シドニー日本クラブ(JCS)創立初代会長・保坂佳秀氏インタビュー

日豪プレス40周年特別企画

日豪交流の軌跡と今

シドニー日本クラブ(JCS)創立初代会長・保坂佳秀氏インタビュー

シドニーに定住する日本人・日系人の互助・親睦組織であるシドニー日本クラブ(JCS)の設立や、オーストラリアでの在外選挙の実現など、在豪邦人のコミュニティーに多くの功績を残してきた保坂佳秀氏。同氏は、オーストラリアと日本人の間で起きた数々の出来事を当地で肌で感じてきた定住者でもある。日豪プレスは今回創刊40周年記念企画の一環として、日系コミュニティーの歴史やJCS設立の経緯などについて保坂氏に話を伺った。取材・文=糸賀詩織、上田優華、平野友惟、写真=馬場一哉

日本クラブの始まり

――日本クラブ・シドニーを作ったきっかけは何だったのでしょうか。

駐在員のための日本人の集まりは戦前からあったんです。ただ駐在員には大概3~4年で帰ってしまう方が多いので、僕たちのような永住目的で来ている人たちにはその集まりはあまり合わないと思っていて、将来どうしようかなと悩んでいました。

また、オーストラリアには戦争花嫁さんという日本人女性がいたんです(編注:戦争花嫁とは、自国に駐留していた兵士と結婚し、その夫の国に移住した女性のこと)。僕がオーストラリアに来た80年代には、戦争花嫁さんは50~60代になっていました。


また、ご主人が先に亡くなっていたり、離婚したりで1人暮らしの方もいました。この人たちの将来はどうなるのだろう、誰がその人たちの面倒を見るのだろうと考えたら、僕たち世代しかいないわけです。日本クラブを作った理由は、まずそれです。

それから、基本的には永住目的で来ている人たちの子どもはここで大人になるので、日本語教育だけでなく、現地の学校に通わせて英語も学ばせないといけない。その時に日本語と英語の教育をどうやって両立させるか、その方法を確立するというのも、日本クラブを作った理由の1つです。

最初はお金がなかったので、半分は僕のポケット・マネーで運営していました。更に、海外に移住する人のためのパンフレットに僕が書いたオーストラリアに関する記事を載せたりしてお金をもらって、日本クラブの費用に充てていました。創立当時はメンバーが20人くらいしかいなかったのですが、100人くらいになると連絡用の手紙を出す手間や費用も大変になって。当時あったJICA(国際協力機構)のオフィスでコピーさせてもらったり、会議の場所を借りたりしました。

このように最初に考えていたことが、今の活動につながっているんです。今ではニーズも増えて、会員は1,000人くらいまでに拡大しました。

在外選挙権実現への道のり

――その後、在外選挙実施に向けた活動も開始されていますが、きっかけは何だったのでしょうか。

きっかけはごく単純に、「変だな」と思ったからです。僕が勤めていた会社のセクションにアルゼンチン人のエンジニアがいて、アルゼンチンの大統領選挙があるので、投票するためにオーストラリア国内の領事館へ行くと話すんです。僕は不思議に思いましたが、オーストラリアも同じで、彼らにとって投票は義務。

しかしそのころ、日本人には日本以外の国で投票できる制度がありませんでした。よく調べると他の国にも在外投票制度があるのに、どうして日本人は選挙に行けないのか、と感じました。

しばらく経ち、91年にシドニー、メルボルン、パースなどにある日本クラブの連合組織として、全豪日本クラブを作りました。会長になった私は、何をしようか考えている時に、海外に住む日本人の選挙参加の問題を思い出しました。オーストラリアに住む日本人に共通している問題ですから、これが良いと思いました。東京での海外日系人大会に呼ばれていたので、そこで海外選挙を始めようと立ち上がったんです。これが始まりですね。

――その時点で、そうした取り組みをされている方はいなかったのですね。

だから変人扱いですよ。日系人大会で提案しまして、大会の決議文に採択されました。外務省や自治省、自民党の本部にも行きました。当時、自民党の幹事長だった元首相の小渕恵三さんに話を聞いてもらいました。話すとざっくばらんな良い人で、法の改正を検討しているから一緒に考えましょう、ということになりました。ただ、そう簡単に政府で話が進むわけではありません。

話が持ち上がってから1年程経つころに、元朝日新聞・シドニー支局長の青木公さんが、アメリカで同じ考えの人がいると紹介してくれたんです。竹永さんという人で、ニューヨークで同じことを考えているから一緒にやりましょうと連絡を取り合うようになりました。

そして、僕はシドニーで、竹永さんはニューヨークで、在外選挙をやって欲しいという日本政府宛ての嘆願書の署名運動を始めました。シドニーでは2,000人分くらい集まったかな。そのころシドニーにいた日本人の数にすれば、ものすごく多いと思います。

次に、シドニー・ニューヨーク同時記者会見をやりました。日本や現地のテレビ局から各新聞社に連絡して、「今こういう運動をしている」とメディアで発表しました。すると、アメリカのカリフォルニアに火が着いて、そのうちフィリピン、タイからも声が上がり始めたんです。

更にそのころ、インターネットが動き始め、この運動のウェブサイトやEメールなどを立ち上げたおかげで、動きが速くなりました。

在外選挙投票権獲得を目指し、日本国外では初となる公聴会がシドニーの総領事館で開催された
在外選挙投票権獲得を目指し、日本国外では初となる公聴会がシドニーの総領事館で開催された

話が徐々に大きくなり、シドニーの領事館で公聴会を開いてもらえることになりました。日本初の海外での公聴会でした。今まで野党として応援してくれていた日本新党が、ある日、与党になったことで、衆議院の議員さんも来てくださりました。

海外に住む日本人が投票権を持っていないのは憲法違反だと、東京地方裁判所に訴えたんです。日本弁護士連合会がサポートしてくれて、この運動を始めて丸7年かかりましたが、政府もいつまでも放っておけないということで、98年、海外投票を認めるという選挙法改正実施に至りました。そして今こうしてシドニーで投票ができるようになったわけです。

全ての始まりは明治時代

――日本とオーストラリアの交流は、もっと昔からあったそうですね。

明治時代に日本人が木曜島(編注:ニューギニア島とオーストラリアとの間にある、オーストラリア領トレス海峡諸島南部の小島)を真珠貝採取ダイバーとして来るようになったことから、オーストラリアと日本の関係が始まったんです。実際のところ、木曜島にはダイバーとして来た約2,000人の日本人が住んでいました。なぜダイバーがいっぱいいたかというと、移住目的で来たわけではなくて出稼ぎだったんです。ですから彼らは1、2年働いて稼いだら帰ってしまいます。

ダイバーは危険な仕事なので亡くなる人もたくさんいました。そのため木曜島には200人くらいの日本人のお墓があるんです。またオーストラリア人と日本人との間で子どもが生まれたりもして、彼らは今でも木曜島に住んでいます。

日本人の真珠貝採取の出稼ぎは木曜島が有名ですが、実は西オーストラリアで働いている日本人の方がもっと多かったんです。ただ、その事実は意外と知られていません。彼らは西オーストラリアにあるブルームという町へ出稼ぎのためにやって来ました。

そこから第1次世界大戦の時代になり、海軍力の手薄なオーストラリアをドイツ海軍の攻撃から守るために日本が軍艦を派遣したりと、オーストラリアは最も日本に友好的な国となりました。

しかし第2次世界大戦で状況は一転し、オーストラリアと日本は敵国同士として対峙することになります。そこでオーストラリアと激しい戦いを繰り広げ、帰還兵による日本軍の捕虜虐待の様子が伝えられると、オーストラリアは世界で最も反日感情の強い国になってしまったんです。そういう歴史があって今に至るんですよ。

白豪主義からマルチカルチャーへ

――保坂さんは、日豪関係の歴史についての日本語書籍『オーストラリアの日本人ー・一世紀をこえる日本人の足跡』(全豪日本クラブ編)の出版にも携わられました。オーストラリアが現在のようなマルチカルチャー(多文化主義)の国になるまで、どういった経緯があったのでしょうか。

元々オーストラリアには白豪主義という概念があって、有色人種の入国を制限する法律があったんですよ。しかし52年、日本駐留軍人ゴードン・パーカーさんと結婚した日本人のチェリー・パーカーさんが、日本人の入国を認めていなかったオーストラリアに、ゴードン・パーカーさんの協力により入国を果たしました。ただ、入国は認められたものの、完全に白豪主義は捨てられたわけではなかったんです。

全豪日本クラブが98年に発行した『オーストラリアの日本人・一世紀をこえる日本人の足跡』
全豪日本クラブが98年に発行した『オーストラリアの日本人・一世紀をこえる日本人の足跡』

終戦後に収容所にいた日本人は、オーストラリア人と結婚して家庭を持っている人を除いて、全員が日本に強制送還されてしまいました。そして日本人が永住権を取得できるようになった70年代の終わりごろ、人間は平等であり差別はいけないという風潮が世界的に広まり、オーストラリアもその風潮の中で白豪主義を捨てたんです。

それからオーストラリアに移住してくるアジア人が増えました。

また、ベトナム戦争の引き揚げによってアメリカ軍と働いていたベトナム人がオーストラリア来たことによって更に移住者は増え、日本人コミュニティーも広がっていきました。私がオーストラリアに移住した80年頃、シドニーにいる日本人は200人くらいという時代だったので、街で日本人を見かけると声を掛けていました。そのくらい珍しかったんです。

――オーストラリアは今でこそマルチカルチャーの国ですが、移住した当初、日本人だからという理由で苦労をされたことはありますか?

オーストラリアで就職しようと考えている人は、注意すべき点があります。私は技術エンジニアとしてオーストラリアに来たのですが、オーストラリアのエンジニア協会(IEA)という協会に入らなければいけないことを移住してから初めて知りました。もしその協会に入っていなかったら技術エンジニアとして認めてもらえません。その当時、協会には面接か試験を受けて会員になる方法がありましたが、30歳以下の人は、オーストラリアの大学卒業程度の学力試験を受けないといけませんでした。日本の大学を卒業していても当時はそれさえ認めてくれなかったんですね。

私は移住した翌年に会社に入ったのですが、エンジニアとして正式に認めてもらえなかったので、協会を探して2年がかりで会員になりました。英語圏の国から来た人は、国際的に協会同士につながりがあるので認めてもらいやすいのですが、非英語圏の出身者はまず大学を必ず出なくてはなりません。国際協力などに行っても書類審査でふるいにかけられて、大学を卒業している人だけがリーダーになれます。そのくらい、学力が重視される厳しい社会なんです。だから一生懸命勉強して、大学を卒業してからやりたいことをやる必要がありますね。

JCSの今とこれから

――JCSでは現在、どのような活動をされていますか?

例えば、シドニーでの日本の補習校の運営です。補習校というのは、現地の学校に通う日系の子どもに日本語と日本文化を教えるための学校で、土曜日と日曜日に開催されています。普通に現地の学校に通っているだけでは日本語が話せなくなってしまいますし、日本の文化も後世に残せなくなってしまうんです。現在、JCSは3校を運営しています。

他にもクラブ活動として、食べ歩き会やカラオケ部、ゴルフ部などの活動の他、チャッツウッドで日本祭りを行うなどイベントの企画も行っています。

またJCS編集委員会では、会報誌の編集・発行を毎月行っています。

――今後、JCSで新たに始めようとお考えの活動はありますか?

日本は独特の文化を持っていますから、その文化を後世に伝えていくためのイベントはやりたいと思っています。日本人だけが集まって何かやろうというのではなく、日本に興味がある現地の人たちと交流しながら実現していきたいです。

例えば、ジャパン・フェスティバルは既に年2回ほどやっていますが、年末に盆踊りの会をやったり、浴衣を着た人が集まったり、日本文化に興味のある人たちが参加するという形はこれからずっと続いていくと思います。国や人種が中心になるのではなく、「文化」が中心になっていくのでしょうね。

──本日はお忙しい中、本当にありがとうございました。

(10月19日、日豪プレス・オフィス内で)


保坂佳秀氏
プロフィル◎1980年来豪、シドニー在住。海外有権者ネットワーク・オーストラリア代表。シドニー日本クラブ創立初代会長。83年にシドニー日本クラブ(JCS)を設立、海外在留邦人の選挙権を先頭に立って訴えるなど精力的に活動し、98年に在外選挙制度の実現に漕ぎ着ける。2016年、シドニー日本クラブ創立の功績を称えられ、総領事表彰を受けた

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