【新年特別インタビュー】五十川明さん-ファッション・デザイナー

インタビュー=馬場一哉、写真=伊地知直緒人、Photo: Naoto Ijichi

【新年特別インタビュー】

世界を舞台に活躍する
ファッション・デザイナー

五十川明さん(Akira Isogawa)

オーストラリアを代表するファッション・デザイナーであり、パリ・コレの常連として世界を舞台に活躍するシドニー在住のファッション・デザイナー、五十川明さん。2012年に内閣府より「世界で活躍し日本を発信する日本人」に選出され、16年には日豪交流の功績が称えられ外務大臣賞を授与された。1986年2月にワーキング・ホリデー制度を利用し来豪、その後瞬く間に世界で活躍するに至った五十川明さんの源流はどこにあるのか。
(インタビュー=馬場一哉、写真=伊地知直緒人、Photo: Naoto Ijichi)

無口だった少年時代

──ワーキング・ホリデー・メーカーから世界に羽ばたいたサクセス・ストーリーが語られる機会の多い五十川さんですが、今回はその恵まれた才能のルーツなどを求め、子ども時代までさかのぼって話を聞いてみたいと思っています。

「非常におとなしい、自分の言いたいことを話さない、どちらかと言えば内向的な子どもだったと思います」

──社交場ではいつもニコニコ笑顔で話す印象があるので意外ですね。

「中学生くらいのころはあまり外にも出ないし内向的でした。全てを自分の頭の中で解消し、解決していたため、言葉はあまり出てこないという感じでした」

──何かスポーツなどはされていなかったのですか。

「運動にはあまり興味が無かったので部活動もするつもりはなかったのですが、父も兄も野球ファンで運動をやった方が良いとアドバイスされたので一番体を動かさない、激しくないというイメージで卓球を始めました」

──そのイメージとは裏腹にハードなスポーツですよね。

「ええ、ビックリするほどハードでした。でも3年間卒業するまで続けました」

──大変だと思いつつも続けられたわけですね。

「一度始めたら根気良く続けるタイプでもあるんです。小学生の頃、書道を習っていたのですが大抵の人が小学校を卒業する段階で辞める中、自分の場合はずっと続け、最終的にはコンクールで特賞を頂きました。他にもそろばんなど何でも根気よく続けました。ただひたすら静かに目の前のことに取り組むので周囲からすれば何を考えているかよく分からない子どもだったと思います。そういう意味では逆に目立っていた部分もあったかもしれません」

──目の前のことに一心不乱に取り組む姿勢というのは今に通じるものでもあるのですか。

「かなえたいことがあれば毎日同じことをひたすら連続して考え続けないと、実際には実現しないですよね。散漫に色んなことを考えすぎると路線が崩れやすい。だからじっくりと1つのことを考えれば良い。そういう傾向は子どもの頃からあったのだと思います」

──静かに頭の中で考えながら熟成させるからこそ、アウトプットの際に力のあるものが出るのかもしれないですね。

「それは言えるかもしれないです。初めてお店をオープンし、財政的な問題などもあり不安定な気持ちが生まれ始めた時にオーストラリア人の友人にメディテーションを勧められたんですね。それは仏教を元にしたメディテーションで、ブルー・マウンテンズで10日間にわたって行われました。その間、人との会話を禁止されました。すると非常にビビッドで起きた時に強い印象が残るような夢を見るようになりました。おそらく話せない分、どこかで消化しないといけない何かが夢という形で出たのだと思います。子どもの頃には話さないで溜まったものを発散する手段は目の前にあった書道だったのでしょう」

ここからさまざまなファッションが生まれ、世界に届けられる
ここからさまざまなファッションが生まれ、世界に届けられる

──なるほど。しかし、会話という点に関して言えば、現在は非常に雄弁な印象があります。転機のようなものはあったのですか。

「1998年からパリに行き始め、雑誌で取り上げられたり海外への輸出を始めたりなど徐々にデザイナーとして芽が出始めました。その頃から、社交的になり始めたというか、無理矢理なったというか……。新しいデザイナーは珍しがられるので会食などにもよく呼ばれるようになりました。いろいろな方にお会いしますし、その時に黙っているわけにはいかないですよね」

──むしろ一般よりも社交性の高いキャラクターに変わっている点がユニークですね。

「子どもの頃に使ってなかった分を使っているんでしょうね。書道でクリエイティブに発散していると言ってもやっぱりちょっと溜まっていたのでしょう。今はその溜まっていた分をどんどん出しているのかもしれないです」

ビジュアルでのコミュニケーション

──元々ワーキング・ホリデーで来られた際にはファッション・デザイナーを目指していたわけではなかったそうですね。

「目的は語学の勉強でした。ですが1年滞在して帰る時にここにいたいと強く思ったのです。一度帰国し再び戻ろうと考えたのですが、帰るからには理由を親に言わないといけない。そこで『本当にやりたいことが見つかりました』と偉そうなことを言うがために、服飾の専門学校に通うことに決めたのです」

──話だけを聞くと唐突な転身にも思えますが、服飾は元々好きだったのですか。

「はい、消費者として大好きでした。16~17歳の頃にはアルバイトをして服を買うことに情熱を傾けました」

アトリエの2階にはお気に入りのアンティークのデスクが
アトリエの2階にはお気に入りのアンティークのデスクが

──おしゃれな少年だったわけですね。

「おとなしかった分、自己表現がビジュアルの方へ移ったのでしょう。言葉で出さない分ビジュアルでコミュニケーションを取る。そういう傾向がありましたね。高校生になると雑誌を買い始め、いろいろと情報を取得しました。当時、自分が面白いなと思ったのは『X-MEN』という雑誌でした。その後、高校2年生になると専門的なデザイナー志望の人が読む『装苑』を買い始めました」

──かなり高いレベルでファッションへの意識を強く持っていたのですね。

「高校2年生以降は周りの人が着ているような服を自分は着ないというこだわりを持つようになりました」

──他人とは違う個性を追求したかったわけですね。アパレル業界への就職を考えはしなかったのですか。

「アパレル業界に入りたい気持ちはありました。それがダメでも何かしら美を追求するビジュアル系の仕事に就きたいと考えていました。しかしうちは両親とも非常に保守的で、僕の意見は相手にしてもらえませんでした。それは当時自分が前に進めない理由でもあり障害でもありました」

──その壁をワーキング・ホリデーという制度を使って突き抜けたわけですね。

「結果的には。ただ海外に出ることも最初は反対されました。しかしそれはいくら何でもひどいと思い無理やり来ました。海外に出てしまっては両親としてもどうしようもないですから」

──一時帰国して再び戻ることを伝えた際は大変だったのではないですか。

「半分怒って半分諦めたような感じでした。こいつはもう変わることはないと分かったのだと思います」

──ですが、その後の活躍を見て納得されたのではないでしょうか。

「1993年に店をオープンし、帰国時にそれを報告したのですが信じていないような感じでした。信じていないのか、興味がないのか分からないですがちょっと寂しかったですね。でも数年後に父親がシドニーに遊びにきた時に『本当だったんだ、頑張っているんだ』ということが分かったのでしょう。少し納得しているような印象でした」

──なかなか時間がかかりましたね。

「何をしているのか分からなかったみたいですね」

──その後、華やかな経歴を歩み、16年には外務大臣表彰も受賞されました。さすがにお父様も認めたのではないでしょうか。

「総領事公邸での表彰式の記事を日豪プレスさんに写真付きで載せていただいて、それを先日、日本に帰った時に渡しました。でも黙っていました。うれしかったんだと思いますよ、ただ言わないだけで」

飛び抜けたセンス

──専門学校で勉強されていた当時、講師も五十川さんの飛び抜けたセンスのようなものは感じていたのでしょうか。

「学生の頃は周りは皆オージーで日本人は1人だったので気にかけてもらっていました。評価も良かったですし、学校はすごく楽しかったですね」

──自分が他の人とは違う特別なセンスを持っているという自覚はありましたか。

「ありました。見せびらかすことはなく密かにですが違うとは思っていました。そのことは私自身の力になりました。違うということがうれしかったです」

──服をデザインする時はご自身が着たいイメージのものをそのままデザインされているのですか。

「自分が着たいものを作るというのがスタートで最初は自分のために作り始めました。しかし、実際には女性からデザインを頼まれることが多いんです。それで女性ものを作り始めたという感じですね」

──男女の違いはもちろんですが、細かいところでは人種による体形や肌の色の違い、年齢など着る人によってデザインを変えるのですか。

「特注という形であればやはり意識します。ただ、昔は自分の作りたいものを作るという感じで、そこまで深く考えてはいませんでした。今は例えば40~50代の方であれば20代の頃と違って腕を隠したいような方もたくさんいらっしゃると思うので気を遣って袖ものにするとか、そういうアレンジはもちろんするようにしています」

──五十川さんは世界を股にかけて活躍されていますが、やはりファッションの趨勢は国によって異なるのでしょうか。

「段々似通ってきている印象ですね。初めてパリに行った90年代後半はファックスでコミュニケーションを取っていた時代だったのでビジュアル・イメージを伝えることが難しかった。『こういうものを作りました。どう思います?』という手紙と共にプリントした写真をエアメールで送っていました。今は情報が早く簡単に伝わる時代になったのでどこに行ってもあまり変わらなくなりました。昔は『オーストラリアのファッションって何なの?』というような話題が出ましたが今はそういう感じではないです」

素材となる着物などの布は京都まで買い付けに行っている
素材となる着物などの布は京都まで買い付けに行っている

──ファスト・ファッションが流行していることに対してはどうお考えですか。

「それも1つのマーケットなので経営がうまくいっていれば素晴らしいことだと思います。ただ、作る側の人間として私が心配なのは、労働者をどういう環境で働かせているかということ。安いという1点をもってどこの国でどのような待遇で作っているのかということを最初に考えてしまいます。作る人のために妥当な給料ときちんとした環境を整えてほしいと思います」

変わりゆくシドニー

──約30年間、シドニーに住まれていますが町も変遷してきたのでしょうね。

「初めて来た時は、ビーチも20分ぐらいで行けるし雨もそんなに降らないし、あまり深く考えなくても良いようなカルチャーで夢みたいだなと思ってうれしかったですね。当時は人口が今ほど膨れ上がってなかったし物価も高騰していなかったので住みやすく、サバイバルしやすかったなと思います。シドニーはオリンピックを境に土地の値段が上がり、家賃も上がり厳しくなりました。昔はサリーヒルズは工場街で多くのデザイナーがアトリエを置いていましたし、縫製してくれる人たちもいっぱいいたのですが、今はあったとしてもショールームだけです」

──国際都市として発展してきた中で失われてしまったものも多いのですね。しかし、日本に比べると働き方などの面ではだいぶ余裕があるように思います。オーストラリアでの働き方に関してはどのように思われますか。

「こちらで生まれ育った人と私も含めて海外で生まれ育ってこちらへ来た人は考え方が違いますよね。私が多くのスタッフを雇用する中で学んだのはプロダクティビティーをどうやって上げるかが課題になってくるということ。日本のように例えば午後10時まで残業するのが当たり前となるとその時間も計算に入れてそのペースで仕事をしてしまいます。ですが、オーストラリアではスタッフはそういう働き方をしないので1時間でどれだけ仕事ができるかというのが勝負になります。どうやって時間を効率的に使って仕事をさせるか。そうした時間の厳しさなどを学びました。
 ただ、日本人のスタッフを雇った際に、仕事を覚えたい、やりたいという自らの意思で遅い時間まで頑張ってくれたりなどする方もいて驚かされることが少なくないです。働き方として良いかどうかは別ですが、頑張る姿を見ると感動します。日本人の気質として良いところは忘れないで欲しいなと思います」

──仕事で認められ、上に上がっていく人というのは人種や国、制度などは関係なく、やる時はとことんやりますよね。

「そうですね。私もインターンの受け入れや、人材によってはビザのサポートをするなどしてきましたが、やはり成功する人には根性があります。たとえそれが地味な縁の下の力持ちのような仕事でも、文句を言わず淡々と、しかし一所懸命に働きます。もし、今ワーキング・ホリデーでこちらに来ていて迷っている人がいるのであれば、とにかく働くことに関しては謙虚に頑張れという言葉をかけたいと思います」

──シンプルですが深みのある言葉です。本日はお忙しい中ありがとうございました。今後の更なるご活躍を期待しております。(12月13日、マリックビルのアトリエで)

「昔は無口だった」と雄弁に笑顔で話す姿が印象的だった
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