【新年インタビュー2016】藤岡弘、さん「すべてが武士道に」

新年特別インタビュー

HIROSHI FUJIOKA
藤岡弘、さん

“すべてが、武士道につながってきた”

HIROSHI FUJIOKA

HIROSHI FUJIOKA

どんなことにも体当たりでぶつかり、自分で実感することで本質に迫ってきた。子どもたちのヒーローになった時も、世界の子どもたちを抱きしめた時も。そんな俳優・藤岡さん自身を支え、原動力となっていたのは、幼少のころから鍛錬した武士道の精神だった。名前の「、」は、昔の武将が決意を示すときにつけたもの。周囲に流されず、まだ道半ばであることを自覚するためだという。取材・文=石川良一

試練の連続だった『仮面ライダー』

――デビューは1965年の松竹映画『アンコ椿は恋の花』ですね。2015年には芸能生活50周年を迎えられましたが、そもそも俳優を目指したきっかけは何だったのでしょうか?

私の生まれは愛媛県です。四国八十八ヶ所のちょうど真ん中、44番目の札所である大宝寺があるところでした。海抜900メートルほどで、高原が広がっている小さな村です。警察官だった父親の転勤で、その後も県内を転々としましたが、みんな自然の中で育つような環境でした。

そんな田舎で一番の刺激は、やはり映画だったんです。戦後入ってきたアメリカ映画、フランス映画を見て、異国の文化に感動し、また日本の歴史的な映画にも心奪われました。「その世界に入りたい!」という思いが高じて、高校卒業後、中央である東京まで来てしまいました。東京では、今でいうフリーター生活を送りながら、俳優養成所を3カ所ぐらい渡り歩きました。そして、アルバイト先で偶然スカウトされて、松竹映画でデビューしたんです。

――その後、松竹を離れて、不朽の名作『仮面ライダー』の1号として、子どもたちの絶大な人気を勝ち取るヒーローになりました。ヒーロー物に挑戦しようと思ったのは、なぜでしょうか?

ヒーロー物というより、アクションがしたかったんです。松竹では青春映画に出演させていただいたのですが、私は自分の若い肉体の躍動を生かせる自分らしい表現、男の世界というのかな、そういうものを求めていた。それでオーディションを受け、勝ち取った役が仮面ライダーこと、本郷猛でした。2016年で『仮面ライダー』は45周年ですので、もう45年前になりますね。

当時はスーツ・アクターがいなかったので、私自身がスタントも含めて演じました。ハードでしたね。仮面をかぶると視野が狭くなり、遠近感がなくなります。その状態で高いところから飛び降りたり、崖っぷちを二輪車で走ったりするわけです。しかもロケ現場は山を造成した工事現場が多かった。当時、田中角栄総理大臣が日本列島改造論を唱え、あちらこちらにそんな場所があったんです。工場の廃墟も多かったですね。そこはもっけのショッカーのアジトとなりました(苦笑)。

とにかく、足元はデコボコ、石はゴロゴロ。そんな環境でのアクションですから、ケガも絶えなかった。1日何百カットも撮影があり、雨が降って地面がぬかるんだ状態でもアクションが行われました。やっと自分でつかんだチャンスだから、死にものぐるいでやりましたよ。

でも、10話目の撮影のときに、アクシデントが起きました。乗っていた二輪車がカーブで大きくスリップし、全身を強打。もうろうとした意識の中で、ふと左の太ももを見ると、90度方向に人形のように曲がっていました。まずいと思って、倒れた状態でその足を自分で持って正しい方向に戻したことを覚えています。その後、意識を失い、救急車で緊急搬送。診断では大腿骨が複雑骨折しており、今の医療では再起不能と言われました。

当時、私は24歳。夢も希望もあった多感な青年でした。将来を絶たれた衝撃は凄まじいものでした。そんな私の将来を案じてくれた人たちが、ベトナム戦争で採用された最新の手術を執刀できる医師を紹介してくれました。

テレビ放映も、本来ならば不可能だったのですが、事故を非公表にし、「仮面ライダー1号は、ショッカーを追って南米に向かった」という設定を追加。その間は2号が日本を守りました。そして、1号が帰ってくることを、みんなが信じて待ってくれたのです。これは賭けでした。

――そして、奇跡の復活を果たしたわけですね。

日本で初めてだった手術は、無事成功。1年間の必死のリハビリを経て、復帰しました。1号、2号が「ダブルライダー」としてそろったとき、子どもたちは歓喜して迎えてくれました。以降、伝説的な視聴率をマークし続ける番組となったんです。自分の演じている仮面ライダーに、これほどまで子どもが騒ぎ、影響を与えているということを知ったのもこの時です。

しかし復帰初日の撮影は、怖かったですね。事故を起こした時と同じ、二輪車で走るシーンが、最初だったからです。しかもロケ地はえびの高原で、火山岩がデコボコした道無き道です。恐怖しかなかった。でも、これをやらないと未来はない。俺はこの恐怖を乗り越えないと、次はないんだと。そういう思いで勇気を振り絞りました。

撮影のスタートがかかった後、正直なところ、覚えてないんですよ。どうやって走って、戻ってきたか。それぐらい頭が真っ白になりましたね。

――まるで、壁を乗り越えるために、見えない誰かが壁を用意したような…。

青春時代は次から次へと巨大な壁が覆いかぶさってきましたね。自己との戦いを通じて、挑戦力が強く、強く鍛えられた気がします。子どもの頃から武道をやっていたので、それも多少、役立ったのかなという気がします。

武道は、生か死かという戦いの技術を学ぶようなもの。何事も危険極まりない稽古だといえます。骨が折れる、ヒビが入るというのは当たり前。下手をすると首の骨を折って死ぬ。相手も殺してしまうかもしれない。そんな恐怖を感じながらの訓練ですから、一度気を抜いたら何が起こるかわからない。

それは、自分の精神との戦いです。自分自身が越えられるか分からないから、やるしかない。挑戦して、失敗して、克服する。その繰り返しなんですよ。それを体で覚えていくんです。そういう部分が、知らずに力になっていたんじゃないかと思います。

――武道は、お父様に学んだそうですね?

警察官の父は、武道家でもあり、地元の青少年に指導していました。私は幼少のころ、非常に身体が弱く、肺炎で死にかけたこともありました。その時は医者にも見放されて、遺影まで撮ったんです。

でも母は諦めませんでした。湿布を何度も貼り替え、一晩中、必死に看病してくれたおかげで、一命を取りとめたんです。母は明治生まれの強い女性でした。母だったから、助けてもらえたんだと思います。そういうこともあり、両親は私の健康を案じて、心身を鍛えるために武道に取り組ませたんです。食べ物にも気を遣ってくれました。そんな親の愛に感謝しています。

ボランティアで知った、人間の真実

――あまり公表なさっていませんが、世界各地でボランティア活動をされていますよね。

子どものころ、お遍路さんを村人みんながもてなしている姿を見ていましたし、「お接待」をする母を私も手伝っていました。私にとって、「困っている人を助ける」というのは、ごく自然なことだったんです。それで、仮面ライダー時代に、ある人の紹介で気軽な気持ちで、児童福祉施設や養護施設を訪問したことが始まりです。その活動が徐々に世界まで広がっていきました。始めた当時は、「ボランティア」という言葉もなかったんですよ。当たり前のこととしてやっていて、「これ、ボランティアっていうのか」、というのは後から分かりました。

――海外の訪問先は、紛争地や難民キャンプなど、危険なところも多いですね。

ええ。虐げられ、戦争から逃れ、必死で生き抜いてきた人に出会ったときのショックは、並大抵のものじゃありませんでした。

難民キャンプを訪れた母親が、背負った赤ちゃんを見せ、「助けてくれ」と言うんですよ。でも、額に手をかざすとものすごい高熱で、明らかに手遅れでした。母親もそれは分かっていたんです。それでもその子を見捨てようとせず、キャンプまでの危険な道のりを何日も何日も歩いてきた。そのような人が1人ではない。何百人、何千人と押し寄せてくるんです。

こういう世界があるんだと、実体験で分かってしまった。世界の裏、闇を見てしまったんです。それ以来、ますますボランティアに入り込んでいきました。

――直接訪れることを、心配する声もあったのでは?

でも難民の子どもたちを見ると、自分で助けたいという思いがありました。いや、助けたいというのはおこがましくて、そういう中で生きようとしている人たちの姿勢に胸を打たれて、感動をもらったんですよ。生きるとはこういうことかと。もしかしたら自分の先祖にもこういう気持ちで命をつないできた人がいて、今、自分が存在しているんじゃないかと思ったんです。自分の傲慢さを恥じ、大きな勇気や愛をもらったような気がしました。

ボランティアは、自己発見の場なのかもしれません。狭い視野で、短絡的に物事を見ていたことに気付かされる。人間社会の歪みも見える。そこで生きる人の苦悩を知る。しかし、悲しみ、苦しみ、痛みを伴う感動もあることに気付かされるんです。

――その感動とは、どういうものなのでしょうか?

ある戦場で、袋に入れたアンパンを子どもたちに持っていったことがありました。しかし子どもたちは、飢えているはずなのにじっとにらみつけるだけで、決して食べようとしないんです。「そうか、私たちを、敵か味方か見定めようとしているのか!」と気付いて、パンの袋を破り、食べて見せたものです。安心させるのには時間が必要でした。

でも、どうしてそうなったのか疑問でした。そこでコーディネーターや通訳に事情を聞き、愕然としました。この子たちは、目の前で親や兄弟が銃弾の弾除けとなり、その死体の下から這い出て、生き残った子どもたちだったんです。打ちひしがれて、魂もズタズタになって、大人を信じられなくなってしまった。私はコーディネーターたちに言われました。「殺す人間だけじゃなく、救う人間もいるんだということを伝えてほしい」と。

悲しい現実です。でも、奇跡の子どもたちです。なぜなら、親が自分の命を捨ててまで、守った子どもたちだからです。民家を襲う敵軍が迫り、逃げ場を失くした親が子どもを屋根裏に隠した、という戦場もありました。その子の真下で親は虐殺されましたが、子どもは生き残ったんです。子どもに未来を託したのです。

命より尊いものは愛だということを、まぎれもない事実として実感し、涙しました。国境も民族もイデオロギーも宗教も越えて、親の愛は同じでしたね。

――このような経験は、俳優業にも結びついていますか?

血となり肉となっていると思います。俳優は仕事で、自分の夢とロマンの追求でした。最近は人間探求の比重も大きくなってきて、やっと公私が合致する歳になってきたのかな、と思います。

2016年、大河ドラマで本多忠勝に

――2016年は、NHK大河ドラマ『真田丸』に、徳川家康を支えた随一の猛将・本多忠勝として出演されますね。あるネット・ニュースの書き込みでは、「藤岡さんが本多忠勝だと、勝てる気がしない」というコメントもありました。

いやー、現場でも「本物だよ、そのまんま本人がいるんじゃないか」と言われて、くすぐったい思いをしています(笑)。ただ、自分は演じるのは得意じゃなく、なりきってしまう。その人に思いに馳せ、できる限り近付こうと努力しています。

――ご自身でも、本多忠勝とダブると思うところがありますか?

ダブるというより、私自身、忠勝の生き方に共感することは多々あります。日本民族の武士道精神の鑑、原点ともいえる存在が本多忠勝だと私は思っています。忠義と忠孝。二君にまみえず。国のため、故郷のため、愛する家族や人々のため、自己犠牲の精神を持った人物。私利私欲なく、公的精神で生きていました。家康を支えたのも、「この主君こそ万民を幸せにしてくれる」と信じたからです。

また、死者に対しては敵味方に関わらず、弔いの精神を持って手厚く祈る人だった。そこに日本の心を見たんですよね。このように、国家安穏、天下泰平を夢見る武将で、争いよりも和を求めていました。

――本多忠勝というと、14歳の初陣から53度戦って、まったく負傷したことがないなど、豪傑なイメージがありましたが。

違うんです。豪傑のイメージをつくることで、威をもって相手を制した。「私と戦っても敵わないだろう、だから話し合いに応じよ」と和議を求めたのです。そして、敗者に対して施しを与え、その代わり命を私に捧げよ、と仕えさせた。当時、そのように敗者の命を救うのはありえないことでした。それで忠勝にみんな恩義を感じたんです。絶えず、敗者を慈しんで、許し、抱きしめる、そんな人でした。

また、主張するより、相手を察し、尊敬の念をもって接することを重んじました。当時は“スッパ”と呼ばれ、人間扱いされなかった忍者を登用したのも、その一例です。忍者によって、今では当たり前となった、情報戦を巧みに操りながら、家康を支えました。家康が、決死の伊賀越えを実現できたのも、伊賀・甲賀の忍者たちの活躍があり、その提案を行ったのも、本多忠勝だったと言われます。

さらに民衆の声にも耳を傾け、下の下の者まで手厚くもてなしながら、その心を全部受け、消化して、家康に進言していました。このように裏でかなり暗躍しながら、徳川家を支えたんです。

53度戦って無傷だったのも理由があります。本多忠勝を、兵や仲間が守ったんです。「この人にこそ命を捧げて守りたい、この人の存在がなくなったら自分たちの未来がない」と。だから戦場で死んでないんですよ。

武士道にはこういう言葉があります。「最も剛毅なる者は、最も柔和なる者なり。最も勇気ある者は、最も愛ある者なり。奢れし者を打ち砕き、敗れし者を慈しみ、失われぬ他者への哀れみの心を。平和の道に立つること、これすなわちもののふの道、武士道なり」。これこそ、本多忠勝を象徴していると思うんです。

――芸能生活50周年という節目を越えた今、本多忠勝を演じる機会を得たのは、巡り合わせのようですね。

実はこの役をもらう前から、本多忠勝公に目を付けてましてね。大多喜城、関ヶ原など、その足跡をたどってあらゆるところを回り、調査のたびに感動していました。その途中で、NHKから「本多忠勝を演じてほしい」とお話があったんです。びっくりしましたね。なぜこのような人物が取り上げられないのか不思議でしょうがないと思っていた矢先に、まさかこんな話をいただくなんて。これも縁ですかね。

コーヒーに込めた思い

――今後もますますご活躍が期待されますが、芸能活動以外ではどうでしょうか?

発展途上国支援を兼ねたコーヒーをプロデュースしました。なぜコーヒーかというと、世界100カ国以上を回る旅の中で、いろいろな人との出会い、ふれあいがありました。私は人との出会いによって、人生が変わり、運勢が変わり、歴史まで変わるだろうと思っているんですよ。その中で気がついたのは、コーヒーでもてなされることが非常に多かったこと。コーヒー文化というのは、これほどまでに世界を網羅しているのかと感心しました。

発展途上国でも、村の入口を囲んでいるのは全部コーヒーの木でした。利用のされ方もさまざまです。いざという時は、戦闘モードになって一族を守るための「気つけ」として。病気の時は「薬」として。そのほか、儀式やお祝いの時、客人をもてなす時など、いろいろな状況でコーヒーが使われていました。

何より貧しい国では、コーヒーが経済の源でした。アフリカのマラウイという国は、世界で最も短命な国と言われ、平均寿命は40歳以下。成人できる子どもも、5人に1人か2人という過酷な状況でした。そこで自分が力になれるならと、自然栽培されるコーヒー豆の販売を手掛けました。テレビなどで紹介すると、すぐに完売。もっと紹介してほしいという声に応え、今はペルー産のコーヒーを『藤岡、珈琲』として販売しています。

このコーヒー豆は化学肥料を使わず、洗浄は全部手洗いなんですよ。なぜなら肥料も、洗浄する機械も買うお金がないからです。私にとっては、本当に感謝しながら飲まなくてはいけないコーヒーです。

――コーヒー1杯にしても、そんな背景がある。それを実際に自分の目で見て、体験して実感されたのですね。

真実、本質というものは探求しないと見えてこないもの。それは、実感、体感しないといけないんじゃないですかね。だから学問を身につけただけでは両輪じゃないんです。恥ずかしいけれど、この歳になって気付かされているところですね。

まして今は混沌として先が見えない世の中。国家も、世界も、個人も、企業もすべてが、生き残るために必死に模索しています。だから、人間の本質が問われる時代になったと感じます。本質とは愛だと思います。愛の発見の旅が始まったんです。

その中で武士道の精神は、世界に共通する道徳を内包しているので、非常に重要だと考えています。多くの人を許し、抱きしめるがごとく愛おしんでほしい。そういう生き方こそ日本人らしく、世界の人に日本人とはこういうものかと感じてもらえるのではと期待しています。

オーストラリアをはじめ、海外で活躍している方は、日本のいろいろなものが見えてくると思いますが、ぜひ日本は世界に影響を与える民族だと、誇りをもって生き抜いて欲しいと願っています。私自身もそうありたいと思い、世界を旅しています。

――本日はたくさんの気付きをいただきました。長時間にわたるインタビュー、ありがとうございました。

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