【特別寄稿】オーストラリア滞在回顧録「日豪交流、今昔の感」

©Naoto Ijichi

特別寄稿

オーストラリア滞在回顧録
「日豪交流、今昔の感」

近年、ますます互いの重要度を増す日豪両国だが、その関係性も時代によってさまざまな姿に形を変えて来た。本特集では、かつてオーストラリアに滞在し、重要な役割を担った方々より「日豪交流、今昔の感」と題し頂いた特別寄稿文を今月、来月と2回にわたって掲載していく。(コーディネート=根本ミネ子)

実に気持ちの良い国であり、国民もまた同様

長谷川和年(はせがわかずとし)プロフィル◎元駐豪日本国大使(1992~96年)。東京大学法学部卒業後、外務省入省。中曽根政権時、首相秘書官を務める。著作『首相秘書官が語る中曽根外交舞台裏』など多数

過日、メルボルンで取材されたNHKテレビの「家族に乾杯」という番組を、妻と一緒に楽しく見ました。緑の多いメルボルン、そして外国からの移民を喜んで、自由に受け入れているオーストラリアが楽しく描写されていました。

私はオーストラリアの各都市が好きですが、その中でもメルボルンは特に好きです。大使として駐豪していた当時、休日にはイタリア街でコーヒーを楽しみ、そして美術館で名画を鑑賞しました。「今度の日本の大使は絵画が好き」と、メルボルン美術館で開催されたゴッホ展覧会の主催者に依頼され記念講演をしたことを、楽しく思い出します。

私がオーストラリアに在勤したのは、1992~96年半ばまででした。日本経済はまだバブルの最盛期で、日本から多くの企業が進出していました。アデレードを公式訪問した時のことですが、現地に進出している自動車メーカー・ニッサンの工場を見学する予定だったのですが、日本の大使が来ることに反対した従業員らが一時的にストに入り、予定が中断されたことがありました。

この従業員の大部分は英国からの移民でした。急きょ計画を変更し、ブリジストンのタイヤ工場を見学したところ、こちらでは温かく歓迎されました。また、メルボルンのトヨタ工場を見学した時に大歓迎を受けたことも良い思い出です。

私共夫妻はオーストラリア各地を歴訪しましたが、行く先々で常に温かく受け入れられ、今思うに、オーストラリアは実に気持ちの良い国であり、国民もまた同様だと思います。

オーストラリアで友人にも恵まれ、今日に至るまで複数の友人たちと親しく付き合っています。その1人は運輸大手リンフォックス(Lin Fox Industries)会長のリンゼイ・フォックス氏です。彼は2~3年に一度日本に来るのですが、その度に旧交を温めており、彼を鬼怒川の露天風呂に案内したこともあります。

さて、カウラの旧日本軍兵士の墓地をご存知の方も多いことでしょう。オーストラリアの人びとは、旧敵国である日本人の捕虜たちの墓地を整備、維持してくれているのです。また、第2次世界大戦の開始直後、シドニー湾への攻撃を企て、失敗して自沈した日本の特殊潜航艇の乗員の遺体を引き上げ、「これは立派な海軍軍人だ」と称えて正式な「海軍葬」で葬ってくれたのもまた、オーストラリアです。これは、オーストラリアと日本が交戦中の出来事でした。

オーストラリアについて考える時、思い起こされることがたくさんあります。

オーストラリアは日々遠くになりにけり

長谷川照子(はせがわてるこ)プロフィル◎元駐豪日本国大使夫人

もしかすると我が国、日本にも「人民の下に国会がある」を見事に実践した国会議事堂ができたのかもしれません。オーストラリアにいたある時、静かなキャンベラに邦人客がどっと押し寄せ、立派な国会の建築物を訪れる珍しい出来事があったのも、懐かしい思い出です。今では空港の滑走路も広がり、大きな飛行機の発着が自由になったと聞くキャンベラは、私が心に深く留めている、抜けるように真っ青な空の下に広がる住宅街のたたずまいも変化しているのではと、時の流れをひしと感じるところです。オーストラリアは日々遠くになりにけりです。

オーストラリアには戦後、連合軍として日本に駐在した人たちによって持ち帰られた日本の良い印象などから始まり、その頃からの国際結婚などによって築き上げられてきた日本人のイメージがあります。日本人としての立ち居振る舞いが、今では分け隔てなく平等に活躍できるオーストラリアの地で、オーストラリア人の資質に溶け込んでいます。

日本人女性の秀子さんは、日本に駐軍していたオーストラリア人のリックさんと出会い結ばれ、後に連合軍としての戦後処理を終えて帰国の途に就かれたリックさんと共に来豪されました。リックさんとは価値観が一致していたようで、私もお2人の会話によく仲間入りさせてもらったものでした。秀子さんは曲がったことが大嫌いで竹を割ったような性格で、愛すべき人柄です。現在の日常生活では日本語との接触もないため、読書好きの彼女は、読み古しであろうと本であれば隅々まで熟読するそうで、今も日本語を忘れず、立派に読み書きをされます。

彼女から以前もらった手紙によると、彼女はある掛け軸についてリックさんに「心身、心の中も清く正しく生きること。これが仏法の大原理」と説明され、彼は「クリスチャンと全く同じ。洋の東西を問わず心理の探求は同じである」と、とてもまじめな顔で感心しています、とのことでした。

リックさんは亡き人となられましたが、没後1年目に、オーストラリア政府は元軍人である彼の名を刻んだ碑を建てたそうです。彼がいなくなった後も彼女は生活に何不自由なく暮らすことができ、オーストラリアの優しさ、すばらしさに感動せずにはおられません。

また、ある年の終戦記念日の式典の実況中継を、オーストラリア在住の作家のブレア照子さんと2人きりで見て、黙とうを捧げたことがありました。彼女も広島を後にしてオーストラリアに来てからは、日豪プレスなどにエッセイを書いて活躍され、今は施設で幸せに過ごしておられます。

他に、スエン博江さんは、オーストラリアでの陶芸の第一人者。ご夫君はオランダ人の画家で、今、彼の健康状態が気にはなりますが、昨年彼女は日本の勲章に輝き一時帰国したのでした。

私がブリッジやテニス、そしてゴルフを通じて親しんだオーストラリアの友達は、人が良く物事にこだわりがなく、さっぱりした性格が魅力です。彼らは年と共に心のふるさと恋しの心境のようで、ヨーロッパなど出身国に心が向いているようです。真夏12月のクリスマスは水上スキーでサンタクロースが現れるかと思えば、やはり冬7月に雪を戴くクリスマス・ツリーがなければ納得いかないようなお国柄、ヨーロッパとは遠く離れた場所。

南米系のオーストラリアのお仲間はいつもにぎやかです。食事が終わると、ほんの狭いスペースでもダンスが始まり、夜更けまで飲んで歌ってオープン・マインド。オーストラリアには懐かしの友を残して、日々遠くになりにけりです。

NSW州立美術館での思い出

竹田幾美子(たけだきみこ)プロフィル◎元伊藤忠商事大洋州総支配人及び元駐ブルガリア特命全権大使夫人。米国ワシントン国立美術館ドーセント、豪州NSW州立美術館ドーセント、英国ロイヤルアカデミー日本名誉委員会会員

2003年にシドニーを後にしてから、あっという間に15年の月日が流れました。その間、ブルガリアに3年滞在し、7年前からやっと日本に定住しております。

シドニー滞在は01年8月から03年5月までの2年弱でしたが、私にとっては中身が濃く、とても充実したものでした。それというのも、NSW州立美術館のドーセント(編注:美術館や博物館で展示内容を解説するボランティア・スタッフ)として大いに楽しませて頂いた思い出が色濃いからだと思います。

当時、夫の赴任から遅れること1カ月、私がシドニーにたどり着いた翌日にニューに飛び込んできました。それからの数日間はアメリカの大学に残してきた2人の息子と連絡を取り合うことに明け暮れ、シドニーでの駐在生活が軌道に乗ったのは10月に入ってからでした。

私は、前任地ワシントンD.C.(1991~99年まで)のナショナル・ギャラリーで日本語ドーセントの資格を有していたので、シドニーでもぜひ美術館のボランティアをしたいと思っておりました。ドーセントというのは辞書で引くと「大学助教授」などの意味が出てきますが、そのような大それた者ではなく、美術館で展示品を説明するボランティア・ガイドのことです。

ワシントンD.C.は多国籍の住民や観光客が多く、ロシア、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポルトガル、そして日本語と、100人近くの外国語ドーセントがいました。ちなみに英語のドーセントは200人くらいいて、かなり競争率の高いボランティアでした。初めの1年間は英語話者も外国語話者も同じ美術の講義と試験を受け、それに受かると母国語で実地の最終テストがあり、めでたく合格となるのです。常時、日本人ドーセントは4~5人いました。

シドニーでもそのような制度はないものかと、NSW州立美術館の扉を叩きました。しかし、NSW美術館には英語のドーセントはたくさんいましたが、外国語を担当する人はおらず、「前例がないので」という理由で断られてしまいました。

仕方がないので1カ月ほどゴルフなどをして過ごしていたところ、突然NSW美術館のドーセントの委員長から電話があり、「履歴書を持って面接に来るように」とのことでした。喜び勇んで伺うと、「当館では外国人ドーセントの例はないが、せっかくの要望なので、英語ドーセントの言ったことを和訳して日本人にツアーをしてはどうか?」との要請がありました。

それを聞いた私は「私がいつも説明していることは、現地の美術を日本の歴史と比較したり、日本人に分かりやすいエピソードなどを交えて説明して身近に感じてもらうことを特徴としています。私はプロの通訳でもないし、そのような立場でしたらお断りします」と自分でも驚くほどはっきりと申し上げました。すると委員長は少し考えてから、「それではあなたの思い通りにやってください!」と夢のような返答が返ってきたのです。そして、喜んでいる私に「1つ条件があります。あなたが駐在を終えて帰国する時には、必ず後継者を見つけてから辞めるように」と言いました。

それから私のシドニーでのドーセント生活が始まりました。まず、日本総領事館、日本人会、各企業の婦人会などに声を掛けてツアーに参加して頂くようにしました。各社15人くらいの駐在員がいらしたので、そのご家族など子ども連れの方も参加できるよう、週1~2度は美術館に通いました。

NSW州立美術館は、イギリスの影響で「ビクトリア王朝絵画」の作品がとても充実していました。ワシントンでも一度「大ビクトリア王朝絵画展」があり、エリザベス女王の所蔵品や世界的に有名な作品のツアーを経験していたので、NSW州立美術館では作品こそ違えど、作家の経歴や絵画の時代背景などを勉強していたことがとても役に立ちました。

その後、「ピカソ展」「北斎展」など、アメリカで既に経験済みの展覧会が催されたことは私にとってとてもラッキーでした。

パリで「第1回印象派展」が開かれたのと同じ1874年に開館したNSW州立美術館は、建築物としてもすばらしかったのですが、欧米や日本と違って日本人の好きな「印象派」の作品はほとんどありませんでした。しかし、幸運なことに「オーストラリア印象派」の作品がたくさんあり、彼らはフランス印象派の影響を受けて活躍した作家だったので、日本人の知っているモネやルノワールと比較して説明すると、とても身近に感じてもらえました。特筆すべきは、本当か嘘か、作家のほとんどが「看守の末裔」だということ。当時の流刑地としてのオーストラリアならではのエピソードです。

オーストラリア独自の芸術である「アボリジナル・アート」も地下1階の広大なスペースに展示されており、ツアーの最後に必ず2点ほど説明しました。もう少し詳しく勉強しようと思っていた矢先、夫に帰国の辞令が出て、残念ながら深く掘り下げることはできませんでした。

そして、NSW州立美術館との最初の約束である「後継者探し」に奔走しました。幸運なことに、いつもツアーにご家族で参加してくださっていたパーソンソン・恵子さんや、ゴルフ仲間で美術が大好きな鴨粕弘美さんに声をお掛けし、私の後を継いで頂くことになりました。

それを機会に、美術館側もそれまで私1人だった外国人ドーセントを多言語に増やそうということになり、日本語に加えて、中国語、韓国語、ベトナム語など、総勢30人ほどの「コミュニティー・アンバサダー」という制度ができました。その頃、私はもう帰国しておりましたので、先述の恵子さん、弘美さんからのお手紙で外国語ドーセント制度が発展している様子や、お2人が優秀でご活躍されている様子を知り、本当にうれしい気持ちでいっぱいになりました。

日本から大臣ご夫妻がいらしたり、新任大使がいらしたりする時にはお2人の名前をご紹介したので、いまだに「あの時は日本人ドーセントに案内してもらって楽しかった」と記憶に残る存在となっているのは非常に喜ばしいことと言えるでしょう。ツアー参加者の中には、「シドニーに何十年も住んでいるけど、初めて分かりやすく、楽しく美術を鑑賞した」とおっしゃる方もいらっしゃいました。少しでも皆様のお役に立てたのならば、その記憶は私の一番の宝物です。

その後、ブルガリアに3年おりました時にも「国立イコン博物館」で「ブルガリア・イコン」の説明をし、イコン(編注:聖像を描いた絵画)の存在すら知らなかった日本人の方々に楽しんで頂きました。

そのようなわけで、シドニー滞在は2年弱でしたが、NSW州立美術館におりました時間は長く、とても充実しておりました。ツアーの後、皆様と美術館近くのそば屋「新橋」でお昼を頂いたのも楽しい思い出です。

この度、ジ・オーストラリアン・ゴルフ倶楽部でのゴルフ仲間で大変お世話になった根本様から原稿の依頼を頂き、シドニーでの楽しい思い出は多くございますが、私はこの美術館ドーセントのことを書くしかないと思い、筆を執りました。

今後、NSW州立美術館における日本語ドーセントがますます発展し、多くの駐在員や日本人旅行者の方々のお役に立てますことを、そしてドーセントの方々自身が大いに楽しまれますことを、はるか遠く日本よりお祈り申し上げております。

オーストラリアの民権小史

副島晃(そえじまあきら)プロフィル◎元興銀シドニー事務所首席、元輸送機工業取締役社長
※この原稿は、私が日本興業銀行のシドニー駐在員の頃、日本人会会報「こあらべあ」に掲載された物であるが、40年あまり昔の記述なので今回一部を加筆修正した。

2人の国父

豪州には2人の父親がいると言われている。1人はキャプテンクックに同行したジョセフ・バンクスという植物学者である。ボタニー湾の名付け親であり、ここが流刑地に適していると本国に進言をした。もう1人の国父はウェントワースである。彼は1790年、豪州で生まれ青年時代に英国で法律を学んだ。帰国後英国の植民地だった豪州の自由民権のために総督ダーリンと激しく争った。シドニーのホテル・ウェントワースは彼の名前に倣っており、又市東部の高級住宅地にあるコロニアル・スタイルの木造館は「ボークルーズ・ハウス」と呼ばれ、ウェントワースの活躍の拠点となった。

ウェントワースの生い立ち

彼の母親のカサリン・クロウリイは盗みで7年の流刑を申渡され、父親のダーシイ・ウェントワースはアイルランドの名門出身でありながら追い剥ぎの疑いで起訴され自ら豪州行きを申し出て、裁判を免れた。

2人が会ったのはセカンド・フリートのネプチューン号の船上であった。ダーシイはマッコーリー総督に可愛がられて運が向き、大地主になっていったが英本国から来た高級官僚や将校たちの特権階級の仲間には入れてもらえなかった。

やぶにらみの青年

1803年にダーシイは息子たちに教育を受けさせるため7年の間ロンドンに送った。当初ダーシイは長男ウェントワースを外科医にするつもりだったが、面倒を見てくれた友人から「あなたの息子さんは片眼がやぶにらみなので、正確なメスさばきの必要な外科医には向いていないと思う」という旨の手紙を受け取った。ウェントワースは20歳でシドニーに帰ってきた。エネルギーと野心に満ち談論風発、魅力的でありながらどこか不安定な青年であったらしい。当時の伝記作者は「大柄で前屈み、動作も話振りも不器用な上、片眼はやぶにらみのこの青年は、しかし若い神のような雰囲気と権威を自然に備えていた」と述べている。

彼がブルー・マウンテン初踏破に成功したのは1813年である。この探検行はかなりの危険を伴ったようだが、この成功はその後の豪州史の展開に非常に大きな意味を持っている。すなわちそれまでニュー・サウス・ウェールズの植民地は、東の海、西の山塊に囲まれて孤立していたが、この探検に引続いてブルー・マウンテン越えの道路が開発され、孤立した島は大陸となり羊毛業の発展に連なって行った。

1816年にウェントワースは、再度英国で法律を勉強し豪州人としては初めて英国弁護士の資格を認められた。しかし、この間彼にとって不愉快な事件が起こり、特権階級への怒りを募らせた。1つは豪州最大の地主となった彼の父が、またもや元流刑囚ということで差別待遇をされ、もう1つは家柄の良いマッカーサー家の娘から求婚を断られたことである。

サヅ·ケース

さて、ウェントワースが2度目の英国留学から帰国したのは1824年で彼は32歳になっていた。親友のウォーデルが一緒で、彼はその後オーストラリアン新聞の編集長となり、特権階級反対派の代弁者として活躍した。その頃には豪州にも立法院や陪審制が導入されていたが、代議員は植民地政府の指名制なので、ふたを開けてみると特権階級以外の新興地主階級の有力者は1人も選に入っていないなどの問題が多かった。ウェントワースは戦闘的だった。当時の記録によると彼は英国に離反して米国に援助を求めることの可能性、また革命軍が羊や牛の群を引き連れてブルー・マウンテンに立てこもったら、英国軍はいかにこれを攻撃するかなど、真剣に検討した形跡がある。

そこに1826年、サヅ・ケースと呼ばれる事件が起こった。当時豪州に派遣された英国兵の中には、わざと軽い犯罪を犯し短期刑の後自由移民になることを願う者がいた。時の総督ダーリンは融通の利かない真面目な男で、かねがねこのことを苦々しく思っていたところ、たまたまサヅとトムプソンという2人の兵隊が除隊を願ってわざと軽い盗みを働いた。ダーリンは見せしめのため彼らに7年間の重労働を宣告した。この2人は鉄のカラーを着け足首を鉄鎖で縛られて連隊を追い出されたが、体の具合が悪かったサヅは間もなく死んでしまった。

ウェントワースはこの事件に食い付いた。ダーリンの判決の非合法性を攻撃し、これを「殺人、少なくとも残虐行為」と非難して、民主的な陪審裁判性と立法議会の設立を要求した。新聞がこれに呼応し民衆もウェントワースに付いた。

ダーリン総督も負けずに新聞報道を規制しようとしたが、裁判所が反対した。そこでウェントワースや新聞を名誉毀損(きそん)で訴え、裁判所は他の仕事ができない程の大騒ぎとなった。

ダーリン総督の英国召喚

裁判は数年間続いたが決着はしなかった。しかし1829年にはウェントワースの要求に沿って陪審制は一部改善され、立法議会のアイデアも人びとに定着していった。そして1831年ダーリン総督は本国に召還され、ウェントワースは英雄となった。

ダーリンが船出を待ってシドニー港で過ごした夜、ウェントワースの住んでいるボークルーズ・ハウスには4,000人以上の人びとが集まった。大きなかがり火がたかれ、多数の小さなオイル・ランプでアレンジされた「キングに対する忠誠、総督に対する不信」という火文字が、噴水の水に映えて踊った。ウェントワースは牡牛を屠(はふ)り、丸焼きの羊と大だるの酒でその夜を祝った。彼の行くところ拍手と歓声が巻き起こり、人びとは勝利の美酒に酔いしれた。

それから

この事件が終わったころから時代は変わってきている。簡単に言えば高級官僚や軍人を中心とする特権階級の影が薄くなり、元流刑囚を含めたスクォーターと呼ばれる大地主たちが特権階級を形成していく。ウェントワースは好むと好まざるとにかかわらずこの中心人物となり、欧州からの貧しい自由移民に対して自分たちの既得権を守らざるを得なくなった。

ボークルーズの宴の夜を最後にして、ウェントワースが再び自由民権の騎手となることはなかったと言われる。しかしその後、英国政府との長い折衝の末1851年に制定された豪州国憲法は、自分たちスクォーター階級のためのものと言う批判はあるが、やはり彼が若い時から一貫して追求した豪州自治の礎となったことは争えまい。

ウェントワースは1872年に英国で亡くなった。81歳であった。彼の希望で遺骸はシドニーに運ばれ盛大な葬儀の後、ボークルーズに葬られた。

ボークルーズ・ハウスに近いチャペル・ストリートに木立に囲まれた小さな教会がある。教会の中の岩の床の上に1つだけ古い柩が置いてある。晴れた日の朝には彼の愛したシドニーの美しい陽光がステンド・グラスを通して柩の上に躍っている。

この中にこの国の最初の偉大な愛国者が眠っている。

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