料理の鉄人「坂井宏之シェフ」インタビュー

「鉄人」と呼ばれる大御所シェフと、それに戦いを挑む「挑戦者」のシェフが、同じ食材をテーマに1時間という限られた時間内でその料理の腕前を競い対決する。1993年に日本で放送の始まったテレビ番組、元祖「料理の鉄人」は、「アイアン・シェフ」という番組名で世界90カ国で放送され大きな人気を博している。
 2月14〜15日、メルボルンで開催されたアイアン・シェフのイベントに、坂井宏之(フレンチ)、神戸勝彦(イタリアン)、陳建太郎(中華)のシェフ3人が来豪した。1人380ドル、全6品のフル・コースのチケットは発売開始から1カ月で全700席が完売し、人々は鉄人の渾身の料理に舌鼓を打った。今回のイベント出演を記念して、“ムッシュ”の愛称で親しまれフレンチの鉄人として圧倒的な実力を誇る坂井宏之シェフに、オーストラリアでの経験やこれからの夢を伺った。


Photo=Toshi Takaoka

料理人としての第一歩はオーストラリアで

──料理人を志す時に、なぜフランス料理を選んだのですか?

「3歳の時に戦争で父を亡くし、母親が和裁をしながら生計を立てていました。中学生のころから、母が忙しい時は田舎で採れる鮎や野菜を使って自分で調理を始め、その延長線上で何の抵抗もなく17歳で料理の世界に入りました。フランス料理を通じて本国を見たい気持ちもありましたし、白いコック・コートと高い帽子に憧れて、やるなら格好良く、とフランス料理を選びました」

──19歳の時、オーストラリアで1年半の単身料理修行をされたそうですね。

「1960年代はまだ日本人がそう簡単には海外に行けない時代でした。料理学校の夜間部に通っている時、西オーストラリアのフリーマントルで日本の料理人を探す求人があり、すぐに応募しました。当時の日本には非常に厳しい徒弟制度があって、例えばトップ・シェフがこうだと言えば、それが違っていても逆らうことはできない時代。『仕事をするにはまだ早い』と言われ、出る杭は打たれるのが嫌で海外に出ました。その時代のフリーマントルは大洋漁業の船団基地があり、日本人が船でクジラを追いかけて来ていました。仕事ができれば、どんどん作業を与えてくれた環境はとても良かったと思います。特に、魚を下ろすのは誰よりも上手かったので、魚の部署はすぐに任せてもらえました。そういった意味でも、仕事はやりやすかったです」

オーストラリアの高品質な食材

──イベント「アイアン・シェフ」はオーストラリアでは2度目の開催ですが、オーストラリアの食文化、食材についてどう感じますか?


Photo=Toshi Takaoka

「メルボルンは2度目ですが、オーストラリアにはもう数えられないくらい何度も来ています。オーストラリアは自国で食材をほとんど賄えている国なので、ほかの国から食材を持ち込むことに極端に厳しいのですが、逆にここにしかない珍しい食材も結構ありますね。例えば、本来フランス料理ではオマール・エビを使いますが、今回はフレッシュなオマールが手に入らないので、似た性質のエビを探して使いました。オーストラリアは食材が豊富な土地柄なので仕事はしやすいです。
 食肉は、ビーフ、ラムともに非常に高品質。視察してみて、放牧している場所、食肉店なども含めて、食肉を扱うスキル・レベルも高いと感じました。日本の和牛に近い高品質の肉も生産されていて、私も使っています。世界中でオーストラリア産の食肉が使われているのは、それだけ品質グレードが高いと評価されているからでしょう」

懐石料理や絵画も発想の源

──テレビ放映当時は毎回、「勝たなければ」というプレッシャーで大変だったのではないでしょうか。そんな時の心の持ち方、心がけていたことを教えてください。

「テレビ番組とはいえ、勝ち負けがあるので、やるからには絶対に負けたくないという気持ちが大きかったです。1時間しかなく、助手も自分たちのスタッフではないという状況で、一番大切にしたのは、まず好きなものを1品作ること。あの時間内ですべてを完璧に作るのは不可能なので『これだけは絶対に自信がある』というものを、かなり気合を入れて作ることでした」

──生み出す料理の色使いの美しさから、番組で「フランス料理界のドラクロワ」と称されていましたが、作る前からでき上がりのビジュアルも想定しているのでしょうか。味や盛り付けのひらめき、発想はどこから得ますか。

「それはもう瞬時に決めていました。私の料理は懐石料理も基本になっていますが、あの番組のプレッシャーの中で、最後のプレゼンテーションまで計算しながら作っていくというのはほとんどありませんでした。絵画もかじったので、そこからのアイデアを取り出しながら瞬間的に考えて盛り付けることが多かったです」


共に「料理の鉄人」を支えてきた陳建一シェフがシークレット・ゲストとして登場。おなじみの黄色のコスチュームをまとった中華の鉄人の姿に、会場は大いに沸いた

体が動けなくなるまで現場にいたい

──料理人として最も大切にされていることは何ですか。

「やはり、自分が料理を作るプロセスを楽しむということです。義務的にやると料理にもそれが表れてしまいます。1+1は2だけど、でも3もあるし4もあるよね、といったように、その時に一番良い答えをお皿に出すことを大切にしています。それはひらめきとか、自分の中にあるたくさんの引き出しを使いながら作り出すことです」

──今後挑戦してみたいこと、夢を教えてください。

「体が動けなくなるまで現場にいて、次の世代につなげていくこと。その時に自分が本当に自信を持ってバトン・タッチをすることです。それで少し余裕があれば、今までにできなかったことをやりたいですね。大きなことを言えば、火星に行ってみるとかね。現実的なことを言えば、海の近くで可愛いレストランでもできたらいいなと思います」

海を愛し、10年前から始めて毎年乗船しているクルーズ客船上での料理の仕事は、自身のライフワークにもなっている。キャリアは50数年、誰もが認める日本のトップ・シェフでありながらも常にチャレンジを続け、世界を飛び回る。終始優しさに溢れる口調で、温かく気さくなムッシュの人柄がにじみ出るインタビューだった。(取材・文=大木和香)

<PROFILE>さかいひろゆき
1942年、鹿児島生まれ。17歳でフランス料理の世界に入り「ホテル新大阪」で修業を始める。19歳の時、単身オーストラリアに渡り1年半修業後に帰国。その後、銀座「四季」や、「西洋膳所 ジョン・カナヤ麻布」などで修行を積み、38歳で独立。「ラ・ロシェル」のオーナー・シェフとなる。94〜99年まで『料理の鉄人』にフレンチの巨匠として登場、懐石料理を取り入れた盛り付け、色使いの美しい料理を武器に“最強シェフ”として活躍した。2005年にはフランス共和国より農事功労賞「シュヴァリエ」を受勲。

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