ハーレー・オーストラリアン・オープン2015

サーフィン特集

ハーレー・オーストラリアン・オープン2015

日本勢の活躍に迫る


メンズ部門で見事な闘いぶりで優勝を飾り、大々的にフィーチャーされていたコロヘ ©owenphoto.com.au

国内最大級のビーチ・フェスティバル、「ハーレー・オーストラリアン・オープン2015」が2月7日〜2月15日、シドニー郊外のマンリー・ビーチで盛大に行われた。今年は例年以上に多くの日本人選手が本大会に参戦し、世界の強豪たちと対決。会場を大いに盛り上げた。その模様を、出場選手たちの独占インタビューとともにお届けする。取材・文=荒川佳子

大会概要


スケートボードのトーナメントも例年以上に盛り上がっていた

「ハーレー・オーストラリアン・オープン2015」とは、人気サーフ・ブランドのHarleyが昨年に引き続きシドニー郊外の人気ビーチ、マンリーで開催している国内最大級のビーチ・フェスティバル。トーナメント方式で試合が行われていくサーフィンやスケートボードの大会に加え、ライブ・ペインティング、音楽ライブなども一同に実施された会場へは、今年も多くのギャラリーが集まった。ミック・ファニング(豪)、ライアン・キャリナン(豪)、ジョアン・ドゥルー(仏)、メイソン・ホー(米)、ステファニー・ギルモア(豪)など、世界20カ国以上からトップレベルのサーファーたちがエントリーする中、日本からも例年にも増して数多くの選手がエントリー。メンズ部門へは新井洋人、稲葉玲王、大橋海人、大原洋人、加藤嵐、田中海周、仲村拓久未、村上舜、安井拓海らが、そしてウィメンズ部門へは、庵原美穂、大村奈央、須田那月、武知実波、野呂玲花、水野亜彩子らが参戦した。

サーフィン大会の仕組み

プロ・サーファーになるには、まずは大会に出場しそこで獲得した賞金で生活をしていく道が考えられる。世界的に最も大規模に行われる大会には、ワールド・サーフィン・リーグ(WSL)が主催する「WSLワールド・チャンピオンシップ・ツアー(WCT)があり、ここでは男子48人と女子17人の中からそれぞれ世界チャンピオンが選ばれる。このWCTへの出場権を得るためには、ポイント制の大会、「WSL World Qualifying Series(WQS)」で十分なポイントを獲得する必要がある。つまりWQSは、WCTの2次リーグにあたり、それは世界各地で年間数十回にもわたって行われる。今回開催された「ハーレー・オーストラリアン・オープン」も、このWQSと呼ばれる大会の1つ。WQSは各大会によって得られる得点数の設定が異なるが、本大会はWQS6,000イベントと言われ、2番目に高いグレードとなる(最もグレードが高いのは10,000)。

波のコンディション

2月13日の午前中ごろまで比較的良好なコンディションを保っていたマンリー・ビーチだったが、ファイナルの行われた2日後の最終日は、日中になるにつれ潮が引き過ぎ、トリッキーなコンディションに。ショア・ブレイク(※1)でダンパー(※2)気味、さらにオンショア(※3)の風の影響が強まる中で、ターン(※4)よりも思い切ったエアリアル(※5)を狙う方が得点につながりやすく、めぐってくる波に対し、いかに迅速にこうした判断を下すかが勝敗を左右したと言っても過言ではないヒートも多かった。しかし総じて言えば公式で3〜4フィート超えと昨年に比べるとサイズもアップし、見応えのあるヒートが繰り広げられたと言えそうだ。

ヒート総評


優勝したコロヘは晴れて賞金$25,000を手にした。
ウィメンズの優勝は地元出身の注目株、ローラ・エネバー

メンズ・ファイナルは、大会全体を通じて好調で前日のラウンド5でも順調に勝ち上がったコロヘ・アンディーノ(米)と、ラウンド2でミック・ファニングに勝ち抜きトップ通過したころから大躍進を遂げていたマテイア・ヒクイリー(タヒチ)による対決となった。ダンパーぎみに素早く崩れていく波を高速かつ急角度で鋭く当て込むリップ(※6)を連発して成功させたコロヘが、合計9.73の高得点を叩き出し、圧倒的な強さを見せつけ優勝を決めた。

一方ウィメンズのファイナルを制したのは、地元ノーザン・ビーチ、ナラビーン出身のローラ・エネバー(豪)。前日のラウンド5で、過去6回のワールドチャンピオンシップに輝いた同じくオーストラリア人女性サーファーのステファニー・ギルモアを制してファイナルまで勝ち上がった彼女は、対戦相手のタイラー・ライトがなかなか良い波を捕まえられずにいる中、前日の勢いのままスピーディーでアグレッシブな展開を見せ、見事優勝に輝いた。

ジュニア部門で終始安定したパフォーマンスを見せ、見事チャンピオンに輝いたのは、五十嵐カノア(米)。対戦相手のハリー・ブライアン(豪)を制して勝利を得た。五十嵐カノアはアメリカ国籍ながら日本人の両親を持ち、カリフォルニアのハンティントン・ビーチで育った。自国アメリカでは何度も優勝経験のある彼だが、今回海外では初となる優勝を手にし、「自分にとって非常に意味のある勝利で、嬉しく思っている」と語った。

日本勢の闘いぶりに迫る

今回、本大会にはるばる母国日本から出場した数々の日本人選手たち。以下にいくつかのヒートを抜粋して、彼らの活躍をレポートする。

ラウンド1のヒート23では2位で勝ち上がった大原洋人は、ラウンド2のヒート24でソリ・バイリー(豪)コロヘ・アンディーノ、ルーエル・フィリップ(ブラジル)との厳しい対決を迎える。前半順調だったものの、中盤にさしかかって今回の大会で最も勢いのあった優勝者、コロヘ・アンディーノに差をつけてられていく。追い上げようとする大原洋人だったが得点が追い付かない中、最後にはルーエル・フィリップに大きく逆転されここで敗退となった。

ラウンド2のヒート5では、大橋海人が、デビッド・ドゥ・カルモ(ブラジル)、トーマス・ウッズ(豪)、カイ・オットン(豪)と対戦。満潮になるにつれてコンディションは悪化傾向にあったが、後半に入ると大橋海人はセットで入って来た波を捕まえ、バック・ハンド(※7)で5.83点を獲得、2位に躍り出る。しかしその後、デビッド・ドゥ・カルモに逆転されるとそのままこのヒートをリードされ、さらにはカイ・オットンが6.83点をマークしトップへ躍り出たことで一気に不利な状況に。そのままここで敗退となった。

ラウンド1のヒート1を2位で勝ち上がった須田那月は、ラウンド2ヒート2でエデン・プットランド(豪)、コーディ—・クレイン(豪)、フレイヤ・プルム(豪)とオーストラリア勢に囲まれる形となった。そんな中、好調なプレーで見事なバック・ハンドを披露し合計10.43点を獲得、2位でトップ・シードの待つラウンド3へ勝ち進んだものの、ここで3位に留まり惜しくも敗退となった。

ラウンド4のヒート4まで勝ち残った庵原美穂は、強豪ステファニー・ギルモアとフランキー・ハラー(米)との難易度の高い対戦を迎えた。ここではあえなく敗退となったものの、その前に行われたラウンド3のヒート5では、ディミティー・ストイル(豪)、ペイジ・ハーブ(ニュージーランド)、クインシー・デイビス(米)といった強豪メンバーと難しい対戦を迎える中大健闘していた。ヒートの序盤でディミティー・ストイル7.00点を獲得したのに対し、庵原は追撃を図るものの4.50点となかなかその差を縮めることができず、そのままペイジ・ハーブに7.77点の高得点を獲得されたことで暫定3位へと降格。さらにクインシー・デイビスが5.00点得た段階で庵原は暫定4位へ転げ落ち、そのまま敗退するかに思われた。しかしその後、ヒート終盤を迎えた残り7分というところで、庵原はこのヒートで最高得点となった7.93点をマーク。見事な逆転劇を展開し、2位でラウンド4への進出権を得ていた。

ラウンド1から、本大会の注目株でもあったメイソン・ホー(米)らの強豪にあたる中、合計15.60点と素晴らしいスコアで勝ち上がっていた仲村拓久未。ラウンド2のヒート4でもまた、ウィゴリー・ダンタス(ブラジル)、サンチアゴ・ムニズ(アルゼンチン)、ギャビン・ジレット(米)などとのハイレベルな戦いを突き付けられたが、ここでも合計11.23点の高得点を獲得し2位という好成績でラウンド3への進出を果たした。ラウンド3では、マテイア・ヒクリー(タヒチ)、ネーザン・ヘッジ(豪)、マイケル・フェブラリー(南ア)と対戦し、ここで4位敗退となったものの、本大会でのラウンド1からの彼の勢いある戦いぶりは高く評価された。

出場した選手の多くは、今大会の直後にニューキャッスルで行われた別のWQSイベント「バートン・オートモーティブ・プロ」へ出場することが決まっていた。敗退が決まった選手たちは気持ちを切り替え次の試合に向け、シドニーを後にした。


ハワイ、ノース・ショア在住の前田マヒナ

アメリカ、ハンティントン・ビーチ在住の五十嵐カノア

カルモら対戦相手のスピードにあふれるプレーに今回は敗退を余儀なくされた大橋海人

ヒート24では今回の優勝者コロヘとのマッチとなった大原洋人

コンディションをよく知る地元勢に囲まれながらも結果を残した須田那月

注目の前田マヒナのライディング

海外で上げた初の優勝に満足そうだった五十嵐カノア

地元ノーザン・ビーチで優勝の快挙を挙げ、友人家族と喜びを分かち合うローラ・エネバー

二世サーファーの活躍


ジュニアの優勝は日系二世アメリカ国籍の天才サーファー、五十嵐カノア

サーフィン界も徐々に歴史を重ね、二世サーファーの活躍がどんどん目立つようになってきた。今回、本大会に出場していた多くの選手たちの陰にも、世界基準で彼らを育て上げてきた親の存在があることは、洋人、海人、海周、拓海、実波など、彼らに付けられた名前を見てみても想像することができる。実際、「将来は海外で勝つ」という目標の座標軸を親から設定された選手もいれば、その逆のパターンで、海外遠征には資金がかかることを知って親子ともにそれを賄うために世界基準のプロを目指す選手もいる。いずれにしても、自然を相手に闘うサーフィンというスポーツでは、上達する上で海外経験は極めて重要になってくる。

 今回、ジュニア部門で見事優勝を果たした五十嵐カノアや、ハワイから参戦した前田マヒナなどは、まさにそこに強さがあると言えるだろう。彼らは両親ともに日本人という純日本人でありながら、生まれと育ちはアメリカ。その背景には、両親がサーフィンのために下した「移住」という選択があった。前田マヒナの両親は移住先にハワイのノースショアを、五十嵐カノアの両親はカリフォルニアのハンティントン・ビーチを、とそれぞれサーフィンのメッカとも言える土地を選択。そんな環境の下、2人は各国から集う俊英と競い合いながら確実に力をつけてきた。実力はもとより、言葉や生活習慣の違いにも気後れがないところにも彼らの特徴がある。

 国内外からさまざまな形で世界進出を遂げる二世サーファーの彼らに、今後も注目していきたい。

サーフィン用語特集

※1  ショア・ブレイク:岸に近い所で割れる波
※2  ダンパー:横一線で一度に崩れてしまう、つながった波
※3  オンショア:海から陸に向かって吹く風
※4  ターン:波の表面をカーブを描いて動いていくこと
※5  エアリアル:波面から空中に飛び出して行う技の総称
※6  リップ:波の最上部に向かってターンを決める技の総称
※7  バック・ハンド:波に背中を向けて進んでいくスタンスのこと


Hurleyライダーの2人によるスペシャル対談

大橋海人 × 大原洋人

「基本的に何も考えない」と、あっけらかんと言い放つ海人と、「自分は頑張らないと上手くなれないタイプだから人一倍やらないと…」と戦略的に試合に立ち向かう洋人。タイプとしては真逆だが、ともにHurleyとスポンサー契約を結び、一緒に海外遠征に出掛けることも多いという仲良しの2人に、今回対談形式で話を伺った。

◀大橋海人プロフィル 1992年2月16日生まれ。茅ヶ崎にサーフボード・ショップ「OHASHI SHAPE DESIGN」を構え、湘南のサーフシーンを牽引するプロサーファー兼シェイパーだった故・大橋勧氏を父に持ち、その父の指導の元、自身も若いころからサーフィンの世界で活躍する。主なスポンサーには、Hurley、ムラサキスポーツ、ThreeWether Surfboard、CREATURE、G-SHOCK、EPOKHE、FUTURE、SEXWAX、EXCEED、Vertra、ACFなど。

▶大原洋人プロフィル 1997年11月14日生まれ。サーファーの両親とボディボーダーの姉というサーフィン一家に生まれ、幼少からサーフィンに夢中になる。千葉県生まれ。いつも練習しているホームポイントは志田下で、好きなポイントは、ゴールドコーストのスナッパー・ロックス。これまでの主な受賞歴には、2014年 ASP 6スター Australia open 9位、2013年 ASP ワールドプロジュニア 3位、ASP 4スター Vans Pro 5位など。

 

 


——サーフィンを始めたきっかけを教えてください。

海人:父親が教えてくれて、3歳のころに始めました。
洋人:うちも父がサーフィンをしていて、千葉にある実家も海からすぐ近くだったので、小学校1年生の時には始めていました。最初のころは父もまだ自分自身がサーフィンしている方が楽しいという感じで、しばらくはずっと母親に海に連れて行ってもらっていました。1人で波に乗れるようになったころから、だんだん父が本気で教えてくれましたね。

 

——いつもサーフィンをしていたポイントは?
洋人:千葉の志田下です。
海人:湘南の茅ヶ崎です。

今後の拠点と海外遠征について

——現在はどこに拠点を置かれていますか。
洋人:最近、ハワイに移ったところです。ハワイにハーレー・ジャパンのチーム・マネジャーが住んでいて、その人の所でお世話になっています。今回オーストラリアに来る直前に荷物を置いてきたばかりで、この大会が終わったらそこから試合を回る予定です。
海人:僕は、今も地元の茅ヶ崎に住んでいます。地元が好きだし、家も好きだし、常に家に居たいって思っちゃいますね。

 

——これから海外へ拠点を移す予定は?
海人:今年カリフォルニアに行きたいなと漠然と思っているところです。まだ、考えているレベルですけど。

 

——ほかの選手がどんどんと海外進出していることは影響していますか?
海人:ほかの選手の影響ということはないですね。ヒートを回っていると、1年のうちのほとんどはよその土地へ出かけていて、好きな地元にいられるのは2〜3カ月程度しかなかったりすることもあるので、あえて拠点を移そうとは思わなかったんです。ただ今回、カリフォルニアからちょうどお話があって、良い機会をいただいたかなと思って考えているところです。

 

——移動ばかりの生活や、海外での滞在、暮らしはどうですか。
海人:楽しいです。自分の好きなことをやって生活できているので周りの人にも羨ましがられるのですが、自分もやっていて嬉しいと感じていますね。これからも続けていきたいです。
洋人:僕もいろいろな国に行ってその土地の文化に触れることは楽しいし、好きです。細かいことはあまり気にしないタイプなので快適に暮らしています。カリフォルニアなどは街もきれいで人もとても格好良いし、良い所だと思いました。お気に入りはハンティン・トンビーチです。

 

——ハンティントン・ビーチというとサーフ・カルチャーのメッカとなっている土地の1つだと聞きますが、やはり皆上手ですか。
洋人:はい。どこの国でも普通の人たちがフリー・サーフィンをしているのを見ると、すごく上手いなと思います。

 

——オーストラリアのサーファーにはどんな印象をお持ちですか?
洋人:小学校5年生の時にゴールドコーストに行って、それが初めての海外長期滞在だったのですが、名前も知らなければ見たこともない普通の人たちがすごく上手くて衝撃を受けました。自分と同じ年代の子どもたち含め、皆レベルが高いと思いましたね。
海人:僕も初めて行ったのはゴールドコーストで、かなり小さい時でした。その時は人がたくさんいる印象が強かったですね。ほかの都市では、シドニーやバイロン・ベイが好きです。バイロン・ベイは去年の5月ごろに初めて滞在したのですが、すっかり気に入ってしまいました。

 

——ヒート中、またその準備で気をつけていることは?
海人:良い波に乗ろうっていうことだけ心がけています。いつも混んでるような場所でも、ヒート中は独占して波乗りができるわけじゃないですか。だから、せっかくなら絶対良い波を捕まえたいなと思っています。でも、基本的には何も考えないですね。波次第で勝手にやっています。

 

——メンタル面で気をつけていることは?
海人:特にないですね。
洋人:僕は逆に試合に出るなら常に勝ちたいから、負け続けても「次の試合は…」って考えています。

 

——海人さんとは対照的ですね。
洋人:はい、僕の場合は結構考えちゃいます。とはいえ、試合のこともほかのことも頭の中でプランニングはするものの、なかなか行動に移せないんですけど…。ただ、考えるといってもヒートの後で反省することが多くて、やっぱり試合中はその波に乗ったら自分のやりたいことをやっちゃえという感じですね。それで決められれば点数が出るし、こけちゃうと出ない。堅くできる技をやっていくというよりも、波を見て「これやりたい」って思ったものをやっていきます。

サウス・アフリカでの骨折

——遠征中の思い出深いエピソードやアクシデントなどはありますか。
海人:サウス・アフリカで足を折った時のことですね。こいつ、その時一緒にいたんですよ。
洋人:しかもちょうど前の日、俺が階段で転んで足を捻って捻挫していて。自分は大したことなかったんですけど、それでも次の日、海には入れなかったんですよ。で、海に向かう車中で海人はそんな俺に向かって「やー、でも俺はケガしねえんだよー」って豪語していたんですが、その直後に派手に骨折したんですよね。
海人:とっても思い出深いアクシデント、みたいな…(笑)。

 

——折れた瞬間はどうされたのですか。
海人:『やばい!』と思った俺は、岸にいる洋人の方に向かって「助けてくれー」って手を振ってサインをしてたんですけど、こいつはニコっと笑顔で手を振り返してきたので「いやそういうことじゃなくて!!」みたいな(笑)。
洋人:上がって来た時も「うわ〜、足折れたかも」とは言ってたんですが、足を押さえていたわけでもなく普通にパドルして出てこようとしていたので何だろうと思っていて。でもボードから立とうとした時にコテンとこけて本当に立てなかったので、『うわっ、マジで折れてる』と、そこで初めて焦り出しました。目の前で人が骨折してるシーンに遭遇したことがなかったので、その瞬間は動揺でアタフタしてしまって、自分こそ死にそうな顔をしていたと思います。

 

——当然、オーストラリアのメイン・ビーチのようにライフ・セーバーなどもいないわけですよね?
海人:誰もいなかったですね。

 

——では洋人さんが担いで…?
洋人:そうですね。

 

——命の恩人ですね。
海人:そうですね(笑)。

いちサーファーとしてお互い、そして自身を振り返って

——そんな深い絆で結ばれたお2人ですが、サーファーとしてのお互いを分析すると…?
海人:一番上手いんじゃないかなと思いますね。俺の次くらいに(笑)。
洋人:いちサーファーとしては、俺も海人は日本だったら一番上手いんじゃないかなって思います。俺の次くらいに(笑)。
海人:ライバルっていうのとも違うんですけど、一緒に海に入っていると刺激になります。

 

——意外な一面などはありますか?
海人:洋人は、全部イメージ通りなので意外な一面がないです!裏表がない。ずっとしゃべっているし、ムード・メーカーですね。

 

——洋人さんから見て、海人さんはどんなサーファーでしょうか。
洋人:近くで見ていてもサーフィンが本当に好きで夢中なんだなっていうのが分かります。やらされている感じがしないし、それが彼の実力を支えていると思います。やっぱり自分が好きじゃないとサーフィンは上手くならないので。
海人:俺から見ると、洋人は昔からそんなに器用な人間じゃないんですけど、それでもここまで来たのはたぶんこいつが超負けず嫌いだからで、努力の賜物なんじゃないかなって思います。
洋人:自分は頑張らないと上手くなれないタイプだと思っていて、だから人一倍やらなきゃなって。
海人:この発言をしていること自体が負けず嫌いだなって、俺は思うんですけどね…。

 

——では、自分で分析すると、ここまで来られたのはどうしてだと思いますか。
海人:父親のお陰だと思っています。すごく厳しかったし、いろいろ教えてくれたし、それがなければ今の自分はありませんでした。また、茅ヶ崎の先輩たちにも本当にお世話になっていて、うちの父親が大会に来られない時にはその人たちが着いて来てくれていたので、環境が一番大きいと思います。

 

——お父さんの教えで心に残っていることは?
海人:具体的なアドバイスですぐに出てくるものは多くはないんですけど、「自分らしいサーフィンをしろ」とか、ちょっとしたひと言が積み重なって今となってはすべてに感謝をしている感じです。
洋人:うちの父親の場合は趣味でサーフィンをしているくらいで、プロではなかったのですが、両親ともによくサポートしてくれて、父親は上手い人のDVDを見せてくれながら「この人たちがこういうことしているからこうしろよ」とか、すごく具体的にテクニックを教えてもらっていました。それを見て言われるままにやっていましたね。さすがに試合の時は「あそこに良い波があるからそこに行け」とかって言う程度ですが、フリー・サーフィンへのアドバイスは具体的でした。

今後のビジョン

——これから近い将来の目標・ビジョンについて教えて下さい。
海人:25歳までにはWCTに入っていようと思っています。
洋人:僕もWCTに入るのが目標としてやって来ているのですが、今もう18歳だし、ここからは1年1年を大切に、気合を入れて100パーセントやれる限りやろうと決めています。そうすれば入れないところではないと思っているので…。今はそれだけですね。



須田那月プロフィル 1995年9月7日 静岡県西伊豆町生まれ。1歳数ヶ月で種子島へ移住。中学2年生のころから本格的に国内のアマチュアの試合に出場し始め、高校1年生の5月に当時最年少でプロ公認に。同年8月、全日本アマチュアサーフィン選手権、ガールズクラスで日本一を獲得する。現在は国内のプロツアーと海外のWQSを中心に出場中。

種子島から世界を目指す

須田那月

憧れのサーファーは「やっぱりステファニー・ギルモア!」と語る須田那月さんは、静岡生まれ、種子島育ち。健康的な小麦色の肌と風になびく美しいロング・ヘア、そしてまっすぐなまなざしが印象的な、絵にかいたようなサーファー・ガールだ。終始さわやかな笑顔で、インタビューに答えてくれた。

最初は大きな波が怖くて仕方なかった

——オーストラリアへ来たのは何度目ですか?印象はいかがでしょうか。
那月:初めて来たのは中学2年生の時で、父と一緒に来ました。それ以来、オーストラリアへは毎年来ているんですよ。街の雰囲気とかがすごく好きで、特にマンリーはすごくお気に入りなんです。

 

——今は種子島に住んでいるんですよね?
那月:はい。もともと静岡にいたんですが、両親がサーフィンをするので1歳のころ種子島に引っ越しました。

 

——サーフィンはいつごろから始めましたか?
那月:8歳のころからです。でも最初は大きな波が怖くて仕方なかったんです。しかも一度、大きい波にもまれてしまって、それがトラウマになってその後しばらくサーフィンから離れていました。10歳ごろから再開しましたが、とにかく体を動かすことが好きでほかのスポーツもやっていたので、サーフィン一筋という感じではなかったですね。中でも10〜12歳のころはサッカーに夢中になっていました。そうしたブランクを経て、その後本格的にまたサーフィンをやり始めたのが16歳のころです。

 

——種子島に移住されたということは那月さんのお父さんもかなり本格的にサーフィンをやられていたのでしょうか。
那月:そうですね、父は15年間サーフィン部のコーチをやっていたんです。なので、父の下でトレーニングは本格的にやらせてもらっていたような気がします。ストレッチとか、走りこんだりとか、体幹を鍛えることを重視したウェイト・トレーニングとかなんですが、サーフィンってやっぱり体力がいるし、特に女の子にとってはこうした基礎体力を付けることが大事かと思うので、それは今振り返っても感謝しています。

 

——さらにサッカーも本格的にやられていたということなので、足腰も鍛え上げられていたのでしょうね。
那月:そうかもしれません。

 

——それで16歳のころに最年少でプロになられたわけですね。
那月:はい。

 

——ブランクがありながらも、順風満帆のサーフィン人生のように聞こえますが、スランプなどはなかったのですか?
那月:何か問題があったとしたら、高校2年生のころに足を骨折したことですね。試合を目前に控えて飛行機のチケットからホテルまですべて手配していたので、それらをキャンセルしたりと手続きも大変でした。でも、スランプというよりもこれを反動にきちんと自分の体と向き合うようになれたので、そういう意味では良い機会だったと思っています。サーフィンができない間、早く治るようにリハビリに励みながらいろいろなことを考えました。

 

——今回はオーストラリアとニュージーランドに2カ月ステイする間、いくつかの試合に出場される予定ですね。
那月:はい、オーストラリアでは5戦の予定が3戦になりました。勝ち進むと後のスケジュールがバッティングしたりといろいろとあるので、予定していたすべてのヒートに出られるわけではないんですが、とにかくWQSの方が大切と思ってそちらを優先して絞り込みました。

 

——かなりのハード・スケジュールに聞こえますが、体調やメンタル面の管理などはどうやってされているのですか。
那月:海外でさまざまな試合を回るようになって、3〜4年経ちますが、最近ようやくリズムをつかめてきたところです。最初は父がいろいろと細かくアドバイスをくれていたのでそれに従っていたのですが、徐々に自分でコンディションを整え、保ちながら、遠征中の1日のスケジュールを組み立てて時間を過ごすことに慣れてきました。

 

——オフで地元の種子島にいる時はいつもどのように1日を過ごしていますか。
那月:1年のうちで本当にゆっくりできるのは、だいたい11〜1月の3カ月ほどなのですが、その間はだいたい朝起きたら走って、ヨガやコア・トレーニングなどをし、その後朝食を摂ってサーフィンに行きます。遠征を続けるにはやはり資金も必要になるので週6で和食屋さんでアルバイトをして自分でも貯金をしています。バイトのある日には4時くらいでサーフィンを切り上げますね。

サーフィンは楽しいもの

——一般的にサーフィンは難しいスポーツだと言われていますが、上達するための秘訣があれば教えてください。
那月:サーフィンってやっぱりすごく楽しいものだと思うので、自分がそう感じられるかどうかを重視して続けることが一番だと思います。楽しいと思う時はやりまくって、やりたくない時はやらなくても良いし。自分も小さいころは大きい波などは本当に怖くって、コシ、ムネ(編注:成人男性が水面に立った状態で、腰、胸ほどまであるサイズの波)くらいでも怯んでいたのですが、そんな時期も含め自分のサーフィンを振り返ってみると、一番楽しんでいる時期が一番上達しているかなと思うので。

 

——それでは最後に今後の目標を教えてください。
那月:2年前にWQSを回り始めた時は73位だったのですが、20歳になる今年は30〜50位入りしたいです。そして5年以内には、トップ10に入りたいですね。とにかくプロ・サーファーとして生活していくのが夢です。


番外編

アート・シーンからサーフ・カルチャーに貢献

吉田健太郎

サーフィンのみならず、スケートや音楽などさまざまな要素を融合させて構成された「ハーレー・オーストラリアン・オープン2015」。そんなこの舞台で、アートのシーンからも貢献する日本人がいた。本大会の直後も、ボンダイ・ビーチで行われた「Vans Bowl-a-Rama」やシドニーのローカル・アーティストが集まって主催するイベント「LA DIVISION」などさまざまな大型イベントに作品を展示し、参加している今注目のグラフィック・アーティスト、吉田健太郎さんだ。今回、彼にも話を伺うことができた。

吉田健太郎プロフィル UTSビジュアル・コミュニケーション学部をイラストレーション専攻で卒業した後、本格的にグラフィック・アーティストとしての活動を開始する。現在は現地の大手広告代理店で勤務する傍ら「ハーレー・オーストラリアン・オープン」「Vans Bowl-a-Rama」「THE TATE GALLERY」などへ自身の作品を出展。作品はTumblrでも閲覧でき、MONDAY MO COウェブストアで購入することができる。Web: www.kentaroyoshida.tumblr.com / Instagram: kentaro_yoshida

キャムとの出会い

——今回どのような経緯で本大会に作品を展示することになったのですか?
健太郎:キャム・ウォールっていう、クライアントにハーレーを持つグラフィティ・アーティストがいるんですが、その人に出会ったのが最初のきっかけですね。昔から僕が憧れているベン・ブラウンというアーティストの個展の場だったのですが、その時に話していたら「ハーレー・オーストラリアン・オープン2015」をオーガナイズしているというので「俺も何か出させてください!」と言ってみたところ、後日「コンセプトとスケッチを提出してみろ」と本当に連絡をくれたんです。その後、それをハーレーで行われた参加アーティストの選考会に提出してくれました。

憧れのアーティスト、ベン・ブラウン

——ベン・ブラウンさんというのは、どのようなアーティストなのでしょうか。
健太郎:ロック・バンド、ニルヴァーナが初めてオーストラリアに来た時にもそのポスターを作成したりしていて、僕をはじめとする多くの若手アーティストとってはレジェント的アーティストだと思います。昔、サーフ・ブランドのオニールでインターンをしていたことがあるのですが、当時与えられた課題で、ナラビーンで開催されるオニール主催のサーフ大会「オニール・グロム・タグ」のロゴを作成する機会がありました。その時も「ベン・ブラウンみたいに作れ」と言われたりしましたね。最初は遠い存在でしたが、僕自身、マンリー周辺で10年以上サーフィンをしながら製作活動をしてきているので、そうした中で周りの知り合いを通じてだんだんそのベン・ブラウン本人とも交流をすることができるようになり、それはすごく恵まれているなと今振り返って感じています。初めて話した時は、地元、マンリーのサーフ・ショップに飾ってもらっていた自分の絵のことを知っていてくれたりして、とても嬉しかったのを覚えています。キャムに初めて会ったのもこのベンの個展で、彼に会いに行くことがそもそもの目的だったので、今回ハーレーのイベントに参加できたのも、間接的にはベンのお陰だと言ってしまっても良いかもしれませんね。

 

——実際にイベントに参加してみた感想は?
健太郎:子どもたちを含め、集まってくれたギャラリーのボードなどに絵を描いてあげるとすごく喜んでくれて、そんな姿を見て普段からお世話になっているコミュニティーに少しでも恩返しができたならと、嬉しくなりました。また、このイベントでは、僕が参加したウォールのほかにもメイン・ウォールがあって、そこで活躍していたクリス・イーなどの若手注目アーティストも気軽に話しかけてくれて感動的でした。ほかにも有名タイポグラファーのジョージア・ヒルとかフリー・サーファーのオティス・ケーリーとか、普段インスタグラムなどのSNSを通じて交流し、クリエーションのインスピレーションを得てきたたくさんの人たちとこの場で実際に会って話すことができたのは収穫が大きかったです。

今後のビジョン

——今後はアーティストとしてどうなっていきたいですか。
健太郎:僕の場合はシドニーでアーティスト活動を始めましたが、そこからSNSなどでの交流を通じていつの間にかオーストラリア国内、そして世界へといろいろなネットワークが少しずつ広がってきている今、さまざまな人たちから刺激を受けてモチベーションも上がっています。ほかのアーティストとコラボレーション製作なども積極的にして、とにかくいろんなことに挑戦していきたいですね。そして、今は商業的なグラフィック・デザインも仕事にしていますが、将来的にはやはり自分の純粋に作りたいものだけを作って食べていくのが理想です。日々淡々と、職人のように…。それで最終的には、今憧れているアーティストたちと同じステージに立つのが夢です。

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