【特別寄稿】オーストラリア滞在回顧録「日豪交流、今昔の感」Part2

©Naoto Ijichi

特別寄稿

オーストラリア滞在回顧録
「日豪交流、今昔の感」Part 2

近年、ますます互いに重要度を増す日豪両国だが、その関係性も時代によってさまざまな姿に形を変えてきた。本特集では、かつてオーストラリアに滞在し、重要な役割を担った方々より「日豪交流、今昔の感」と題しいただいた特別寄稿文、Part 2をお届けする。(コーディネート=根本ミネ子)

シドニーは我が第二の故郷

加藤重信(かとうしげのぶ)プロフィル◎1968年外務省入省。シドニー総領事、在トリニダード・トバゴ特命全権大使、在ヨルダン特命全権大使など歴任

私は、外務省在職中、9回の海外勤務で計23年あまりにわたる海外生活を経験いたしましたが、特にシドニーには1991年から94年までの3年間をシドニー総領事館の首席領事として、また2001年から03年までの約2年半を同じオフィスで総領事として在勤する幸運に恵まれました。

この間多くのオーストラリアの人々、長く在住され経験豊かな多くの在留邦人の皆様のご支援やご助力のおかげで、日々友情に包まれて、誠に快適な生活を送らせて頂きました。そして、シドニーは我が第二の故郷となりました。

シドニーを離れて、引き続き2回にわたり他の任地へ異動して約8年ほど前に退官しましたが、その後も折に触れ「日豪プレス」のウェブサイトなどを通じて、オーストラリアが良き伝統と美しい自然景観などを守りつつ、新たなる時代に向けてさまざまな分野にて果敢に取り組んでおられることや日豪の友好親善の関係が一層大きく花開いている様子を伺い、いつも嬉しく思っております。

日本とオーストラリアの結びつきは、明治維新前後から長きにわたります。第二次大戦前後の一時期には、個々の人々の思いと離れて筆舌に尽くしがたい難しい時代もありましたが、長きにわたる先人の労苦と尽力のおかげで、今や他の諸外国との関係と比較しても一段と緊密で強力なものになっております。これは両国の関係発展にかかわってきた人々の成果ではありますが、何よりも草の根レベルにおける長年にわたる日本人と豪州人の1人ひとりの努力によって友好と信頼の絆を強めつつ、その輪を広げてきたことによるものであります。

私は、シドニーでの生活を通じて、日本クラブ、日本人会、商工会議所、日豪協会、日本人学校、ジェット・プログラムなどの皆様との交流をはじめ、毎年の行事としての日本語教育とスピーチ・コンテスト、ジャンブル・セール、クッタバル海軍基地でのシドニー湾攻撃戦没慰霊式典と特殊潜航艇への献花、カウラ「桜祭り」と日豪戦没者墓地での献花など式典、各種スポーツや文化・学術行事への参加、NSW州内の諸都市や北部準州への訪問などなど、忘れがたきことが沢山あります。

こうした中で、今から100年ほど前の日豪の友情の端緒とその後について、人知れず埋もれてしまうかも知れない歴史の一端として2点だけ書き記しておきたいと思います。

1.「A friend in need is a friend indeed(まさかの時の友が真の友)」

2002年5月7日に小泉総理(当時)がシドニーにて、アジア協会主催の夕食会で「創造的パートナーシップに向けて」と題して演説され、その冒頭で次のことを述べられました。「日豪両国は長い協力の歴史を持っています。象徴的な出来事を1つ紹介したいと思います。今から90年前に、白瀬中尉率いるわが国として初めての南極探検隊が南極大陸上陸に失敗し、再挑戦のためにシドニーに滞在しました。資金難などに苦しんでいた探検隊を豪州の方々は物心両面で支えてくれたのです。その87年後、氷海に閉じこめられた豪州の「オーロラ・オーストラリス」号を救出したのは、白瀬中尉の名前をとった砕氷艦「しらせ」でした。お互いが苦境にある時に助け合うことが両国の伝統なのだと思います。

両国は風土も歴史も異なりますが、多くの点で価値観と利益を共有しており、そのことがこれまでの協力の基礎になってきています。我々は友人です。そして、我々は一層親しい友人になるべきだと思います」

日豪プレス2002年4月号。同様の記事は、2002年3月28日付け読売新聞でも小さく報じられました。
日豪プレス2002年4月号。同様の記事は、2002年3月28日付け読売新聞でも小さく報じられました。
WENTWORTH COURTER Wed, 3 April. 2002
WENTWORTH COURTER Wed, 3 April. 2002

この演説の少し前の3月28日に、シドニー東部のパースレイ湾の公園の一角に、白瀬中尉一行による南極探検隊の最南端到達90年を機に、日豪友好の記念碑の除幕式が行われました。この記念碑には、中尉の出身地である秋田県金浦町の佐々木松美町長とウラーラ市のジョン・コミーノ市長の連名で、「日本とオーストラリアの友情を記念し、両国の永遠の友好の証として、この記念銘板を設置いたします」と記されています。私もこの式典に参列しましたが、当時の日豪プレスにも報じられているように、除幕式が行われる中、シドニー寄港を終えて帰路に就く「しらせ」が汽笛を鳴らしながらパースレイ湾を通り過ぎました。今でも、この汽笛が過去の友情を想起し、引続き日豪の永遠の友好に努力するようにとの呼びかけであったように思えてなりませんでした。

南極における日豪の友情は、前記の1998年12月に、氷海でプロペラの故障が発生し、自力で動くことができなくなったオーストラリアの砕氷船オーロラ・オーストラリス号を救出の以前にもありました。

85年12月に氷海に閉じ込められたオーストラリアの砕氷船ネラ・ダン号を救出し、また、最近では16年2月24日、モーソン基地に補給物資を届けるために湾内に停泊中だったオーロラ・オーストラリス号が風速50メートルに達するブリザードに見舞われ、座礁する事故が起きた際も、「しらせ」は3月6日にモーソン基地沖に到着、オーストラリア隊の観測隊員・乗組員66人と物資を「しらせ」に輸送。最後にヘリコプター3機も「しらせ」に収容した上、約2,300キロ離れたオーストラリアのケーシー基地に向かい、3月12日に同基地沖に到着の上、観測隊員・乗組員とヘリコプター3機の輸送を無事に終えるという救出を遂げました。

他方、日本側も初代「しらせ」から2代目「しらせ」への移行期に砕氷艦を運行できない期間が1年間生じたために、第50次南極観測隊はオーロラ・オーストラリス号を08年12月から09年2月までチャーターし、昭和基地への人員・物資輸送を担当してもらうということもありました。また、毎年の往路のフリーマントルと帰路のシドニーでの寄港に際して支援を頂いていることも忘れることはできません。

南極観測をめぐる友情は変わらず続いており、今後も厳しい自然環境の下で展開される南極観測に当たっては、お互いに同様の事態が発生することもあり得ますが、南極観測に限らず「困った時にはお互い様」との互助の精神は、日豪共に変わることないバックボーンとなっています。

まさに“a friend in need is a friend in deed”の言葉のとおりですが、“a mate in need is a mate indeed”といった方が適切かもしれません。

シドニー在住の皆様や同地へ旅行される方々には、お時間が許せば、特に学生やお子様と共にパースレイ湾の公園にお訪ね頂き日豪友好の証を見て頂ければ幸いです。また、白瀬中尉はお世話になったシドニー大学のディビッド教授に感謝の印として寄贈した愛刀がオーストラリア博物館に陳列されておりますので、併せてご覧願えればと思います。

また、16年の救援の模様については、公益財団法人日本極地研究会のウェブサイト(http://kyokuchi.or.jp/?page_id=3741)のほか16年3月25日付「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙「A century later, Shirase returns to Sydney a hero after rescuing 66 Australians」で詳しく紹介されています。

参考ウェブサイト
Professor Edgeworth David and the Shirase Expedition
URL: https://australianmuseum.net.au/professor-edgeworth-david-and-the-shirase-expedition
Our Global Neighbours: The sword of David
URL: https://australianmuseum.net.au/blogpost/science/our-global-neighbours-the-sword-of-david

2.ブルーマウンテンと吉野桜

豪州では、春から夏(9月から4月)にかけて花の季節で、桜の花もさまざまな場所で楽しませてくれます。世界遺産のブルーマウンテンは花の都でもありますが、ここに咲いたソメイヨシノと日豪友情の一端についてご紹介したいと思います。

1916年、ウッドフォード在住の北村寅之助氏は、日本から吉野桜を輸入し、ローソン市のストラットフォード女学校に寄贈しました。これは、同氏の3人の令嬢が同校で高い教育を受けたお礼として寄贈されたものでした。北村寅之助氏は、「日豪貿易の先駆者」たる兼松房次郎氏の大番頭として仕え、1890年には兼松商店のシドニー豪州会社の第二代社長となって活躍されていたころでした(ストラットフォード女学校の歴史は次のウェブサイトに詳しく記されておりますが、その一部にこの吉野桜と同校との歴史が記述されています。(URL: bmlocalstudies.blogspot.jp/2009/04/stratford-girls-school-lawson.html)。

その後、時は流れて、同校はウエスタン・ハイウエー建設のため移転し、61年には同地域の教育環境の変遷もあって閉校しましたが、この吉野桜は樹齢を重ねて80年後の2002年に至るまで咲き続けました。

ところが、このハイウエーの拡幅工事のため、伐採せざるを得なくなりました。私は、2002年の5月ごろ、工事を所管する州道路交通局(RTA)よりこの伐採の話を聞き及び、何とかこの記念すべき吉野桜の延命のため各方面と相談したのですが、原木自体の移植は経済的にも樹木の状況からも無理であることが判明しました。やむなく接ぎ木等によりそのDNAを保存し、将来この地でさらに吉野桜が咲き誇る姿が見られればと思い、RTAの協力を求めましたところ、RTAや地元の皆さんのご理解を得て、この古木から約100株ほど株分けをして保存・移植に努力して頂きました。

当時、北村房之介氏の功績をよく知るストラットフォード女学校の卒業生のキャスリーン・フックさんの呼びかけにより、02年9月7日に伐採前の吉野桜の下で、お別れの会が開かれました。この集まりには、エンジェル・ブルーマウンテン市長、地元出身のデイバス州法務大臣、宮下シドニー日本クラブ会長、刑部シドニー日本人会会長、白石豪州兼松会長、そして北村寅之助氏のお孫さんのトーレンス北村ご夫妻やストラットフォード女学校の卒業生などの皆さんが参加されました。

2006年9月にシドニー総領事公邸に咲いた吉野桜
2006年9月にシドニー総領事公邸に咲いた吉野桜

近所のエマニュエル教会で、この桜の木にまつわるお話と日豪の友好と親善について関係者の間で挨拶が交わされ、私も「日豪の親善に尽くしたこの吉野桜の原木自体は使命を終えても、その子孫が世界遺産のブルーマウンテンにて吉野桜の花を咲かせて新たな日豪友好の出発となるよう祈念したい」旨述べた記憶があります。そして、この吉野桜の下で懇親会が開かれましたが、その模様は日本でもフジTV系列のTSSTVや日豪プレスの10月号にて報道されました。

私は03年にシドニーを離れましたが、その後ブルーマウンテンの吉野桜の苗木は、トーレンス・北村さん(兼松財団理事長)やRTAの方々の努力が実り、そのうちの一株が05年にシドニーの総領事公邸の庭にも植えられ、これが06年9月には見事に花を咲かせたとの知らせを頂きました。今後、この吉野桜がブルーマウンテンで咲きほこり、日豪の友好の輪が広がることを楽しみにしています。

兼松房次郎氏が果たした功績は、日豪貿易の先駆者としての活躍はもとより、その意向と北村翁などの後継者によって、巨費を投じた33年の兼松記念病理学研究所の寄贈など、日系企業の社会貢献の草分けとしても高く評価されていることで有名ですが、最近では日豪プレスの2010年10月号から3回にわたり「日豪貿易のあけぼの」題して詳しく報じられています(URL: nichigopress.jp/interview/kanematsu/3615)。

終わりに

日豪両国は、国の成り立ちから自然環境など大きな違いがありますが、現在の国際環境において、先進民主主義国として基本的な価値観と利益を共有しており、特に変貌著しいアジア太平洋の経済的発展と安全保障環境において、共に手を携えてそれぞれの国と地域の安全と経済的繁栄を築いて行かなければならない関係にあります。

日本の近代化は、ある意味で「和魂洋才」から真価を発揮してきたところ、少し乱暴な言い方をすれば、豪州は西欧起源ながら「洋魂亜才」への理解を深めつつ立ち位置を変えながら、日本とは全く逆の方向から近代化を成し遂げてきたとも言えますが、今や両国ともあらゆる場面において追求すべきところは基本的に共通しているといえましょう。

今後のアジア太平洋は、経済的ダイナミズムが展望される一方、新興国の経済的躍進がややもすればこの地域を「覇権争いの場」となることも懸念され、その意味で日豪は他の先進民主主義国に共通する秩序や利益を踏まえた関与を求めつつ、公正で説得力のある次代への構想力を共に探求し、積極的に諸国を誘導していくことが期待されます。

今日の国際情勢は、100年に一度とも言えるような地殻変動の時代が到来し、国際政治の行方は今までになく不透明感があるところ、長きにわたって培われてきた日豪の友情を、あらためて想起しつつ、日豪の一層の協力の下で世界の秩序が安定に向かうよう願ってやみません。

シドニーの思い出

根本ミネ子(ねもとみねこ)プロフィル◎在東京オーストラリア大使館、豪州三井物産勤務を経て独立。1980年~2008年までシドニーで過ごした。2010年にはフォーク・アート作家として、東京銀座で個展「独創的なフォーク・アートの世界」を開催。11年~12年にはJANZ (Japan Australia New Zealand)Ladies’ Groupのプレジデントを務めた

28年間居住した第二の故郷、それはシドニーです。1980年から2008年まで、シドニーで生活者・勤務者として居住した長きにわたる生活の中で、忘れられない出来事が数々あります。

来豪前は、東京のオーストラリア大使館で7年間査証発行の仕事をしておりました。当時はすべての査証(観光、ビジネス、短期、長期、学生、移民・永住、特殊:外交官や芸術家など)において、インタビューや書類審査に時間がかかり、受付には長蛇の列。その上、75年にオーストラリア領から独立したパプア・ニューギニアのビザも発行していました。

またこの頃、オーストラリアでは授業料が無料で外国からの留学生にも適用され(85年、連邦政府は留学生から教育に要する費用の全額を徴収する事にしました。留学生が負担する授業料は自国学生の4倍以上とも言われました)、留学生ビザ取得には、まず大使館での語学テストを受けなければならず、一定の語学力に達しない場合、条件付き(例えば3カ月、6カ月、12カ月の語学学校で英語力を付けてから希望の大学などへ行ける)で学生ビザも発行しました。

80年にワーキングホリデー・ビザ制度発足。オーストラリアで休暇やボランティア活動も含め働くことも認められているビザだ。年齢が18歳から30歳までと制限されていて期間は1年間(05年11月1日より、ワーキングホリデー・ビザでオーストラリアに滞在中、3カ月以上オーストラリアの地方地域にて、季節労働に従事した人であれば、2度目のワーキングホリデー・ビザを申請することが可能に。また、4カ月間語学学校に通うことも可能)で、日本よりオーストラリアへ行く若者が増えていきました。

80年、シドニーにある日系商社の本店で、勤務者としての生活がスタートしました。当時ストライキが頻繁に起こり、例えば近所のスーパーマーケットに食料品を買いに行くと、棚に品物がなくレジ係に聞くと今週は配達係のストライキで配達されないとのこと。また今週はパンを焼く人たちのストライキでパンがないということも。

当時オーストラリアの多くのスーパーマーケットや個人の店は、土曜日は正午で閉店、日曜日は1日中閉店でした。ただし木曜日はレイト・ナイト・ショッピング・デーで、夜9時まで買い物ができました。職種ごとに組合があり、1つの組合がストライキによって要求分を勝ち取ると、今度は我々もと横つながりにストライキを決行していました。一番大変だったのはガソリンのストライキ。ナンバープレートの末尾が偶数車は当日、奇数車は明日などと決められ、朝早くから並んでも10リットルしか入れてもらえず、仕事で車を使う人や遠出を予定している人たちはほとほと困っていました。

その時、たまたま日本から知人が来ていて、ブルーマウンテンまでドライブを予定していたのですが、当然10リットルでは間に合わず、短い滞在期間だったので、駄目もとで泣き落とし戦術に出ました。「日本から観光で来ていますが、滞在期間が短くどうしてもブルーマウンテンまで今日ドライブしなくてはなりません。もし10リットルしか入れてもらえなければ、オーストラリアの印象が悪くなるでしょう」と言ったら、満タンに入れてくれました。オーストラリア人の懐の深さに頭が下がる思いでしたが、その反面ルールを犯した自分の言動を反省致しました。

忘れられないもう1つの出来事は、観光産業が大きな打撃を受けた89年の3カ月間にわたる国内線パイロットのストライキです。豪州政府が断固として要求を受け入れませんでした。あの広大なオーストラリアで飛行機が飛ばないとなると!!

ビジネスマン達は例えばシドニー・メルボルン間は夜行列車、また、シドニー・パース間は一度ニュージーランドへ国際線で飛び、そこから再び国際線でパースへ入国しました。既に国内線の全ての飛行機は禁煙になっていたので、喫煙者の中にはむしろ国際線でニュージーランドへ行き、再び国際線でパースへ行く方法を選んだ人もいました。これによりその後のストライキは減りました。

シドニー中心街とノースシドニーを結ぶ側径管全長1,149メートル、アーチ形は幅502メートル、幅48.8メートル、高さ134メートル、英国の会社が建設を請け負い32年に完成したシドニー・ハーバー・ブリッジは、当時通行料は20セント、市内に入る時だけ通行料を払い、市内を出る時は不要。料金所で20セントコインを投げ入れると、前方のバーが開くというものでした。そのコインが壁などにぶつかり、跳ね返って地面に落ちたら、車から降りてそのコインを探し再び投げ入れます。

朝のラッシュアワーでも後続車はじっと待っています。気短な私は待つのが嫌なのと後続車に迷惑をかけないよう、別の20セントコインを投げ入れていました。

朝晩の通勤ラッシュ時は公共性のある乗り物、例えばバスなどが優先的に走れるバスレーンがあり、バス以外でも乗用車が運転手以外に2人乗車していると、公共性があると見なされ通行できました。これはなるべく市内への車の乗り入れを少なくする方策ですが、面白い事にバス停にはバスを待つ人の列と、乗用車に乗せてもらう列が出来ました。車の所有者は乗せてあげた人が20セント払ってくれるのを期待して……。

ハーバー・ブリッジの中ほどにある高さ88メートルのパイロン塔の200段の階段を登りつめた頂上は、シドニーの美しい街並みや、ハーバーの壮大な景観を一望できます。週末などハーバー・ブリッジを歩いて渡り、途中パイロン塔から見た夕闇迫るオペラハウスや、ジャカランダの薄紫にけむる夕暮れ時の景観は、今でも忘れられません。

81年の夏に英国のチャールズ皇太子とダイアナ嬢の結婚式があり、私は夜間のテクニカル・カレッジで、秘書・ビジネス・コミュニケーションを受講していました。

授業料は無料なので必要なテキストを購入。初めての授業日に2クラスに分けられ(1クラス50~60人)、私のクラスの担任はヘッド・テイーチャーで大変厳しい先生でした。結婚式のテレビ放映の日は、驚いたことに私以外の生徒は全員欠席!!

教室には先生と私のみ。その先生が私に「今日の授業は休みにしましょう。ただしあなたは出席したことにします」とおっしゃいました。「ああ~、先生もテレビを見たいのだな~」と思いました。

授業では大変厳しく、勉強は家でやっていらっしゃい、学校では試験と宿題の分からなかった部分の質問や、重要事項の説明だけをしますとのこと。授業を無断で2回休むと退学になってしまうとのこと。授業は大変厳しかったのですが、一度も休まず出席致しました。

無事1年が終わり、最後に残った生徒は2クラス合わせて10数人でした。授業が厳しかったのと授業料が無料なので、また次年度に受講すればとの考えなのでしょうか。最後の日に無事終了できた生徒に、先生より修了証書が渡され、懇親会を行いました。皆が持ち寄って行う会なので、私は巻きずしと焼き鳥を持って参加しました。ナッツやポテトチップスが多く、私の手料理はとても評判が良かったことを思い出しました。

余暇の思い出はたくさんあり、徹夜でマージャンをして、翌日メンバーであるジ・オーストリアン・ゴルフ・クラブで下手なゴルフをして、プレイ後オーストラリア・ワインを飲んで食べておしゃべりして……。またノースサイドのビーチへ、うにを獲りに行きおむすび、醤油、ワサビで獲りたてのウニを堪能しました。たくさん獲れた時は晩酌用に持ち帰りましたが、ウニの殻を金槌で叩き割って中身を取り出すのが大変でした。

往年の映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの名ゼリフ─「昨日の夜はどこにいたの?」「そんな昔のことは覚えていない」「明日はどうするの?」「そんな先のことは分からない」

As Time Goes Byを自分流に解釈すれば「時の経つままに」。認知症にかからないためにも、またかかってもこのセリフを覚えていたい。

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