一路晃司さん

特別インタビュー
写真:John Pryke

日常の中の怖さを小説に

QLD州在住の日本ホラー小説大賞受賞作家

 

一路晃司さん

1993年の創設以来、ホラー小説界に多くのスター作家を送り出している日本ホラー小説大賞(角川書店主催)。去年、『お初の繭』で第17回大賞を受賞したQLD州在住の一路晃司さんに、大賞受賞までの苦労やオーストラリアでの作家生活などについて話を聞いた。

――まず、小説家を志されたいきさつと、第17回日本ホラー小説大賞への応募、受賞までの経過について聞かせてください。

創作活動を始めたきっかけは「副収入を得たい」という、単純かつ不純な動機でした。1990年にオーストラリアへ移住してきてQLD州グメリという人口400人ほどの町で農場マネジャーをしておりましたが、オーナーが趣味でやっているような小さな農場でしたので収入増は難しかったのです。辺ぴな所なのでほかにアルバイトの口もなく困っていたところ、以前に実習で農場に来たことがある東京農業大学の後輩が手製の手漕ぎボートで太平洋横断に出たという知らせがありました。その後輩はいずれ自分の牧場を持つという夢を持っていて、その資金を稼ぐために航海記を出版社に売り込む算段をしていたのです。結局、その計画は、嵐でボートが難破、中国船に救助されて九死に一生を得るという結果に終わりましたが、私はそこからヒントを得て、早速、懸賞小説に応募をすることにしました。

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――ホラーというジャンルを選んだのはなぜですか?

懸賞賞金の額が大きいのはミステリーでしたので、最初はそれでいこうかと思いました。でも、当時はインターネットも普及しておらず、僻地では執筆に必要なリサーチが不可能に近かったので、すぐに、これは大変だと悟りました。そうこうするうちに、角川書店が日本ホラー小説大賞を創設したと日本の友人が知らせてくれました。もともとロジカルな思考が苦手で、ミステリーが大好きなわけでもなかったので、しめたと思いました。昔から怖がりのくせに怪談ものやホラー映画などはかなり観ていたので、想像しただけで怖そうな話を考えるのはお手のもののような気がしたのです。

早速、輪廻転生を絡めた怪談のようなものを書き上げ、第1回日本ホラー小説大賞に応募しました。結果は予選通過もならずでした。もともと読書家でもなかったですし、ましてや創作作法の基礎も知らなかったのですから当然の結果でした。ありがたいことに、日本ホラー小説大賞からは、その後、素晴らしい傑作が続々と生まれ、応募作の水準ですとか傾向を知るために大いに参考になりました。また、それと同時に、それら作品群のクオリティーの高さに、果たして自分にこのような小説が書けるか不安にもなりました。

ただ、1回目の応募がきっかけで創作の楽しさを覚えたため、ここで挫折することもなく、習作を続けることができました。ホラー大賞にはこの後2度応募し、3作目で念願をかなえることができました。

――現在はブリスベンにお住まいですね。

小説を書きながらホラー大賞に応募している間のことですが、99年に農場主が、QLD州ドルビーに農場の経営をまとめたために、そちらへ引っ越すことになりました。このころから、職場での確執や労働報酬への不満などから、農場労働者としての生活にいろいろな疑問を感じ出していたのですが、子どもたちの教育などの将来的なことを考慮した結果、畜産業から身を引き、都市部に移り住むことにしました。とりあえず何で生計を立てるか迷ったのですが、せっかくだから心機一転して、何か楽しそうなことをやってみようと思いました。

昔から、無趣味な方でしたが、映画だけは好きだったので、映画の勉強でもしてそちらの業界にでも入ろうと考えたのです。

幸い、オーストラリアでは社会に出てから教育を受け直すシステムが充実しているので、政府から補助を受けながら勉強することができます。40歳を過ぎた男が日本でそんなことを言い出したらあきれられるところでしょうが、せっかくオーストラリアに移住してきたのだから、そういう社会保障制度もフルに活用してみようと思ったのです。

ブリスベンには2001年に引っ越して、この年にクイーンズランド・カレッジ・オブ・アート(QCA)に入学しました。クラスでは機材の操作、脚本執筆など映画やテレビ番組制作に関わることだけでなく、美術論などの授業もありましたから、それまで現場暮らしばかりだった身には、とても新鮮でした。3年間の学生生活では若い学生たちとの交流が多く、違う世代の嗜好なども理解できたのは得がたいものでした。

ところが、いざ卒業してみると、映画業界には仕事は皆無でした。かろうじて、ゴールドコーストに映像コーディネートの仕事があり、ここにお世話になることにしたのですが、仕事の内容が性に合わなかったせいで1カ月ともちませんでした。結局、映画業界に就職するのは諦め、職業紹介所から紹介されたブリスベンの板金工場で働くことにしました。この職場に3年半ほど勤めながら小説の執筆を進めていましたが、妻が就職をしたのをきっかけに、09年に工場を辞め創作に専念することにしました。1年間の期限付きでしたが、この年のホラー大賞の応募締め切りに間に合い、翌年に運良く受賞となったわけです。映画の仕事に就くことはできませんでしたが、映画学科で3年間勉強したことが創作の基礎として役立ったのだと思います。

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――「お初の繭」はホラーなので、読者を怖がらせるということが一番の目的だと思いますが、そのほかに特に伝えたいメッセージはありましたか?また、ホラー小説のツボのようなものがありましたら教えてください。

古今東西の名作ホラー小説には、恐怖のモチーフがしっかり備わっています。ホラー小説には、ある程度基本的な道具立てや表現、構成方法は必要だと思いますが、モチーフが曖昧ですと、それらをいくら駆使したところで、話に説得力が生まれません。ホラーを書くに当たっていちばん重要なのは、何が怖いのかということを見極めることだと思います。

私が怖いのは事故や病気や社会システムの弊害などといった極めて日常的なことばかりです。『お初の繭』は非情な社会システムを、オーソドックスなホラーのギミックやガジェットで寓話的に描いてみた作品です。

道具立てはいかにもホラー的ですが、それはあくまで道具でしかなく、肝心なのは、女工哀史よりももっと惨いことが現代でも実際に行われているというホラーを伝えることです。製糸工場は苛酷な労働の象徴にもなっているので、そのような現実を読者に想起させるのに効果的ですし、蚕の変態のシステムも、臓器移植や児童ポルノグラフィーに利用される幼児をほのめかすのに格好の道具立てだと思いました。

――この作品を書くにあたって特に苦労した点は?

筆を抑えることに気を使いました。『お初の繭』にはエロチックなシーンやグロテスクなシーンが、少なからず出てきます。過激にしようと思えば、いくらでもできる内容でしたが、これ以上は反則、というラインを自分なりに設けて慎重に書き進めたつもりです。あと、私は、雰囲気作りに対位法をよく用いるのですが、これもどの程度のことをやったらよいかいろいろ試してみました。

終盤あたりは、異様さを強調するために、笑いと恐怖を実験的にぶつけ合わせてみました。同じ理由から、登場人物のネーミングですとかパロディやギャグも、かなり馬鹿馬鹿しさを強調しました。ですます調は、民話的な雰囲気を出すのに最適だと思いました。『まんが日本昔ばなし』の語り口調です。登場人物たちの年齢設定ともマッチしてか、非常に書きやすかったとも記憶しています。

養蚕については、この作品で取り上げる以前に特に知識はなかったので、取材で情報を集めましたが、養豚や牛の放牧などの現場での経験は、現場労働がテーマとなっている作品の執筆にあたり助けになったと思います。

――今、書いている作品も主にホラー小説ですか?

将来的なことは分りませんが、現時点では、しばらくはホラーを専門に書いていきたいと思っています。もともと幻想小説が好きなのですが、ホラーは生々しい現実をファンタジックに描くのに格好のジャンルです。ひとくちにホラーといってもサブ・ジャンルは、ミステリー、SF、時代物、恋愛物とさまざまなので、いろいろ趣向を変えながら新しいことをやっていくつもりです。

――受賞後、生活や執筆活動で、変化はありましたか?また、日本の出版社、編集者とはどのようにやり取りしているのですか?

毎日の生活には、ほとんど変化はありません。出版社とは、国際電話で話すこともありますが、もっぱらEメールでのやりとりです。

――次回作は、どんなものになりそうですか?

幕末から明治初期の時代の、開拓が本格的に始まる前の北海道を舞台にしたホラーです。当時の北海道は日本であって日本でないような土地でしたから、未知の舞台設定として、いささか毛色の違ったホラーになると思います。

――オーストラリアでの暮らし心地はいかがですか?

概して良いと思います。社会保障制度が充実しているので暮らしていて安心感がありますし、社会が学歴一辺倒でないので子どもの教育や生涯教育にもゆとりが感じられます。経済は世界情勢や天候次第で一喜一憂ですが、20年間暮らしてきて家族が飢えたことはないですから、まあ大丈夫なのでしょう。

もちろん、不満もいっぱいあります。人種偏見にはしょっちゅう癇癪を起こしていますし、すべての面で仕事がいい加減なのには呆れるばかりです。まあ、人種偏見などどこにでもありますし、仕事で効率ばかり追求するのもどうかと思うので、瑣末なことはある程度は目をつぶって我慢するしかないと思っています。

――オーストラリアの英語環境の中で、日本語で小説を書くことで苦労している点、気を付けている点は?逆に、日本から離れて作家活動をしていることの利点はありますか?

不便なことだらけです。まず、オーストラリアで20年以上暮らしておりますから、今の日本に対する皮膚感覚がなくなってしまっているのが、一番のネックです。インターネットが普及したとはいえ、現代の日本を題材にしたものを書こうと思っても、私には満足のいくものは書けないと思います。どうしてもという場合は、あくまで部外者の視点に徹するしかないかもしれません。現代の日本が描けないから時代ものはどうかといえば、資料のそろった図書館や書店が身近にないのでリサーチも思うにまかせません。辛いところです。

ただ、第三者的、部外者的な視点から日本を見るクセがついてしまったので、岡目八目的に日本を見ることができるという利点もあります。たとえば、電話口で話している相手にペコペコ頭を下げている日本人をオーストラリア人が面白がっていたりするけれども、そういう感覚はこちらに住んでみないとなかなか分からないと思います。また、オーストラリア人が自分たちでは気付かないことが、こちらには見えたりするので、それはそれで逆におもしろいと思います。オーストラリア人が日本で恐ろしい状況に巻き込まれるネタもあるので、こういう利点を活用して、いずれはものにしたいなと思っています。

――最後に、日豪プレスの読者にメッセージをお願いします。

ホラーと聞いて敬遠する方は多いと思うのですが、私の作品に限らず、ぜひ、お試しになってみてください。ホラーはさまざまなサブ・ジャンルにまたがっており、内容も表現方法も多様です。怖いなりに感銘を受けるような作品が、きっと見つかると思います。

インタビューを終えて

ブリスベン・サウスバンクにある一路さんの母校、QCAのカフェでのインタビュー。小説を志す人たちにアドバイスを、とお願いすると、「自分も小説家として第1歩を踏み出したばかりで、試行錯誤を続けているところなので、余計なことを言ってはいけないと思うが」と断わった上で、「さまざまなことに興味を持って見聞を深め、情趣、情報の引き出しをたくさん作っておいた方がいいのではないだろうか」「好きなことを追求することは大切だと思う」と述べた。また、今年初めに日本で新しい作品の取材旅行中に東日本大震災が起こり、小説を書くことの意味について深く考えさせられたそうだ。これからも、どこかで読んだことがあるようなものではなく、オリジナリティのある、自分が読んでみたいと思うような作品を書いていきたい、と話していたのが強く印象に残った。 (本紙編集部)


プロフィール 一路晃司(いちろ こうじ)
北海道北見市生まれ。東京農業大学を卒業後、日本の畜 産会社に勤務。1990年にオーストラリアに移住、QLD 州グメリとドルビーでの農場勤務の後、2001年よりブ リスベン在住。ブリスベンのクイーンズランド・カレッ ジ・オブ・アート(QCA=現グリフィス大学美術部)の映 画・テレビ学科卒業。映像コーディネートと板金の仕事 に従事した後、10年に「お初の繭」で、角川書店主催 の第17回日本ホラー小説大賞を受賞。


『お初の繭』 (あらすじ)
12歳の少女お初は、同じ村 の友達と一緒に、養蚕・製紙 工場に奉公に出ることになっ た。奉公先での屈辱的な選考 で、お初は養蚕部、友人のひ とりは製紙部にと分けられて しまう。そして、日が経つに つれて、養蚕部からも、ひと り、またひとりと仲間の姿が 消えていく。一体、皆はどこ に行ってしまうのか。お初の 疑問は日増しに大きくなって いく。そして、ついに真相が 分かるときが来た…。繭を煮 る匂いの中で、村に残した家 族や一緒にやって来た友人た ちを思いながら奉公する娘た ちに起こる悲劇とは ?


日本ホラー小説大賞
ホラーに特化した初めての文学賞として、1993年に角 川書店により創設された。過去の受賞作家には、瀬名秀 明(『パラサイト・イヴ』で第2回大賞を受賞)や、小林 泰三(『玩具修理者』で第2回短編賞受賞)がおり、日 本のホラー小説界をリードする人材を輩出している。

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