自分の可能性を信じ突き進むエンターテイナー -中村鷹人さん

ーー「僕に関わる全ての人達を幸せにしたい」ーー

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自分の可能性を信じ突き進むエンターテイナー
中村鷹人さん

シドニーのシティー中心部で黄色い全身タイツを着てバケツ・ドラムのパフォーマンスを行う「DUCKMAN」こと中村鷹人さん。コミカルな動きとはじける笑顔で道行く多くの人を楽しませる一方で、中村さんは家族の死、育児放棄や家庭内暴力を経験した壮絶な過去を持つ人物でもある。壮絶な過去と共に生きた中村さんは、なぜエンターテイナーになったのか。そして、今後はどこへ向かおうとするのか。エンターテイナーとしてのこれまでの歩みと、真摯な思いについて話を伺った。(Photos: Naoto Ijichi)

「誰かに必要とされたい」という思い


――人を楽しませることが自分の道だと、最初に感じたのはいつでしたか。

生まれてすぐに育児放棄に遭い、その後施設で生活する時間が長かったため、小学校1年生くらいまでは自分が特に誰からも必要とされていない、自分が生きているのか死んでいるのか分からないという感覚を持っていました。家にいても両親と会話をすることも無ければ、テレビやラジオといった外部からの情報も何もありませんでした。幼いころは完全にコミュニケーション障害という状態になっていて、小学校の入学式の日なんて人の多さにパニックになり吐いてしまったほどだったんです。

しかし、小学校に入学してクラスにも溶け込めなくて1人で給食を食べていたある日、ふとしたことで自分が笑われたんです。牛乳をこぼしてその拍子に転んで慌てていたら、それが面白かったらしくクラス中が大爆笑になったんです。その時に、それまで感じたことのないくらいスカッとした気持ちになり、「生きている」と感じました。人を楽しませることが自分の道と感じたというよりは、この時に人を楽しませることは「自分が笑顔でいられる唯一の方法」なんだと気付いたんです。

――12歳から漫才を始めたと伺っています。この時には既にお笑いの道に進むという確信がありましたか?

12歳から「よしもとNSCジュニア」に所属しましたが、周りの候補生たちと違い目指したい芸風やお笑いに対するプライドは特にありませんでした。漫才を始めるまでの小学校の生活の中でもテストでわざと珍回答をするなどして人を笑わせていましたが、根底にあったのは「誰かに必要とされたい」という気持ちだったんだと思います。なので、10代のころは人に必要にされたらと、手段は選ばず俳優やダンス、声優のような仕事をし、バンドを組んだこともありました。

――さまざまなことに挑戦し方向性を模索する中で、何か感じたことはありましたか?

いろいろなジャンルに手を出した一方で、「これじゃないな」という気持ちもどこかに感じていました。バンドでキャーキャー言われることはもちろんうれしかったですが、それでも何か違うなと感じはありました。

その気持ちはなぜなのかと考えていたある時、「『笑顔の形』が違うんじゃないか」と思いついたんですね。つまり「笑顔の形」は2種類あると思っています。1つは、何かを与えられることによって出る笑顔。もう1つは、なぜか笑ってしまったという時に出る笑顔。漫才やバンドはチケット代という対価に代わり「与えられる」前者だと思いますが、現在のストリート・パフォーマンスはどちらかというと後者に当てはまりますよね。なので振り返ってみると、今のスタイルに辿り着く上での核になるようなものを、実は10代の模索の中で見つけていたんだと思います。

オーストラリアでのパフォーマンス生活

――なぜ渡豪しようと考えたんですか。また渡豪前から現在の活動をしたいという気持ちがありましたか?

大学生のころに心理学を勉強し、その中で日本人の行動特性について学びました。そのため、海外の人たちの行動心理とはどのようなものなんだろうと以前から知りたいと思っていました。また、英語を話せるようになると自分の世界はどう変わるのか知りたかったこともあり、さまざまな人種が混ざり合うオーストラリアに来ることを考えたんです。渡豪にあたってエンターテイナーとしての何かを探しにいくという気持ちは無かったですね。


――では、どのような経緯で現在のバケツ・ドラムのパフォーマンスに至ったんですか。

渡豪して最初の3カ月間は語学学校に通いましたが、同じ生活を繰り返す中で「何をやっているんだろう」と幼い時に感じたことと似たような気持ちを持ったんです。その時、英語圏なので英語が話せるだけでは意味が無いと考えていたことと、小学生の時に感じた「生きている」というスカッとした気持ちをまたつかみたいという思いが心の中で蘇ってきたこともあり、何かしたいと強く思ったんです。

そして、家の近くに捨ててあったバケツを見た時に「これで何かできないか」と考え、今に至ります。

――バケツ・ドラムを始めてから物事は順調に進みましたか?

最初はハイド・パークでお金を入れるためのバケツも置かず、練習も兼ねてパフォーマンスをしていました。それでも通りすがりの人たちは「お金はどこに入れたらいいの」と聞いてきてくれたんです。

辛いと感じたのは、ホームレスの人たちとの衝突があったことです。彼らの近くでパフォーマンスをすると、彼らは自分たちの家が荒らされたと感じて気分を害しバケツやスピーカーを何度も蹴ってきました。その度にパフォーマンスは辞めようと思いましたが、それでも道行く人たちは優しく自分を励ましてくれました。勇気をもらい、「もう一回やってみようか」と何度も自分を奮い立たせました。

――実際に路上でパフォーマンスをしてみて、オーストラリアのストリート・パフォーマーにはどのような印象を持ちましたか?

オーストラリアに来るまで、ストリート・パフォーマーとは「プロへの道を諦めた人」という印象だったんですね。プロになれないから仕方なく道でパフォーマンスをし、少ない稼ぎで生きていく人たち、と考えていました。

ただ、さまざまなパフォーマーとのつながりが出来ていく中で、自分の考えが全く違っていたことが分かりました。オーストラリアにおいて、ストリート・パフォーマーとは、他に仕事を持っていたとしてもストリートを舞台にパフォーマンスに専念している、自らの人生をストリートに捧げている人たちだと分かったんです。このことは、多くの人に知ってもらいたいですね。

未来に向けて

――これからもストリート・パフォーマンスを続けていく予定ですか。

ストリート・パフォーマーに敬意を持つようになってから、ストリート・パフォーマンスとは「目の見えない人、耳の聞こえない人、宗教や人種、貧富、性別に関係無く不特定多数の人たちが分け隔てなく楽しめるエンターテインメント」だという自分なりの結論に至りました。

この結論に至ってからは、路上でのエンターテインメントに誇りを持っているので今後も続けていきたいと思います。

――これから目指すものは何でしょうか?

シドニーの次は、トロントに場所を移し生活をする予定です。そして、将来的には司会者のような「話す仕事」をしたいと思っています。本当に今までいろいろなことをしてきましたが、その経験がどこかで1つの場所に結びつくのではないかと考えながら、その答えが分かるまでずっとこれからも人を「心から」笑わせたいです。

――今後の抱負を聞かせてください。

難しい境遇もありましたが、自分自身は何か特別な才能を持って生まれた人間だとは考えていません。それでも努力という武器1つで人はどうにでもなることが出来るんだと、皆さんに少しでも勇気を与えたいです。


中村鷹人(なかむらたかひと)プロフィル◎1993年生まれ、青森県出身。12歳で「よしもとNSCジュニア」に所属して以降、漫才を始め俳優やダンス、声優などさまざまな活動を行う。大学を卒業後、ワーキング・ホリデー制度を利用し来豪、シドニーの路上で「DUCKMAN」のキャラクターでバケツ・ドラムのパフォーマーとして活動。今年5月からはカナダ・トロントで活動予定(Facebook「Takahito TK Nakamura」、Instagram「takahito210807」)

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