【特集】日豪合作映画『STAR SAND─星砂物語─』監督ロジャー・バルバースさんインタビュー

©Naoto Ijichi
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デビッド・ボウイや坂本龍一、ビートたけしら豪華メンバーをそろえた大島渚監督の名作『戦場のメリークリスマス』(1983年)で助監督を務めたロジャー・パルバース氏が、72歳にして初の監督作品を世に送り出す。6月に沖縄で先行上映、更に8月には東京での公開が決定している『STAR SAND ─星砂物語─』は、自身の原作『星砂物語』を自身による脚本で映画化したもの。現在、シドニーと日本各地を行き来する生活を送るロジャー氏のユニークな来歴と共に、同作の制作に至った経緯や思い、そして言語や文学の分野まで幅広く話を伺った。(インタビュー=馬場一哉、写真=伊地知直緒人)

アメリカ人からの離脱

──日本のメディアでは「『戦場のメリークリスマス』の姉妹版」という呼び方もされている『STAR SAND─星砂物語』ですが、実際意識した面はあるのですか。

「『戦場のメリークリスマス』では助監督をやらせていただきましたし、音楽は旧友である坂本龍一さんにお願いしたのでそういった表現も分かりますが、特段意識はしていません。ですが、敵国の兵士と親しくなり、非暴力をテーマに何が味方で何が敵かを問うという点では、確かに根底に流れるものは共通しています」

──そこに通底するテーマというのは、どちらかというと、ロジャーさんの来歴に通ずるところが大きいように感じます。母国であったアメリカを捨てたのも、ベトナム戦争がきっかけだったと聞いています。

「そうです。ベトナム戦争になんて行きたくありませんでしたから。あの戦争はイラク、アフガン戦争と同じです。僕は当時アメリカがやっていたことは、ナチス・ドイツがやったことに近いと思っています。枯葉剤、そして無差別爆撃……。そんなことを行う国の国民でいることが本当に嫌でした。それで国を飛び出したんです。しかし1967年にポーランドでスパイ事件に巻き込まれたり、フランスで婚約したフランス人女性との婚約破棄などいろいろとあり、結局アメリカに戻ることになってしまった。その辺りの経緯は『もし、日本という国がなかったら』(2011年、集英社インターナショナル)という本に全て書いていますので、よろしければ読んでみてください」

──国の名の元に他国の人びとの命を奪う行為が許せず、アメリカを飛び出したものの戻らざるを得なくなったと。

「はい、そしていよいよ徴兵されるかもというタイミングで、日本に行くことにしたのです」

「いかに役者の良い所を引き出すか」を常に念頭に、指導を行ったという。写真右は米兵役を演じるブランドン・マクレランド ©2017 The STAR SAND Team
「いかに役者の良い所を引き出すか」を常に念頭に、指導を行ったという。写真右は米兵役を演じるブランドン・マクレランド ©2017 The STAR SAND Team

──日本に興味があったのでしょうか。

「実は日本について何も知りませんでした。ただ全く知らない国に行くことに冒険心がくすぐられました。羽田空港に到着後、空港で目黒にある安いホテルの情報を得て、バスに乗ろうとしたら『あなたには難しいから』とタクシーを勧められました。タクシー代金は1,500円。あの当時は1豪ドル400円以上の時代だったので4豪ドルにもなりません。窓越しに黄昏時の情景、そして町ゆく人びとを眺めていたら僕は自然にこうつぶやいていました。『こここそが僕の国だ……』。理由はよく分かりません。縁かもしれない。脳は後になってから生きるために必要な合理化を求めて情報を整理しますが、人間って大きな決定ほどその時点では理由が分からないものなのだと思います」

──深いですね。日本にはそれから5年間住み続けたと聞いています。

「はい。幸い、京都産業大学という当時はまだ若い大学でロシア語、ポーランド語のクラスで教鞭を取ることが出来ました。ただビザを取るためにいったん海外に出なければならずアメリカに戻ることを勧められたのですが、絶対に嫌だったので韓国で4週間ビザが下りるのを待っていました。1日1ドル2食付き、80歳の老人が営む安宿に泊まったのですが、僕は韓国語が出来ないし彼は英語が出来なかった。その頃の僕は片言ながら日本語を話せました。そして老人は日本語がペラペラだったのです。彼は『戦争が終わってから一度も日本語を使ったことはないし、絶対に使わないと決めていたけど、あんた日本人じゃないから』と言って、結局日本語でコミュニケーションを取ることになりました。結果その老人からみっちりと日本語を教えていただきました。日本に戻った際、学長に『ずいぶん日本語が達者になったけど、韓国語のなまりがあるな』と笑われました」

──面白い話ですね。5年間教鞭を取った後、オーストラリアに移住されたと伺っています。

「僕は劇作家になるという夢を持っていたのですが、日本ではなかなか実現出来ませんでした。そんな中、キャンベラにあるANUで日本語を教えるポジションが空いているから来ないかという誘いがあって、更なるチャンスを求める気持ちと持ち前の冒険心で72年8月に移住を決めたのです。新聞に記事を書いたり芝居をしたりしながら8年間を過ごし、その間も日本に行ったり来たりしていました。その後、メルボルンに移住し劇場の演出家になることが出来たのです」

──そんな中、オーストラリア国籍を取得された。

「アメリカで生まれ育ったので、国籍はもちろんアメリカでした。しかし、私はアメリカ人であることをやめたかった。そこで1976年7月にアメリカの国籍を捨てオーストラリア人になることにしました。ただ、元々は日本人になりたいと考えていました。そこで当時、法務省に電話をしたのですが、改名をしなければならなかったり、何より衝撃を受けたのは僕が国籍を変えると妻と子どもも変わることになってしまうと言われやめました。家族は決して僕の所有物ではありませんから。今は妻と子ども、孫もいるのでオーストラリアに住んでいますが、僕にとってやっぱり日本は世界の中で自分が一番板につく国だといつも思っています」

大島渚監督からの誘い

──人生が大きく好転したのはやはり『戦場のメリークリスマス』への参加だったのでしょうか。

「もちろんです。1981年9月にオーストラリアで大島渚映画の回顧展があり、監督が来豪され、以前にもお会いしたことがあった縁で通訳兼ガイドを担当しました。その時ちょうど僕の芝居がメルボルンで上演されていて、観に来て頂くことが出来たのです。その後、『戦場のメリークリスマス』のドラフトに目を通す機会を得ました。読み終わった時には感動で涙が出ました。『どう?』と感想を求められたので、『素晴らしいです。お作りにならるんですか』と尋ねました。すると彼はじっと僕の目を見て、力強くゆっくりと『多分』とおっしゃったんです。その言い方がおかしくて、とても印象に残っています。その時から大島監督との深い交流が始まりました。

そんな中1982年3月頃、大島監督から手紙を頂きました。そこには丁寧な文字で『飛行機の中で目を通していただいた脚本を今年の夏に作ることになったので、助監督をやっていただけないか』と書かれていました。人間、不思議なもので書いてある内容を頭では理解できるのですが、書かれている内容があまりにも良かったり悪かったりするとにわかに信じられないのですね。『誰か良い人を紹介してくれ』という意味なのではないかなどごちゃごちゃ考えていたのですが、傍から見ていた家内によると15分くらいぼーっとしていたそうです。そして最終的に分かったことは『これで人生が大きく変わる』ということでした」

──撮影を通して大島監督からはどのようなことを学ばれましたか。

「大島監督は、『映画監督なんて大したものじゃない』とよくおっしゃっていました。どのような映画を作りたいかというビジョンとそれを実現する意思、俳優たちとのコミュニケーション・スキルとリーダーシップさえあればいいと思います。僕も舞台の演出をやってきたのでおっしゃっていることはよく理解出来ました。大島監督は大したものではないとおっしゃいますが、監督は全てのことを決めなければならない本当にハードな仕事です。例えばコーヒー・カップ選び1つとっても映像の印象が変わりますし、そうしたことも含めたアーティスティックなビジョンが非常に大切だと学びました」

──その後、長い年月を経て今回初の映画監督デビューとなったわけですが、原作『星砂物語』のルーツはどこにあるのでしょう。

「実は『戦場のメリークリスマス』の撮影よりも更に古い1977年に、僕は沖縄県八重山諸島にある鳩間島を訪れたことがあるんです。そこには星の形をした砂、星砂だけでできている世界でもまれな美しいビーチがあるのです。宿泊したおばあちゃんの家では星砂にまつわる話などを聞くと共に、その島には戦時中、戦がなかったというような話を聞きました。そして82年に『戦場のメリークリスマス』を撮影する中、『こういう美しい所で殺戮が行われたのだ』などと想像を膨らませました。そんな折、鳩間島の記憶がよみがえってきた。以来、いつか鳩間島を舞台に何か書きたいなとずっと思っていました」

──実際に書かれたのはそれからずいぶん経ってからでしたね。

「2000年代に入り、ブッシュ大統領がイラク戦争を始めたりしたことで思いが再び募り、意を決して2008年に書き始めたのです。そして2009年6月に完成させ、旧知の仲だった作家の井上ひさし(2010年没)さんに送ったところ、『すばらしい』と褒めていただくことができました。その後12年に『文學界』(文藝春秋)に掲載、15年には講談社で単行本化していただきました。また英語版の方はアメリカのアマゾンでベストセラーになりました。そんな中、『戦場のメリークリスマス』のプロデューサーの1人で、その後も数々の名作を世に送り出した原正人さんのが作った「原オフィス」からお声をかけて頂き、『星砂物語』の映画化にこぎつけることが出来たのです」

日本語は難しい言語ではない

──原作を読ませて頂きましたが、まず日本語表現の巧みさに驚かされました。

「著書『驚くべき日本語(集英社インターナショナル)』でも書きましたが、日本人が考えているほど日本語は難しい言語ではありません。世の中には6,500の言語がありますが、むしろメジャー言語の中では英語ほど難しい言語はないと思います」

──それはどういった点からそう思われるのですか。

「まず、英語は日常的に使われているボキャブラリーが多い。フランス語の倍、日本語の3倍です。これにはアングロサクソンのルーツ、古代ローマからのルーツと2つのルーツがあるという歴史的な背景があります。また、発音も難しい。書いている通りにはなかなか読めません。日本語はひらがなを覚えればその通り読むことができますが、英語は字を見ても分かりません。例えばtoughなどは、読み方を知らなければ読みようがないですよ」

──ネイティブであっても知らない単語は読めないかもしれないですね。

「推測することは出来ても意味は分からない。例えば漢字で『水頭症』と書かれていれば初めて見た言葉でも何となく意味は分かります。しかし、英語で同じことを意味する『hydroencephalitis』は、見ただけで意味を推測することは出来ないはずです。また、例えば中国語で『火葬場(本来は簡体字)』と書かれてあっても、意味は何となく分かりますよね。でも英語ではcrematorium。クリームでも作っているのかなと思ってしまうかもしれません」

──なるほど。日本人には英語コンプレックスの人もたくさんいます。英語を始め、他言語の習得にもやはり才能はあるのでしょうか。

「発音に関しては音楽のように才能による面があるかもしれません。しかし、それ以外の部分に関してはそんなことはないと思います。世界の総人口70億人のうちバイリンガルは実に半数に及びます。だから第2言語の習得はそんなに難しいはずはないのです。特に小さい国に住んでいる人は英語やフランス語、ドイツ語を知らないと生きていけませんから。ただ、日本人が日本語しか話せないのはおかしなことではない。国内ではあまり必要がないのですから。アメリカやイギリスだって英語しか話せない人ばかりです。僕にとってラッキーだったのは、英語が母語だった点ですね」

──要するに必要に迫られれば誰でも出来るようになるというわけですね。

「そうですね。あとは勉強の時間次第です。僕はおそらく一般的な日本人よりもかなり多くの日本の本を読んでいると思います」

──なるほど。少し話が逸れますが、文学はどのようなものを好んで読まれてきましたか。

「何でも読みますよ。坂口安吾なども読みますし、三島由紀夫などはリアルタイムで市ヶ谷での自殺をテレビで見た世代です。また村上春樹などももちろん読んでいます」

──私見ですが夏目漱石の『三四郎』などは村上春樹の初期の作品に似ているように思うのですがいかがでしょう。

「そうかもしれないですね。春樹は漱石が好きなんですよ。一度会った時にそう言っていました。影響を受けているのかもしれないですね」

──村上春樹さんに会われたことがあるというのはなかなかすごい。実際に会われてどのような印象を受けましたか。

「僕が会ったのはだいぶ昔ですが、白いTシャツにチェックのシャツ、ズボンの短い折り返しと遠くから見たら、カリフォルニアの青年みたいだなという印象でした」

自分はこの仕事のために生まれてきた

洞窟の中で向き合う梅野洋海役の織田梨沙と岩淵隆康役の満島真之介。ロジャー氏は織田について「英語も上手で演技も素晴らしい。彼女しかいないと思った」、また以前から目を付けていたという満島に関しては「沖縄出身ということもあって快諾してもらえてうれしい」と話している©2017 The STAR SAND Team
洞窟の中で向き合う梅野洋海役の織田梨沙と岩淵隆康役の満島真之介。ロジャー氏は織田について「英語も上手で演技も素晴らしい。彼女しかいないと思った」、また以前から目を付けていたという満島に関しては「沖縄出身ということもあって快諾してもらえてうれしい」と話している©2017 The STAR SAND Team

──話を映画に戻しましょう。今回の作品は日豪合作と伺っています。

「まず監督がオーストラリア人、米兵役の俳優もオーストラリア人、そして資金面でもオーストラリアから多く出ています。しかし、映画自体は日本映画。まさに日豪が融合して完成した作品です」

──原作の舞台は鳩間島ですが、撮影は伊江島で行ったそうですね。

「物理的な問題として鳩間島での撮影は難しかったということと、伊江島でイメージに合う洞窟が見つかったので、伊江島の方々に全面協力頂く形で撮影に臨みました」

──自身の原作を初の監督作品として映画化されたわけですが、苦労された点はどのようなところでしたか。

「撮影自体は非常に楽しかったです。自分はこの仕事のために生まれてきたんだ、幸せだなと思いながら有頂天で取り組みました。苦労したのは脚本ですね。ストーリーテリングはもちろん大事なのですが、映画は小説と手法が全然違います。映像を観ている観客の視点をイメージしながら最終的にどのような映画になるかを常に念頭に置きながら書かないと駄目なんです。僕は2年間に11個のドラフトを書きました」

──原作と映画はやはり異なってくるのですか。

「脚本を書く段階で中身も変わっていきました。ストーリーは根本的に同じですが、展開がところどころ違います。原作との違いにもぜひ注目して欲しいですね」

──4月に行われた沖縄映画祭に出品されたそうですが、反応も上々だったようですね。

「ありがたいことです。有楽町の外国特派員協会でも試写会を行いましたが、そこでも評判は良かったようです。6月には沖縄での上映が始まりますが、やはり沖縄の人に最初に見て頂きたかったのです」

日本は70年間よく頑張った

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──ロジャーさんご自身の来歴にも重なる部分がありますが、やはりこの物語のメッセージは平和への祈念でしょうか。

「平和ももちろんですが、非暴力こそが大事です。DV、幼児虐待、動物虐待。戦争に行って人を殺すことと、それらは全く同じだと僕は思っています。世界の人びとに、国に戦争に行けと言われても行かない、殺せと言われても殺さない、脱走する勇気、戦わない勇気があることを知って欲しいと思っています。それこそが本当のヒーロー、英雄だと私は思います」

──戦争は国の経済、あるいは思想などさまざまな要素が絡まり合って起こりますが、それらを取り去ったとして、それでもやはり戦争は起きると思いますか。つまり、人間は生まれながらにして暴力性を持ち戦う生き物なのかというなのですが……。

「そういった命題は哲学的で僕にははっきりしたことは言えませんが、僕らの中には暴力性は間違いなくあり、女性よりも男性の方により強くあると思います。だからそれをコントロールして抑えなければなりません。そこには言葉の暴力ももちろん含まれます。いずれにしても戦争は年配の方が若い人を犠牲にして国の利益のために行うもの。若い人たちは偽の愛国主義に洗脳され、戦地へ向かいます。戦時の日本もそうですし、今のアメリカもそうです。しかし、これからの日本人ももしかしたらそうなってしまうかもしれない。日本は70年間よく頑張りましたが、これからどう変わっていくか、何も保証は出来ない状態だと思います。

映画の中で脱走兵の岩淵がこのようなセリフを口にします。『僕の頭の中にはある言葉がいつまでも響き渡っている。国より大事なものはないという言葉。親よりも妻よりも自分の子どもよりも国が大事だという言葉が聞こえる』。一方、途中から登場する彼の兄は完全に洗脳され、狂信的なファシストとなっています。これを昔のことだと思って目を逸らしてはいけません。『美しい日本』『積極的平和主義』『戦略防衛』。これらの言葉は戦前とは違うかもしれないけど、中身は全く同じようなものだと思うんです。包装紙を破り、箱を開けたら中には戦前と同じものが入っているかもしれません」

──時間が過ぎ、体験した世代がいなくなっていくことで戦争の記憶がリセットされてしまうのは本当に恐ろしいですね。

「ですから絶えず教え続けなければなりません。それが映画であろうと本であろうと授業であろうと事実を伝えていかないと、いつか『そんなことあったっけ』となってしまいます。ここの部分をうまくやっているのはドイツです。ドイツはトップがしっかり謝っている。日本も形式上謝っていますが、本当に心からは謝ってはいないように感じます。その点では日本人は不思議ですね。ちょっとしたことでごめんなさい、すみませんと謝るのに、人を殺した場合には謝らない。本当に不思議なことだと思います」

──責任の所在が明らかにならないような構造があるからかもしれません。

「何かとんでもないことが起こっても誰がやったか、日本人自身も分からないですし、外国人には更に分からない。そして、最後には『まあいいじゃないですか』となる。しかし、振り返って片づけておかないと同じ事はまた繰り返されます。僕は日本人の国民性が大好きです。ちょっとした争いなど忘れてしまいましょう、仲良くしましょうというのはすごくいいこと。だけど、肝心な戦争とか歴史に対する態度としては間違っています」

──東シナ海や日本海の諸問題、あるいはIS、今時代は不穏な空気をはらんできています。1人ひとりがしっかりと考えなければならない時代が確実に来ていると思います。

「日本という国、日本人のアイデンティティーはどうあるべきか。そこを深く考えないと、アメリカの属国のような立ち位置のまま進んでしまうと思います。長いものに巻かれてしまうと必ず軍国主義的になります。憲法第9条や日米問題、日中問題、そして日本の過去がどういうものか、知った上で自分なりに考えておかないと危険なことになります。テロより私はそっちの方が怖いです。この映画でもそういう問題が浮き彫りになっていきます。同じ状況、同じ時代のシチュエーションに直面したらあなたならどうするかと。自分なりの答えを出して欲しいと思います」

──その意味では映画はロジャーさんからのクエスチョンというわけですね。

「そうですね。クエスチョンです。芸術家には答えが求められません。僕が皆さんに提供したいのは質問だけです。それも人生にとって最も大事な質問です」

──私も自分なりの答えを求めながら鑑賞させていただこうと思います。本日はありがとうございました。
(5月4日、シドニー北部郊外のカフェで)

6月の沖縄、8月の東京を皮切りに映画は日本国内で順次公開予定。オーストラリアでの上映も検討しているという。公式情報は以下ウェブページを参照のこと。
Web: http://star-sand.com/

<映画原作『星砂物語』あらすじ>

『星砂物語』(2015年、講談社)
『星砂物語』(2015年、講談社)

日本人の父と日系2世アメリカ人の母の間に生まれた少女・梅野洋海(ひろみ)は、戦時中の混乱の中、日本に帰るか、アメリカに残るかという家族内の争いに巻き込まれ、母と兄を残す形で父と2人で日本に帰国。その後、八重山諸島の鳩間島にたどり着き1人で空き家に住むこととなった。そして太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)4月、砂浜で星砂を集めていた際に2人の兵士と出会う。1人は日本兵を逃がしたことによる懲罰を恐れ軍を抜け出した18歳のアメリカ兵・ボブ、そしてもう1人は自殺を試み頭に銃を当てたボブを助けた日本兵・岩渕だ。岩淵もまた脱走兵であった。洋海は2人の脱走兵を密告せず、彼らが隠れ住む洞窟に通い世話をするようになる。もし軍にばれれば3人とも命はない。そんな中、3人の間には友情のようなものが芽生え始めるのだが……。


Profile
ロジャー・パルバース Roger Pulvers

1944年米国生まれ。作家・劇作家・演出家。ハーバード大学大学院ロシア地域研究所で修士号を取得。ポーランド、フランスへの留学後、1967年より日本で過ごし、執筆活動を開始。大島渚監督との知遇を得て映画『戦場のメリークリスマス』(1983)の助監督を務める。著書に『もし、日本という国がなかったら』『驚くべき日本語』『英語で読み解く賢治の世界』など多数。小説に『新バイブル・ストーリーズ』『旅する帽子——小説ラフカディオ・ハーン』『ライス』『ハーフ』など。宮沢賢治や井上ひさしの作品の英訳にも数多く携わり、その功績から、第18回宮沢賢治賞(2008)、第19回野間文芸翻訳賞(13)、第9回井上靖賞(15)を受賞。また、アニメ映画『アンネの日記』(95)、『明日への遺言』(08)に共同脚本家として参加、後者で09年テヘラン国際映画祭・脚本賞を受賞。日本の地を踏んでからちょうど50周年となる17年、執筆した書籍は50冊を超えることとなった。1976年にオーストラリア国籍を取得。現在はシドニーをベースに日本と行き来する生活を送る。

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