4.46メートルまで上がった後、下がり始めた。
 普段は静かに流れているブリスベン川も、様子を見に来た市民によれば、大きな音を立てながら「サーフィンができそうなぐらいに」大きく波立ち、速い、激しい流れとなった。
 大型の家具や冷蔵庫など、上流から流れて来たさまざまなものに加えて、船や、市民の憩いの場となっていた遊歩道、川岸にあったレストランも建物ごと流されて行った。「私の街が水に沈んでしまった」と呆然とする市民もいた。
 高層ビルの立ち並ぶCBDにも水が及び、美しい人工ビーチや州立美術館などのあるサウスバンク地区にも濁流が流れ込んだ。
 最終的にブリスベン全体では、住宅2万7,000戸、商業施設5,000戸が浸水。多くの住宅が屋根まで水に浸かる被害に遭った。ビールのXXXXなど、多くの工場や倉庫も被害を受けたほか、青果・花の卸売り市場も浸水した。
 住人が避難した後の空き家を狙う空き巣事件も起こり、12日には3人が逮捕、起訴された。この逮捕をきっかけに、ブリスベンとイプスウィッチで合計200人の警察官が住宅の警備のために配置された。
 当初は、午後4時の満潮の時にも、川の水位が上がるとされていたが、実際には川の水は下がり続け、13日中に水が引き始めた地区もある。自宅に帰る許可は14日に出ることになっていたが、地区によっては、14日を待たずに住民による片付けが始まったところもあった。一方、地区によっては、水が引くまでにかなりの時間を要する所もあるといい、その期間は6週間にもわたる恐れがあるという。
 ニューマン・ブリスベン市長は、洪水が実際に起こる前から、既に復興対策についてを考え始めていると語っており、水位が下がり始めると同時に、ブリスベンは復興活動に本格的に動き出した。
 同市長は、浸水した地域の清掃、片付けには、何カ月もかかるほか、市民の住宅が正常な状態に戻るまでには、少なくとも1年半から2年はかかるだろうとしている。


ニュース/QLD
自分の店「raku teahouse」も冠水。壁に腰の高さくらいの最高水位時の跡も見える

現地リポート①
ブリスベン大洪水の被災地から
 まさか、自分が“被災者”になろうとは。水浸しになって今はがらんどうになった自分の店を目の前にすると、その現実を直視せざるを得ず、暗澹たる気持ちになる。しかし、美しい“リバー・シティ”ブリスベンを襲った未曾有の大災害を、たとえ被災者の立場となったとしても、きちんと伝えることに強い使命感を持ち、折れそうな気持ちを奮い立たせ、復旧作業で疲弊した体に鞭打ちつつ書き上げたルポをお届けしたい。

まさか自分が
 この夏、QLD州は“サンシャイン・ステート”という愛称を返上しなければならないくらいの多雨に見舞われていた。昨年12月だけでも例年の5、6倍もの降雨量を記録し、年が明けても大雨は収まる気配を見せず降り続いた。ラ二ーニャ現象の影響によるこの記録的多雨は、新年早々にもQLD州中部のロックハンプトン周辺などで洪水被害を続発させた。
 ご存知のようにQLD州は広い。同じ州内の災害であっても、感覚的にブリスベンから遠く離れた州中部での災害を、どこかで「対岸の火事」と思ってしまう心理は、ブリスベンに暮らす邦人には程度の違いはあれどあったはずだ。しかも、ニュース画面を通じて伝わってくる前述地域の災害が、都市災害という性格ではないという事実も手伝って、自分たちの暮らすブリスベンには同じような災害は起こらないだろうという根拠のない思い込みもあったろう。その気持ちが、災害に襲われた時の「まさか」に繋がっており、筆者も「まさか自分が」という気持ちをいまだに拭えずにいるのだ。
 毎年のように集中豪雨に悩まされる日本人にとって、洪水とは、局地的な豪雨でキャパシティーを超えた水が堤防を決壊させて濁流となって溢れ出す、言うなれば突発的なものという認識がある。今回の一連の災害では、複数の死者・行方不明者を出したトゥーウンバでの鉄砲水(インランド・ツナミ)がその感覚に一番近い事象だ。
 しかし、ブリスベンの洪水は全く違った。ブリスベン市内の洪水の危険性が声高に叫ばれ始めた10日は終日大雨だったが、以降はそれほどの雨は降らず、雨のピークから洪水までに数日のタイムラグがあった。これは、日本の「集中豪雨→増水→洪水」というパターンとは全く異なる。雨が上がった段階で「大洪水になるとか言ってるけど、もう雨はあがったし、そんなに心配はないのではないか」と筆者が軽く感想を漏らした時、義理の兄にすかさず「何言ってるんだ。ブリスベンの洪水の分の雨はとっくに降ってる。後は来るのを待って準備するだけ」とたしなめられたが、これには日豪の“洪水感”の違いがよく表れているように思う。

 

ニュース/QLD
水に浸かるニューファームの町

“完全水没”という最悪のシナリオも
 ブリスベンの街には、10日まではいつもと変わらぬ日常があった。11日に入ってからも高まる危険性が盛んに報道されてはいたが、まだまだ筆者の店のあるサバーブ、ニューファームに強い危機感は感じられなかった。この日の午後、いぶかる筆者も家内に促され、店を臨時休業にして半信半疑のまま少しずつ店の商品を運び出し始めたが、その作業をしている夕方もいつもと変わらず、犬を散歩させたりジョギングする人々の姿が多く見られ、避難し始める筆者に冗談半分で、「大丈夫だよ、そこまでしないで」と軽口を叩いた人がいたくらいだ。
 街の雰囲気が劇的に変わったのは12日の水曜日だ。その日の朝、前日の時点で当面の臨時休業を決めていたが、予想される最高水位がさらに上がったことを報道で知り、もっと商品を店から出さねばと慌てて店に急いだ。
 自宅からの道すがらのブリスベン南部はいつもと変わらぬ光景が展開されていたが、店の近くに来ると前日とは打って変わって荷物を満載した四輪駆動車や、ユートと呼ばれるピックアップ・トラックに荷物を積み込む人々の姿が多く見られた。作業に没頭していたのですぐには気付かなかったのだが、店のある通りの角の先では既に道路が冠水していて、それを見てどこか悠長に構えていた周辺住民もようやく動き出したようだった。
 ワゴンに積めるだけの商品を積み終わった昼過ぎには、店が面する通りにも排水溝からじわじわと水が上がり始め、慌てて車に乗り込んだ時にはくるぶしが隠れるくらいまでになっていた。
 この日の夕方の段階で、隣の店主から、近くのユニットに住む友人が上から目視できる限りでは「あなたの店の前にあるくず入れが、水でほとんど見えないくらいになっている」と電話で伝えられた。それもあって、満潮と重なり水位がピークに達する13日午前3時(現地時間)にはさらに水位が上がるのは明らかで、“完全水没”という最悪のシナリオも考慮に入れた。

 

非日常的な光景に絶句した
 刻一刻と変わる状況にまんじりともしない一夜を明かした13日木曜日。早朝から報道は甚大な被害状況を伝えていたが、テレビ各社がほとんど同じサバーブの状況ばかりを繰り返し伝えるので、被害の全体像が見えない。周辺の店主や周辺に住む知人も皆避難していて、どういう状況が全く把握できていないで不安は募るばかりだった。しかし、報道やインターネットでの情報を繋ぎ合わせると、店の近くまではたどり着ける、サバーブ全体ではそれほど被害が甚大ではないようだと判断。午前10時過ぎ、可能な限り店に近づいてこの目で被害を確認しようと思い、危険だと止める家内を自宅に残して店に急いだ。
 見慣れた景色が水に浸かっている、しかもどっぷりと…。非日常的な光景にただ絶句した。それでも、店は完全水没を免れ、1メートルくらいの浸水被害に留まっていた。
 店のあるサバーブは全体的に予想よりは軽い被害ですんだのだが、ブリスベン市内のいたる所で予想をはるかに上回る甚大な被害が出た。筆者の知る限りでも、市中心部に近いミルトンで身ひとつで避難を余儀なくされたワーホリの女性、すんでのところで水没する家から避難することはできたが自宅と家財道具のすべてを失った邦人家族、周辺の水没によって高層ユニット内で孤立し、電気のない生活を強いられた学生など、いろいろな被害が聞こえてくる。
 14日の金曜日になって、予想より早く水は引き、清掃作業が開始された。前日の水浸しとは打って変わって、そこには泥まみれの光景が広がる。泥がまとわりついて重くなったドアを力を込めて押して入った店内は、まさに悲惨な状況だった。正直、外から見た以上のひどい状態で、完全復旧までいったいどれくらいの費用と時間が掛かるか見当もつかない。

 

ニュース/QLD
水に浸かって使いものにならなくなった店内のものを運び出し、泥をはき出してくれる見ず知らずのボランティアたち

我々は不屈のクイーンズランダー
 被災直後の初期復旧作業でとにかくありがたかったのが、数多くのボランティアの献身だ。作業当初は、近くに住み自らは被害に遭わなかった人々が自然発生的に集まり、その日の午後からは、市役所の手配したバスに乗ってスコップ、モップ片手のボランティアたちが大量にやって来た。手製のサンドイッチ、ビスケット、お菓子などを配って歩く若者や老婦人、安否を気遣って駆けつけてくれる友人。日本の某前首相が唱えていた空虚な理論としてのそれとは大いに異なる“友愛”の精神がそこにはあった。
 ブリスベンや周辺の被害地域が、被害前の状態を取り戻すのにはいったいどれくらいの期間が掛かるかは皆目検討がつかない。ただ間違いなく言えるのは、この街は必ず復興する。ボランティアに汗を流す人々、必死に前を向こうとしている被災者の真摯な姿を見るにつけ、その思いは強くなる。
 この場を借りて賞賛を送りたいのが、州内での災害発生以来、不眠不休で陣頭指揮を執り続けるアナ・ブライ州首相だ。彼女の言動が、多くの被災者にどれだけの勇気と希望を与えたか。政治的立場を乗り越えて献身する真のリーダーの姿を見た気がする。最後に彼女の感動的なスピーチの一節を引用して本稿の終わりとしたい。
 今こそ、自分たちが何者かを思い起こしてほしい。我々はクイーンズランダーなのだということを。我々は州境の北側でタフに生まれ育ち、たとえ倒されても必ず再び立ち上がる、クイーンズランダーなのです。
“I want us to remember who we are. We are Queenslanders.
We’re the people that they breed tough, north of the border.
We’re the ones that they knock down, and we get up again.”


リポート=植松久隆
ブリスベン在住の日豪プレス特約記者。ブリスベン市内ニューファームにカフェ「raku teahouse」を経営する傍ら、フリーライターとして不定期で日豪プレスにさまざまな記事を執筆。今回は取材者、被災者の全く異なる2つの立場を同時に体験し、本稿を復旧作業の合間に書き上げた。


洪水特集
貴重な経験を語ってくれた西田有紀さん(筆者撮影)。

現地リポート②

ブリスベンの邦人
被災者はその時
取材・構成=植松久隆
 ブリスベンにはいまだに黄土色にくすんだ街並みが残る。言うまでもなくそこは今回の洪水被害地域で、発生後10日あまりが過ぎ、応急の清掃作業が終わってもまだ、拭いきれない泥が乾き、路面や路肩、家々の芝生や壁を黄土色にくすませている。
 洪水被害を受けなかった地域では、人々は既に洪水前とほぼ変わらぬ日常を取り戻しており、災害直後の喧騒が過ぎ去った後の、「喉元過ぎれば…」という感覚が出てきている。しかし一方で、被災者の多くはいまだに逃れらない現実の中でもがき続けているのが現状だ。
 インタビューの指定場所に姿を見せた西田有紀さんは、被災以来初めて復帰したというアルバイトの休憩時間に、貴重な時間を割いてくれた。異国の地で被災という予期せぬ過酷な経験をした直後にもかかわらず、「仕事でもして体を動かしていないと、いろいろ考えてしまうから」と気丈に笑う有紀さん。現在、ワーキング・ホリデーでブリスベンに滞在する彼女は、シティにほど近いミルトンというサバーブの一角の、お洒落な店が集まるロザリーに、ボーイフレンドと彼のお母さんと3人で暮らしている。
 ロザリーと言えば、洪水発生直後から市内中心地から近い被害甚大なエリアとして、メディアに多く露出していたが、直前にすんでのところで避難をした有紀さんは、「どれほどの被害か実はほとんど知らなかったんです。避難先も停電でテレビを見られませんでしたから」と語る。
「74年の洪水でもこのエリアがやられたのは知ってました。でも、まさかここまでとは。前日に『身の回りの品をスーツケースに詰めて』と言われた時も、正直、半信半疑でしたから」。しかし、洪水は彼女の予想をはるかに超えるスケールで住み慣れたサバーブを襲った。すぐに隣のサバーブにある知人宅に避難するが、程なくそこも停電し、テレビやインターネットといった情報源からしばらく隔絶される。

洪水特集
彼女が暮らすロザリーの中心は完全に水没し、ボートが行き交う別世界に(右・本人提供)

「全く情報がなく、いったい何がどうなってるのって感じでした。停電が予想以上に長く続いて、携帯の充電もできませんでした」
 避難先では、被災者とそうでない人との置かれた境遇の違いを痛感するような経験もした。「避難先周辺は停電以外全く被害がなかったんです。隣人のほとんども仕事が休みになり、中には憂さ晴らしでパーティーで大騒ぎするような人たちもいて、避難してきた身として少しやりきれなさを感じまた。それを察した彼のお母さんの友人が、その家に苦情を言ってからは、ぱたりと静かになりましたけど」
 日本語が堪能な彼とはもちろん、周囲との英語でのコミュニケーションに問題を感じていなかった有紀さんだが、「やっぱり大変な時には、彼も英語になるし、しかも早口になる。いつもは分かるお母さんの英語が聞き取れなかったり、ボランティアの人の英語がうまく理解できなっかたりと、嫌でも『言葉の壁』を意識させられました」と、思わぬ不便も語ってくれた。
 洪水発生から2日目、ようやく水が引いたとの情報を得て戻ってみると、家はぎりぎりのところで水没を免れていた。「ほんとうに数件隣は水没していて、見慣れたロザリーの街並みも全く別世界。もうあと少し水が来てたらと思うと…」
 彼を含めたオージーのたくましさ、そしてボランティアの献身などの優しさに触れることで、彼女はショッキングな経験から立ち直りつつある。「普段どこか頼りなさげだった彼が、避難や復旧作業の時に人にいろいろと指示したり差配したりと大活躍で、彼のことを大いに見直したし、2人の絆も深まりました。この経験があっても、ブリスベンで暮らしたい気持ちは変わりません。むしろ強くなったかもしれません」
 華奢な体ながら凛とした強さを感じさせる彼女の後姿を見送りながら、「彼女なら大丈夫」そう感じた。

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洪水特集
被災後も変わらず営業中の「サクラ・クーパルー」店内での久保田夫妻(左上・筆者撮影)。

 久保田修広・哲子夫妻の復旧の道程はさらに長くなりそうだ。
 ブリスベンの閑静な住宅街のクーパルーで、日本食レストラン「サクラ・クーパルー」を営む夫妻は被災直後から、変わらず店を開けている。通常通り営業するレストラン、そこで毎晩働く彼らの姿、それらは一見被災前と変わらぬ日常に映る。それがゆえに訪れる客のほとんどは、まさかオーナー・シェフ夫妻が、今回の洪水で家を失ったなどとは思いもよらない。しかし、彼らは元の生活を取り戻すまでにいったいどれくらいの時間が掛かるのか、全く想像もつかないという状況にある、正真正銘の被災者なのである。
 夫妻の住むブリスベン西郊の町ダーラは、当初、市当局が発表した被害が予想されるサバーブには含まれておらず、サバーブ内で被害を受けたごく限られた地域の住民にも、一切、市当局からの働き掛けはなかったという。
「地形からしてみても、むしろ川寄りのクーパルーにあるうちの店の方を心配していたんですよ。でも実際は店は全く影響なしで、思いもよらない家がこの有様ですから」。ご主人の修広さんはデジカメの画面を指差しながら言う。その写真には水位が屋根まで達した見るも無残な彼らの自宅の変わり果てた姿があった。

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大きな冷蔵庫もなぎ倒された水が引いた直後の屋内(左下・本人提供)。

「前夜から一応、身の回りの物は持ち出せるようにしていましたし、全く無警戒だったわけではないんです。ただ、月曜に雨が上がり始め、火曜にはほとんど降らなかったし、もう洪水はないかなと。だって、日本だと洪水って豪雨直後って感じがあるじゃないですか」。修広さんと同じように「雨が止んだ時点で洪水はないと思った」という感想は、多少の表現の違いがあれど、今回取材したすべての邦人被災者から等しく聞かれたことである。
「それでも、前日には用心のために店を閉めました。考えられる限りの対策を店に施した後は、久々の臨時休業で夜はゆっくりできる、くらいの気持ちがあったのですが、こんなことになるとは。ほんとうに『まさか』ですね」。哲子さんは冗談めかして言うが、その言葉には被災者しか表現できない実感がこもる。
 13日の早暁3時過ぎ、2人の家のドアが激しくノックされた。向かいの夫婦が「この辺もかなり危険そうだから、避難した方がいい」と知らせに来たのだ。2人とも完全に寝入っていたわけではないが、「もし隣人が知らせてくれなかったら ?」という筆者の問いかけに、夫妻は「危なかったでしょうね」と顔を見合わせる。その隣人の「お向かいにも知らせておこう」という機転がなければ、最悪のケースも考えられたのだ。
 被災直後から知人宅を転々としてきた夫妻は今、懇意にする知人の家族の家で、リビングを仕切った急ごしらえのスペースに不自由な仮住まいをしている。日中はできる限り被災した家での作業をして、夜も休まずにレストランを開ける。そんな二重生活が早10日を過ぎようとしているだけに、さすがに疲労の色は隠せない。
「今の場所も、2月上旬に出なきゃいけない。家にはいつ戻れるか分からないし、次はなかなか見つからない。全く先が読めません」。修広さんはため息混じりに言う。

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ピークから数時間後の自宅前、隣の木のかなり上部分まで黄土色になっているのが見えるが、ピーク時はその高さまで冠水した証拠だ(右・本人提供)

 夫妻には家族同様に可愛がってきたペットの2頭の犬と1匹の猫がいるのだが、被災以来、彼らと一緒に暮らせない状態が続く。「彼らがとても心配。なかなかペット可の物件がないので、この先も一緒に住めるのか。どなたか、ペット可で一時的にお世話になれる物件があれば紹介してって、書いてくれますか」と筆者に語る哲子さんの瞳は、知人宅に預けている愛犬と愛猫の姿を思い起こしてか、少し悲しげに見えた。
 いつまで続くか知れないジプシー生活を強いられる夫妻も、たくさんのボランティアや友人知人からの好意の申し出に支えられて、被災の厳しい現実から少しずつ立ち直ろうとしている。
「こんな目に遭っても、ブリスベンでの生活を止めるつもりはありません。今回でオージーたちの良さを身をもって知りましたから」。そう語る修広さんの笑顔の横で、哲子さんも軽く頷いた。
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「復興」。言葉を発すればたやすく聞こえるが、残された課題も多く、決して楽な道程ではない。ブリスベンの邦人コミュニティー全体が、この災害を他人事に終わらせず、被災者が必要とする手助けを積極的に行っていくことも必要になるのではないか。筆者も及ばずながら、今回この未曾有の災害とその被災者をリポートすることで、その動きの先鞭を付けたいと思う。
 今をさかのぼること16年前、阪神淡路大震災の被災地・神戸は、「がんばろう神戸」のスローガンの下で、一丸となって復興を成し遂げた。
 がんばろうブリスベン――。全豪の邦人コミュニティー全体がこの思いを共有し、形にできれば、それが被災者にとって大きな支えとなることは確かだ。

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