【追悼】絵本作家・森本順子さん

【追悼】森本順子さん
核兵器の悲惨さを訴え続けた在豪絵本作家

2014年、在シドニー日本国総領事館で行われた外務大臣表彰の際に
2014年、在シドニー日本国総領事館で行われた外務大臣表彰の際に

被爆体験を通して核兵器の悲惨さを訴え続けたシドニー在住の絵本作家、森本順子さんが9月21日、85歳でその人生に幕を閉じた。本特集では森本さんの略歴と共に、生前、親交のあった方々から寄せて頂いた追悼文を掲載していく。

森本順子さんの代表作『わたしのヒロシマ』
森本順子さんの代表作『わたしのヒロシマ』
日本国内でも講演や特別授業を行ってきた
日本国内でも講演や特別授業を行ってきた
オーストラリアの学校でも平和を問う特別授業などを行ってきた
オーストラリアの学校でも平和を問う特別授業などを行ってきた

1932年、広島市で生まれた森本さんは13歳だった1945年8月6日、米軍が世界で初めて広島市に投下した原子爆弾により、爆心地から1.7キロ離れた自宅で被爆した。京都市立美術大学西洋学科を卒業後、中学校の美術講師や画家として活動した後、1982年にオーストラリアに移住。以来、30年以上にわたり、『鶴の恩返し』『一寸法師』など日本ゆかりの情緒豊かな14冊の絵本を出版し、さまざまな賞を受賞してきた。中でも自らの被爆体験を基に描いた絵本『My Hiroshima』は大いに話題となった。

また、国内の小中高校で平和をテーマとする数々の講演や特別授業を行うなど、戦争の悲惨さ、そして平和の尊さを世に訴え続けてきたことから、2014年には外務大臣賞を受賞した。亡くなる直前には、核兵器禁止条約への署名を求める書簡をマルコム・ターンブル首相に送っていたという。

『My Hiroshima』は当時、すでに絶版となっていたが、オーストラリア赤十字社の協力の下、再発行されている。森本さんは外務大臣表彰の受賞時、以下のコメントを残している。

「私が移住してきたころ、まだ日本はオーストラリアにとって、かつて戦った国というイメージが残っていたように思います。そんな中、私が本当に幸運だったのは来豪の翌年、当時の編集者の強い熱意もあり絵本を発行できたことです。私の被曝体験を描いた『My Hiroshima』は1987年に発行されましたが、これは編集者の方が、子どもたちへの平和教育の重要性を強く願い、出版を訴えたことで実現しました。人間が地球でこれからも住まわせてもらうためには、平和ということが絶対条件です。平和構築のためには、小さい子どものころから、隣の人、そして違う地域、更に違う国の人びとまで含めて、お互いを理解しようという気持ちを持つことが大切です。愛情まで持てとは言いませんが、分かってみようという気持ちを育てることが肝心だと私は強く思います。絵本を通じて子どもたちに異文化を知ってもらうと共に、それを受け入れてくれる子どもたちの心に関わることができた、そういったことの繰り返しが今回の受賞につながったのではないかと思います。また、絵本作家になって本当に良かったと大変誇りに思います。ありがとうございました」

2015年8月号「終戦70周年」特集の際に、書いて頂いたイラスト
2015年8月号「終戦70周年」特集の際に、書いて頂いたイラスト

森本さんは、『オーストラリアに抱かれて』『英語トンチンカン記』(いずれもテレビ朝日出版)の著書がある在豪作家のブレア照子さんの実妹。ブレアさんが2011年まで本紙に連載していたエッセイ「極楽とんぼの雑記帳」には、森本さんが挿し絵と題字を描いていた。

また、本紙15年8月号の特集「戦後70周年オーストラリアの地より」では、原爆投下直後の様子を描き下ろしたイラストと共に寄稿文を送り、「人間が人間を殺し合う戦争というものに正義はない」と訴えた。森本さんの寄稿文とイラスト、ブレアさんのエッセイは、下記の日豪プレス・ウェブサイトで読むことができる。

■【特別寄稿】戦後70周年オーストラリアの地より
Web: nichigopress.jp/interview/column_spe/104748/
■極楽とんぼの雑記帳
Web: nichigopress.jp/category/column/tombo/


※追悼文の表記に関しては明らかな誤り、地名の表記など必要最低限の修正にとどめております。

森本順子さんとの出会いは、彼女の書いた多くの絵本の中の一冊についての出版社での会議の通訳でした。彼女は制作途中の本のデザインの出来具合にとても不満で、猛烈に批判をして通訳の私も困る位の会議でした。しかし彼女の指摘は非常に明快でした。

自分をしっかり持ち、常に姿勢を正して前を向く順子さんには沢山教わった気がします。そんな自分にも他にも厳しい順子さんでしたが、とてもお茶目で可愛い面も沢山ありました。笑いのつぼが非常に似ている私達は、いつかとても親しい友達になっていました。彼女の書く絵は、その一冊一冊の著書を見てもわかるように、様々に異なるスタイル全てが素晴らしく、そして隅々まで全力で描かれていたのが素人の私にもよく判りました。

13歳で広島で被爆をされた経験を沢山の学校や平和会議などで伝え、平和の大切さについて話す順子さんの通訳を何度した事でしょう。絵だけではない彼女の素晴らしい表現力と信念にみちたスピーチは多くの人に感動を与えました。小学校では平和な世の中を作るためにはまず隣の友達を理解することから始まる、そして決して戦争などが起きない世界を築いてね、、と子供達に指切りげんまんをさせていた順子さん。

彼女の残した「私のヒロシマ」の絵本を通じて今でも彼女は戦争の愚かさと平和の大切さを私達に伝え続けてくれています。順子さん安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから。

──黒坂弘美(友人)


As a survivor of the Hiroshima bombing, Junko spoke powerfully about the catastrophic consequences of nuclear weapons, and why these weapons of mass destruction must be eliminated.

Junko Morimoto was an inspiring, and humble, woman who shared her story generously over many years. Junko’s art provided moving visual representations of the hell on earth that she experienced.

Junko was a great supporter of ICAN; her live painting performances, in which she conjured up a moment from August 6, 1945, while an audience looked on, are unforgettable. In her final month she called on the Australian Prime Minister to sign the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons; we hope that he heeds this call in honour of Junko Morimoto and all hibakusha.

──Gem Romuld (Outreach coordinator–ICAN)
(編注:核兵器禁止への活動をして今年ノーベル平和賞を受賞した団体)


私が順子さんと知り合ったのは22年前、今はドイツのカールスルーエにすんでいます。親子程 年齢が違った友人でしたが先輩として色々なアドバイスをして貰いました。私がシドニーにいた頃はカフェに行ったりご自宅に遊びに行ったり、ずいぶんと仲良くしていただきました。

順子さんが飼っていた猫のセン太郎は順子さんにとって生き甲斐の1つと勝手に思ってるのですが、セン太郎が歳をとって下の世話に困っていた時に猫用のオシメを作って、使って貰ったのですが、その後順子さんが普段広島弁が好きじゃないと言ってたのに珍しく広島弁で「恵子さんこれは使えんだわあ~」と言ってきたので余程使い物に成らなかったのだと笑った事、私がメルボルンへ引っ越そうかと思ってると話したら「私も引っ越そうかな」と言われて嬉しかった事等数えきれない思い出が一杯です。

順子さんが60代だった頃は絵本の話や結構踏み込んだ政治の話など今思うと1番精力的に仕事をして世の中の理不尽な事に怒ったり、原爆の話も被爆者として沢山の経験談を、特に家族、仲良しだった友人の話は忘れる事は無いでしょう。見た事、聞いたことを次の世代に伝える事が絵本の「ヒロシマ」も含め順子さんの使命だったんでしょうね。

70代にはいってからは体調が少し崩れはじめて最初の手術もこの頃だったと思います。

6年前に私がシドニーを離れてからは季節の変わり目にカードを送ったりメールで近況を知らせる程度でしたが、去年の4月から約1年の予定で戻って来てからは2週間に1回から2回行く事を心掛けて、私の帰国までご自宅や病院へ1人で行ったり、友人の黒坂ヒロミさんと行ったりしていました。

気が弱くなられてからは 度々「恵子さんとこれっきり会えなくなるねえ」と言われる度に胸が熱くなり涙が込み上げ滲みました。訪問した帰りに毎回握手するのですが、体力が弱って来ても力一杯に手を握って貰った感触が未だに消えません。

年齢的には決して早逝では有りませんが、友と永遠に別れるのはどんな時でも辛い事です。沢山の友人達も私と同じ様にもう会え無い事に淋しさや悲しみを抱いている事と思います。

今、順子さんの本と白いバラを居間に置いて、ご冥福をドイツからお祈りしています。

来世でも、又友達でいてくださいね!

──楢原恵子(友人)


ジャカランダが今年も咲き始めましたね~、とお声を掛ける森本さんはもう居ない。またしても長い友情の糸がぷつりと断ち切れてしまったのだ。人の命に限りあり……。でも、消え去り難い優しさ、温かさは心の中で途切れる事はない。

30数年も前のマーティン·プレイスの森本さんの作品展で初めてお会いした。売り物でもない、片田舎の日本ののんびりとした暮らしの絵が気に入ってしまい、絵に描き上げて頂いて以来のお付き合いだった。

その後の、数多くの作品を仕上げて居られたその合間のちょっとした思いや、葛藤、その進み具合など……。鳥を描くにもシティーの図書館へ何度も足を運び、納得いくまで下調べをされる。そんな事も聞かせて頂く事もあった。夕焼けにヒラリと舞う鳥の絵を見ると、ああこれだこれだと今も思い出深い。

日頃の森本さんは思慮深く、物静かで、即反応される心強く楽しい会話で時に2~3時間にもなっている事がよくあった。司馬遼太郎の本でも語り合い、猫の千太郎と私のマリ猫のたわい無いあれこれも今は懐かしい。

タリーのB&Bへの旅や、私が行くデッサン教室にも面白そうに参加されたりと、何でもない付かず離れずの長~いお付き合いは忘れ難い想い出です。天国で会いましょうね、森本さん。

──坂上法子(友人)


私と森本順子先生との出会いは2008年9月8日、ピ-スボート地球1周被爆者証言の旅でした。

同じヒロシマの被爆者で平和への思いは共通するものがあり、また学徒動員でわずか13歳で犠牲になった兄と同じ年と言う事もあり順子さんに兄の面影を偲び今生きていたら77歳、と思うと特別親近感を覚えました。被爆者103人乗り合わせ10組に分かれ、活動を分割する事になりました。私と順子先生は1班になり年長の順子先生は私に班長をしなさいと指名され引き受けて以来130日寝食を共にしました。

順子さんは世間知らずの私を色々指導して下さいました。当時順子さんは頭の病に侵され常にふらふらすると訴えながら自分の役割はしっかり果たされ責任感の強い方だと認識しました。

その人柄と優しさに私は姉のように、また母親に等しい愛情を感じるようになり、移動する際は荷物係を引き受け席取りなどをしてお世話しているうちに尊敬と憧れが一層強くなりお慕いたいするようになりました。

順子さんは私を本気で叱り諭して下さり、言われたことを実行すればバンザイ、よくやった、花丸をあげる、今日は二重丸、これは一重丸、70歳の私にパソコンでメールのやり取り、スカイプで数時間に及ぶほど何かと教えられ、文字の変換を間違えればあんたは、自分の書いたものに責任感が無いから文字換を間違える、同じ失敗をすると人間性を疑うと、叱られたことも数回ありました。

私は戦後生きるために肉体労働の世界で生きてきたので体には自信があり、順子さんの不得手なことは私が得意でした。そんな関係でお互いが引かれあうようになり、順子さんが77歳から80歳まで4年間、毎年私の家に来られ最低で3週間、長い時で1ケ月半滞在して『わたしのヒロシマ』の版権を私に委託されその間5万冊発行し、広島市を始め周辺の市町の小、中、高、図書館、公民館、広島市の主要ホテル客室にも配布しました。また順子さんが教員をされていた大阪の交野市にも800冊配布寄贈しました。

私にとっては師であり、またある時は厳しい母親であり、ある時は優しい姉に等しい愛情で導かれ、順子さんが来広出来なくなって4年間、私は、ピカドン、菜の花のように、原爆ドームは語る、ここより永遠に、青い空ヒロシマ、5冊の本を出版しました。

私は絵は書けませんが文字の大切さを教えて下さった心を受けつぎ、若者達と共にヒロシマの心を世界へ継続継承していく活動をしています。そして今年の3月、病をおしてヒロシマに来られ若者と共に平和公園を歩かれガイドされ後を頼むと懇願されました。

そして6月「御霊への誓い」が完成し教育委員会を通し配布しました。この本の完成を喜び天国に還られた順子先生のご冥福をお祈りすると共に順子先生の意思を被爆者や学生たちと力を合わせ継続継承していくことを誓います。どうぞ安らかに。

──佐藤廣枝(被爆者)


以前日豪プレスで森本順子さん、そして順子さんの実姉·ブレア照子さんがエッセイを連載なさっていたころ、お二人の編集担当をさせていただき大変お世話になりました。絵本作家として数々の賞を受賞された順子さんの素晴らしい才能と優しいお人柄に間近に触れることができたのは、とても名誉なことだと思います。

順子さんは永遠に旅立ってしまわれましたが順子さんが残した14冊の絵本はこれからも世界中の子供たちに読み継がれ、愛され続けるでしょう。心からのご冥福をお祈り申し上げます。

──蓮尾健吾(ジャパラリア編集長)


森本さんは、とってもチャーミングなおばあさまでした。私の倍以上、生きていらっしゃるのに、人生に倦むことなく、アーティストとして、そして反核、反戦、平和を訴える活動家として、ずっと、ずっと走り続けておられました。

長い間存じ上げていたのですが、2012年にメルボルンで行われた平和祈念コンサートで、ライブ·ペインティングをされるためにいらした森本さんのサポート係を仰せつかり、2日間、いっしょに過ごさせていただき、また記事にもさせていただいて以来、とてもかわいがっていただきました。体調がお悪くなるまで、メールやお電話でやりとりしたり、娘とともにシドニーのご自宅にお邪魔したり、お話し、お会いするたびにいつも、自分の信じる人生を生きていくための力を、いただきました。

訃報を知る前日、13歳の娘が学校でヒロシマのことをインターネットで調べていた時に、森本さんの動画が出てきたよと言うことで、とても久しぶりに『My Hiroshima』を本棚から出し、2人で声を出しながら読みました。そして広島のこと、原爆のむごさのこと、また森本さんのおうちに遊びに行った時のこと、そして娘にくださった絵本のことなどを長い間、話していました。それで、久しぶりに森本さんにお電話してみようかなあ、と思っていたその翌日、メルボルンで平和活動をしていた知人より、哀しいお知らせを受け取りました。

尊敬すべき、見習うべきすばらしい女性として、いつも、私の心の中にいる方でした。そしてこれから、自分自身が年齢を経ていくにつれて、80にしてなお走り続けていた森本さんのお姿は、私の中でさらにその存在感を増していくのだろうとおもいます。

──田部井紀子(フリーライター)


I was very priviledged to have Junko Morimoto, together with her interpreter Hiromi Kurosaka, visit on multiple occasions the following schools at which I was the teacher of Japanese: Picnic Point High, Mount Annan High, The Jannali High and East Hills Girls’ High.

I was saddened to hear of Junko’s passing, as with great dignity, passion and energy, even as she became older and not in good health, fought to educate others about the tragedy of nuclear weapons. In her words, when addressing my students: “Peace starts with young people like you, because if I can make you understand about the horrors of nuclear war, then there is some hope in the world”.

When I escorted my students of Japanese eight times to Japan, where obviously one of the cities we visited was Hiroshima, this was made more meaningful, thanks to Morimotos san’s reading to my students of her book“ My Hiroshima”. When standing on the bridge we could imagine the suffering of those who threw themselves off the bridge into the river to alleviate their pain.

The world is certainly a poorer place without Junko Morimoto. I know that she touched the lives of myself, and the hundreds of students with whom she came in contact, either in person, or through her book.

──Marilyn Lucas
(編注:森本さんが訪問した学校の教師)


迷いなき足跡~森本順子さんのこと~

かつてNHK広島に所属し原爆の取材を進めていた私は、こども図書館の特設コーナーで森本さんの絵本と出会いました。拝見すると迷いのない線で大胆に描かれる絵に、日本の民話をモチーフにした滋味に溢れたストーリーの数々、胸を打たれました。中でも圧倒されたのが『My Hiroshima』でした。ご自身の被爆経験が詳細に描きこまれ、核が人類に何をもたらすのか、静かに、そして力強く、心に迫る内容でした。私は、すぐにシドニーに手紙を書き、話を伺いたいと伝えました。その後、現地や広島での取材ロケが始まり、2002年に「アジア情報交差点」、2004年には、世界で活躍する日本人をドキュメントする60分の番組『遠くにありて にっぽん人』で全国に森本さんの活動をお伝えすることが出来ました。中でも私が注目したのは、多民族国家である豪州の地で、様々な若い世代に『My Hiroshima』を語り伝えているということでした。9・11の同時多発テロの直後だったこともあり、森本さんのメッセージを通して、紛争や戦争の行き着く先に何があるのか、日本国内だけでなく、世界にこそ伝えたいと思っていました。

その後被爆60年に森本さんは、『My Hiroshima』が広島のある学校で平和教育の教科書に採用されたり、詩「SKY」が歌碑として街中に設置されたりと故郷·広島でも再評価されました。

鋭い感性で世を見つめる森本さんですが、一方で気さくに私を可愛がってくださったことも忘れられません。NHK国際放送をシドニーで視聴し、手紙やメールで「クローズアップ現代に西東さんが現れてビックリ、即、姉にTEL。ほんとじゃほんとじゃ、大ちゃんじゃ! こいつは春から縁起がいいぜ……!」とか、のちに私が沖縄戦を舞台に取材制作したNHKスペシャルでは「戦争というものの正体をリアルに描き切った、優れたドキュメンタリーでした。如何に昭和の15年戦争が軍の狂気であったか、今、戦争を全く知らない殆どの日本人必見の作品と思います。森本順子」などと感想を送って頂きました。

本当に人生の師のような有難い方でした。森本さんが他界されたこと、いまだに信じられません。順子節を、もうお聞きすることが出来ないと思うと、残念で仕方ありません。

悲しみの中、番組「遠くにありて にっぽん人」を見返しました。ロケでご一緒した内陸部アウトバック、砂漠でのラストシーン。風の音しか聞こえない地平線に向かって、森本さんはこう語っていました。

「これ、私の足跡よ。明日は風紋で消えるでしょう。……それでいいよね」

いま、私は、逆に思うのです。広島に、そして世界に遺された森本さんのメッセージや迷いなき足跡は、絶対に消えないと……。いや、消してはいけないと……。

──西東大(NHKアナウンサー)


オーストラリア在住6年と、新参者の私にとって森本さんとのお付き合いは決して長いものではありません。初めてお会いしたのは2014年の外務大臣表彰の取材の時でした。その時にああ、こんな素晴らしい方がいたのだなと感じ入ったことを思い出します。その後、東京マートで偶然お見かけし、お声がけした際、覚えていて下さったことがたいへん嬉しかったです。戦後70周年のタイミングでは「もしかしたらこれが最後の寄稿になるかもしれない」とおっしゃりながら、姉のブレア照子さんと共に、戦争体験に関するご寄稿をいただくことができました。それが実際、最後の寄稿となりましたが、晩年の数年だけでも一緒にお仕事ができたことをたいへん光栄に思っております。森本さんの思いを私も強く胸に刻んで生きていこうと思います。ご冥福をお祈りいたします。

──馬場一哉(日豪プレス編集長)

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