【インタビュー】五月みどりさん─30年来のゴールドコースト好き


船がゆっくりと行き来するのが見える、ご自宅のバルコニー。「夜景もきれいですよ」と
五月さん    ©Yoko Lance


前を向いて挑戦の日々
30年来のゴールドコースト好き

五月みどりさん

 

特別インタビュー 取材・文=ランス陽子


爽やかな笑顔で、男性はもちろん、主婦などの女性にも人気の女優・歌手の五月みどりさん。おっとりとしたかわいらしい印象とは裏腹に、その素顔は、いつまでも意欲的にチャレンジし続けることをやめず、1度決めたことは絶対にやり抜くという、芯の強さを持った魅力的な女性だ。

女優や歌手としての仕事のほかにも、「伊東家の食卓」などバラエティー番組でもお馴染みの五月みどりさん。もう30年ほど前からオーストラリアへ頻繁にやって来ているという、芸能界きってのオーストラリア通だ。現在の住まいは、ゴールドコーストの水辺や美しい高層ビル群が広々と見渡せる、ゆったりとした場所。インテリアもすべて自分でコーディネートしたという素敵なご自宅で、お話を聞いた。

 

ゴールドコーストへは30年前から

「実は30年くらい前にTVのクイズ番組で優勝して、オーストラリアへの旅を射止めたんです。その時、母と一緒にやって来たのが初めてのオーストラリア旅行でした。その際にとても素敵なマンションをシドニーで見つけました。大きなガラス張りの部屋から、緑豊かな公園がぱーっと見渡せたんです。

当時は日本に比べるとこちらの家がとても安く感じられたんですよね。また、それ以前に米国に住んでいたこともあったのですが、米国は日本との時差が大きくて行き来するのが大変なのに、オーストラリアはほとんど時差もないでしょう。『ここに住みたいな』なんて思っているうちにゴールドコーストにやって来たら、さらにシドニーよりも価格が安くて、大好きな海が見渡せる素敵なマンションを見つけてしまって。疲れた時にちょっとやって来るような、そんな場所にぴったりだなぁと思いました。突然の出会いであまりお金は持っていなかったんですが、ほんのちょっとだけ内金を入れてその場で購入してしまいました(笑)」

そんな五月さんの部屋からは、この日も大きな窓の外からクルーザーや船がのんびりと行き来しているのが見えた。ウォーターフロントの住宅が多いゴールドコーストでも、これほど広々とした水辺の眺望が楽しめる場所は少ない。

「オーストラリアの方々はとても温かいので、ここに来るとほっとします。米国には米国の良さもあるのですが、あちらでは車を運転していてもちょっとしたことで罵声を浴びせられたりすることがあります。オーストラリアは本当にゆったりしていて、犯罪も比較的少ないし、良いところですね。

ゴールドコーストのカジノも楽しくて、お遊び程度ですがよくお邪魔しています(笑)。この30年でゴールドコーストにも多少ビルが増えてきましたけれど、今でも変わらずに水辺が美しくて、船が行き来していて。それがもう、たまらなくいいなぁと思います。


今はお店のことを考えるのが一番楽しいという五月さんのセレクト・ショップは、熱海に2店舗。「お客様に喜んでいただけることが、何より嬉しいです」    ©Yoko Lance

観光船が通ると、観光客の方がデッキから周囲の人々に手を振っていることがあるのですが、そんな時は、私もバルコニーから手を振るんですよ。もちろん、こちらの観光客の方には、私のことなど分からないと思います。でも、日本人ガイドさんが『このマンションには五月みどりさんが住んでいます』なんておっしゃることもあるんですって(笑)」

オーストラリアに来ると、インテリアの店や雑貨店をのぞくのが楽しみ、と言う五月さん。

「インテリアや雑貨を見たり買ったりするのが大好きなんです。自分の部屋のインテリア・コーディネートも大好き。部屋ごとにベッド・カバーをアレンジしたり。

数年前から日本でお店を持っているのですが、内装なんかもいろいろ自分で考えるのが楽しくて仕方ないんです。最近はどこへ行っても何かお店で輸入できるような雑貨はないか見て回ったりして過ごしています。でもよく見てから購入しないと、こちらで素敵な物を見つけたと思ったら、日本製だったってこともありました(笑)」

 

大好きな絵画、書道、そして着物のデザイン

五月みどりさんは、30年前にオーストラリアへやって来るよりずっと以前にも、米国のロサンゼルスで海外生活を経験している。当時はまだ日本人が気軽に海外旅行などできなかった時代だ。どうしてそれほど、海外生活に魅力を感じているのだろうか。

「小学校の高学年くらいの時に、のぞき眼鏡のような、ナイアガラの滝が3Dで見えるおもちゃがあったんです。それを見てナイアガラの滝に憧れて、『いつか行きたい』とずっと思っていました。子どものころから、そんなところがあったんです。でも、いざ海外生活を始めてみると、ロスで夜、道に迷うなど、怖い思いをしたりすることもありました」

五月さんはこの時期、ロサンゼルスで暮らしながら、絵のレッスンに通っていた。

「ある日、ロスの銀行へ行ったら、日本人の水墨画の先生がその銀行で個展をやっていました。作品にひと目惚れして、ぜひこの先生に習ってみたいと思い、ご自宅にお伺いして、週に2回ほど水墨画を習うようになりました。もともと絵を描くのが好きだったんです。

油絵はロスの画材屋さんで道具を買ってみたのが最初。本を見ながらやってみたら、すぐに自分で納得できるような色使いの絵が描けるようになって、楽しくて絵ばかり描いていました。私は、昔からよく教科書の余白に落書きしたりしているような子どもで、中学生のころにはもう、オードリー・ヘップバーンの顔なんかを、鉛筆で写真そっくりに描いたりしていました」

そんな五月さんはその後、平成元年にあの「二科展」へ初出品で入選し、翌年も2年連続で入選を果たしている。絵画だけではなく書道でも、平成2年に「毎日書道展」に入選している。

「書道は、字があまり上手じゃなくて、手紙を書くのが嫌だったので始めたんです。習った先生がとても大きな字を書く方で、体中を使って床一面に書くような書を書かせてもらいました。絵と、どこか繋がるところがあるのかもしれませんね」

そんな多才な五月さん。現在は着物のデザイナーとしても広く活躍している。

「小学校6年生くらいから、私は自分の着物も自分で選んでいたんです。両親が精肉店をしていて、とにかく忙しくて。着物を一緒に買いに行く時間がないので、自分の着物は自分で買ってくるように躾けられて育ちました。今は、これまでの着物の枠にとらわれない感覚でデザインしたりしています。

結城紬を扱う方とのご縁があったのですが、あれだけの素晴らしい生地を縞やかすりの普段着で使うだけではもったいないと思って、華やかなパーティーやお出かけにも使える着物にデザインしています」

 


いつもポジティブ思考という五月みどりさん    ©Yoko Lance

なかなか売れなかったデビュー当時

今年で既に芸能生活は55年。昭和37年に『NHK紅白歌合戦』に初出場してから3回連続出場を果たし、同番組がテレビ史上最高視聴率を記録した昭和38年には、五月さんの歌で瞬間最高視聴率85.3%を叩き出すという、伝説的な記録の持ち主でもある。それでもデビューしたばかりのころは、なかなか売れずに苦労したとか。

「15歳から舞台で歌っていましたが、レコード歌手としてデビューするまではやはり大変でした。ラジオののど自慢大会やレコード会社のオーディションなどには出てみましたが、当時はプロの歌手になるのは1年に1人いるかいないかという、厳しい時代でした。19歳でようやく歌手デビューすることになりました。

でもなかなかヒット曲が出なくて、最初はあまり売れなかったですね。それが23歳くらいのころに、突然売れるようになりました。当時はヒットしていると言われてもどこでどうやって売れているのか実感としてよく分からなくて、自分ではピンとこなかったです。でもある日、街の交差点で自分の曲が流れてくるのを聞いたんです。あの時は、本当に嬉しかったです。

それから、日比谷公会堂で初めてリサイタルをさせてもらって、ようやくスターの仲間入りができたんだなぁと思いました」

その後、結婚して一時芸能生活を休止。2人の子どもにも恵まれたが、間もなく離婚という結末を迎えた。

「最初に海外で生活しようと思ったのは、子どもとの別れも大きかったのかもしれません。あの時期はとても辛くて。それで、ロスに住んだら逆に子どもと早く会える日が来るんじゃないかと思ったんです。遠い所へ行くと、子どもって、もっと親と会いたがるようになると誰かに聞いて。そばにいても会えずに辛い思いをするなら、いっそ海外に出てしまおうと思いました。

子どもとの別れ以上に辛いことはこれまでの人生でありませんでしたね。だから、それからは『もうあれ以上辛い経験はないんだから』と、どんなことでも思い切りやろうと思うようになりました。自分の人生を思い切り生きれば、子どもたちにもいつか分かってもらえる日が来るかな、と思って」

 

一番嬉しかったのは50周年記念の時

 これまで仕事をしてきて一番嬉しかったのは、「5年前に50周年記念の会を開いた時」だと言う、五月さん。

「芸能界のさまざまなジャンルから本当にたくさんの方が集まってくださったんです。今まで出会ったすべての方々が勢ぞろいしてくださって。森光子さんや橋幸夫さん、2代目水谷八重子さん、松方弘樹さん、北島三郎さん、和田アキ子さん、中山律子さん、青木功さん、笑福亭鶴瓶さん…。そのほかにも、お名前を挙げ切れないほどたくさんの方に集まっていただきました。もう、こんなに皆さんにお祝いしていただいたら、これからは何周年記念なんてなくてもいいと思うほど。本当に幸せだと思います」

これだけ芸能界で認められたスターとしてのキャリアを重ねても、五月さんはまだまだ新たな挑戦を続けているという。68歳の時にはクラシックの声楽の稽古も本格的に始めた。

「オペラを始めてみたら、この年でもまだ信じられないような高い声が出て、自分でもびっくりしました。もともとファルセットは得意だったのでもしかしたら出るんじゃないかと思ってやってみたら、結構できたんです。

もちろんプロのオペラ歌手の方のようにはいきませんが、音大の生徒さんに付いて教わっています。でも今は先生が指揮者になるためにドイツへ行ってしまったので、ちょっとお休みしています」

 

いつも、前しか見ない

今年で73歳という五月さん。いつまでも若々しくエネルギッシュに生きる秘訣は何だろうか。

「私、ずうずうしいのかな(笑)。もう無理なんじゃないかと思うのが嫌なんです。特に『どうせ』という言葉が大嫌い。『どうせ、もう年だから』とか『どうせ、やってもダメだから』というのは、すべてにおいて良くないと思うんです。私の人生に『どうせ』という言葉はないですね。

何度も結婚や離婚を繰り返したのも『どうせ』と思えなかったせいなのかもしれません。2度結婚に失敗しても、次はきっとうまくいくんじゃないかと思ったりして。常に、前しか見ません。もうそろそろ、ゆっくりもしたいんですけどね。いくつになっても懲りずに(笑)。

何でも良い方にしか考えないんです。しょげませんね。いつもプラス思考。どんな時も、良くなる方向、どうやったら乗り越えられるかばかり考えています」 柔らかくおっとりとした雰囲気の五月さんだが、内面はとても芯の強いところがあるそうだ。

「お酒も若いころは浴びるほど飲んだのですが、50歳ですっぱりやめました。お祝いの席などでは周りに合わせて少しいただくこともありますが、普段は一切飲みません。大好きな牛肉も、願掛けをして、今は全く食べません。すき焼きも好きだしステーキもカレーも好きなので、初めの3年くらいは辛かったです。それでも、たとえスープのダシでも、牛肉を使用している場合は一切食べないようにしています。1度こうと決めたらどうしてもやり抜く。そういう性格なんです。

この間もTVのお仕事で久しぶりにボーリングをしたら楽しくて、3日ほど毎日ゲームしたら膝を痛めてしまいました(笑)。正座ができなくなってしまったんです。皆、私くらいの年になると、だんだん膝が痛くて座れなくなってくる人が多いようですね。でも、私はどんなに痛くても我慢して、きちんと座るようにしています。痛いからと座らないでいたら、どんどんそのまま膝が固まってしまうんじゃないかと思って。

私にとっては膝の痛みより、座れなくなる方が怖いんです。今はようやく腫れもひいて、まだちょっと痛いんですが、普通に座ることもできるようになりました。ハイヒールも、どんなに足が痛くても履けなくなったら終わりだから、今でも普段の生活で履いています。だって、ステージではとても高いヒールを履くでしょう。普段から履かなかったらヨロヨロしちゃうもの。舞台の袖でヒールを履き替える方もいらっしゃるみたいですが、私はそのまま楽屋でもヒール。8センチ・ヒールで、電車の駅も走っちゃう(笑)」

そう言って五月さんは、なんともかわいらしい笑顔を見せる。美しく品の良い色気を放つ五月さんだが、『伊東家のお母さん』というポジションに座っても何の違和感もなく、主婦たちからの共感を自然に得てしまう不思議な魅力を持つ。気さくでいつも笑顔を絶やさず、前を向いて進み続ける五月さんは、若い時は米国も楽しかったが、年を重ねるごとに、もっとオーストラリアで過ごしたいという思いが強くなってきていると言う。

「オーストラリアは本当に良いところ。特にゴールドコーストは蒸し暑い日本を逃げ出してやって来るには最高に気持ちが良い場所ですね。こちらは冬といっても東京のように寒くなるわけではありませんし。これからももっとこの良さを、日本の方に知っていただきたいなと思います」

 

■プロフィル
昭和33年「お座敷ロック」でコロムビア・レコードより歌手デビュー。「おひまなら来てね」「忙しくても来てね」などの、「来てねシリーズ」でヒットを飛ばす。女優としての代表作に『五月みどりのかまきり夫人の告白』『男はつらいよ 寅次郎物語』『釣りバカ日誌3』、バラエティー番組「伊東家の食卓」など。平成24年に初のデュエット曲「東京ナイト」を渥美二郎氏と日本コロムビアよりリリース。

 

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