帰れぬ故郷・浪江町の焼き物を世界に─原発問題を考える㉓

ルポ:シリーズ・原発問題を考える㉓ 拡大版

「帰れぬ故郷・浪江町の焼き物を世界に」

──「日本を突破する100人」にも選出の松永武士さん、3.11来豪

 世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えつつ、自国内には原子力発電所を持たない国オーストラリア。被ばく国であるにもかかわらず、狭い国土に世界第3位の原発数を誇る原発大国・日本。原発を巡る両国のねじれた構造を、オーストラリアに根を張る日系媒体が取り上げないのはそれこそいびつだ。ルポ・シリーズ「原発問題を考える」では、原発を取り巻くさまざまな状況を記者の視点からまとめていく。 取材・文・写真=馬場一哉(編集部)

松永武士◎慶応大学在学中に、国内外にベンチャー企業を立ち上げ成功。25歳という若さで雑誌アエラの「日本を突破する100人」の1人に選ばれた。実家は江戸時代から330年間伝承される福島県浪江町の国指定伝統工芸品「大堀相馬焼き」窯元であり、自身は4代目。大堀相馬焼きの生業があった浪江町は、福島原発から20キロ圏内の帰還困難区域であり、今ではゴーストタウン化している。現在は、地元産業の伝統を守るために、大堀相馬焼きの復興に奮闘している(Photo: Mayu Kataoka、以下すべて同)

今回、被災地支援活動を行っているちょんまげ隊のツノダヒロカズ(ツン隊長)さんのインタビュー後編をお届けする予定だったが、3.11当日のシドニー各所での活動報告が届けられ、またそれに関連したインタビューも取ることができたため急きょ内容を変更してお届けしたい。ツン隊長のインタビューの続きは次号でお送りする予定なのでご容赦いただければ幸いだ。

3月11日前後、震災4周年という節目のタイミングでシドニーをベースに福島県の被災地児童の支援活動を行っているJCSレインボー・ステイ・プロジェクトはシドニー北部エリアのマンリーでの募金活動やシティ西方バルメインにある旅館「豪寿庵」での復興支援イベントなど多くの活動を行った(詳細は後述)。そんな中、10〜14日にかけて福島県浪江町出身で、現在、故郷の大堀相馬焼きのプロモーション、販売をインターナショナルに行い、雑誌『アエラ』(朝日新聞出版)では「日本を突破する100人」にも選出された松永武志氏が来豪した。

10日午前シドニー空港に到着した松永氏は午後には早速、SBS日本語放送のインタビューを受けることとなった。11日には旅館「豪寿庵」での3.11震災復興支援イベントに参加しスピーチを行う。イベントにはNHK、共同通信社など日本のマスメディアも取材に訪れ、その後オーストラリアの国営放送ABCの生放送に出演など松永氏は多忙な1日を過ごした。

12日には現地の名門進学校で講演、また、各所で大堀相馬焼きのワークショップ開催の提案を受けるなどさまざまな足跡を残した。毎年5月にフェアフィールドで開催される「鯉の品評会」でも大堀相馬焼きの展示販売が開催予定だという。

記者は氏の来豪時、日本にいたのだが、帰国後の松永氏に東京で接触することができた。福島第1原発の事故による被害を直接的に被った避難区域出身者として今どのような思いで活動をしているのか。インタビューを敢行した。

「浪江町」を残すためにできること

──松永さんは大学進学とともに浪江町を離れたそうですね。

 

「浪江町では18年間過ごしたのですが、どうしても田舎が好きになれず東京に出たくて仕方がなかったんです。それもあり大学進学とともに東京に出ました」

 

──大学在学中には中国の大連で日本人の観光客や駐在向けにドクターを派遣するクリニックを立ち上げるなど活躍されていたそうですが、そんな活動のさなかに震災が起こり、原発20キロ圏内ということで実家に戻ることができなくなってしまいました。

 

「はい。それまでも地元に帰るつもりはなかったはずなのですが、いきなり失われてしまったことで大きく突き動かされるものがありました。そんな中、自分に何ができるかと深く考えるようになりました。震災復興に向けてということだけではなく、永続的に続けられるものが何かないかなと考えた末に行き着いたのが家業である伝統工芸を世界に広めていくということでした」

 

──二重構造など独特の形状で知られる大堀相馬焼きですね。

 

「そうです。当時たまたま海外にいたこともあり、相馬焼きを世界に発信するということを考え始めました。今後、浪江町という土地自体に帰れなくなってしまったとしても、浪江町の何かを残すことはできるのではないかと考え、ブランド開発、海外展開などいろいろな活動を続けながら現在に至っています」

 

──なるほど。戻れなくなってしまった地元の名産を残したいという気持ちが原動力になったわけですね。ところでオーストラリアに住んでいる読者の多くは故郷を遠く離れていることになるわけですが、地元を離れざるを得なくなっている松永さんの立場として伝えておきたいようなことはありますか。

 

「そうですね…。日本ではこれから人口が減少していって自治体がなくなっていくケースが増えてきます。そのうち、自分の生まれた町がなくなるとか、そういうことも出てくるかもしれません。そうなった場合に備えて自分の育ってきた環境や状況、ルーツなどを記録化しておくといいかもしれないです。僕は原発事故があったからそのようなことの重要性に気付きましたが、その記録はもしかしたら100〜200年後に役立つかもしれませんし、自身のルーツと向き合うことは大きな意味があるかなと思います」

「原発」に対する立ち位置

──究極的に言うと天災が起こること自体は仕方がないこと。しかし、原発被害は人が作ったものです。その後の対応も含め人災に大きく巻き込まれてしまった立場として原発に対し、思うところをお聞かせください。

 

「住んでいた浪江町は原発があったからこそ成り立っていた地域でもあります。同級生も多く原発関連の企業に就職していましたし、そのおかげでレストランやホテルなどをはじめ大きな産業がありました。原発で地域経済が成り立っていたのは事実なのです。正直なところ原発の危険性に対して無関心過ぎたなと思います。また当時地域住民もそれで生活が成り立っている人が圧倒的に多かったので反対意見も言えなかったのではないかと思います」

 

──大きな渦に巻き込まれてしまうとどうしようもない。

 

「はい。多様性を認めづらい雰囲気があったり、少数に対するリスペクトが低く、寛容性が低い。だから飲み込まれてしまう」

 

──大きな流れには抗うことができないと。

 

「多数派の逆を言う人は極端な話、悪になりかねない。そういう空気から変えていかないと、今後どんな展開があっても、また同じことが起きる気がします」

 

──おっしゃっている寛容性のなさというのは必ずしも松永さんのいたエリアに限ったことではなく日本という国全体が抱えている問題のような気がします。原発に対して賛成、反対という分かりやすい構図でどちらの立場を取るにせよ。

 

「今度は逆に反対の渦が巻き起こっていますが、どういう方向に進むにしてもいろんな人が意見を言える土壌を作っておかないと全く同じことを繰り返しますし、何も変わりません。たとえ100年、200年後に向けて原発に代わるエネルギーが登場してもほころびが起きてしまう気がします」

 

──そういった構造に対して苦言を唱える人もいます。しかし、それがマジョリティにはなかなかなり得ないということですね。

 

「難しいですね。日本の教育制度の問題などにもなってくるんでしょうけど…。実は今回シドニーに行った際、現地の高校生に向けて講演を行ったんです。その時に、生徒の皆さんが僕の話を全部正面からまっすぐ受け止めてくれたことにびっくりしました。勇気をもらえたという前向きな反応もたくさんいただきましたし、すごくポジティブに受け取ってくれました。日本の学校では過去をリスペクトする傾向が強いですが、オーストラリアでは前に向かうものに強く同調するのだなと感じました。良い悪いということではなく教育の違いというものを感じました。来年の教材に僕のプレゼン資料を使おうという話も出ていて、すごいなと」

 

──高校生たちにどのようなメッセージを託しましたか。

 

「非常に優秀な学校の子たちということもあって、将来に向けての話を聞くと医者や弁護士などといった声が少なくなかった。もちそんそれは素晴らしいことなのですが、その能力を社会を変えられる方向に活かしてみるのも良いのではというような提案をしました」

 

──なるほど。ある規定された枠の中でのパフォーマンスを目指すのではなく、より新しい世界を意識すると。

 

「今の時代、既存のものに寄っていても前に進みません。創造して新しいものを生み出していく方向でしか経済は発展しませんし、社会の問題も解決していかないですから」

 

──滞在中は、そのほかにも首席領事をはじめ日系コミュニティの方々との懇親会などいろいろな出会いの場があったと聞いています。

 

「はい。自分の思いや自分たちの抱えている問題を多く共有できましたし、こういう機会を今後増やしたいです。世界中にいる日本人と知見を共有したいなと思いました。今、日本を立ち直らせることができるのは客観的に見られる人だと思います。そういう意味では海外にいる人は非常に良い視点を持っているような気がします。もっと積極的にここがダメだとか言って欲しいと思います。そういった意見をどんどん輸出してほしいなと思いますね」

 

──私自身もそうあろうと思います。本日はありがとうございました。

松永氏の講演を受け、後日、生徒たちから感想が届けられたのでここで一部抜粋して紹介しよう。

「今日まで、2011年に起こった天災が日本の文化にどうやって影響したかあまり考えたことがありませんでした。でも、今日、浪江町のことが知ることができて、本当に良かったと思います。浪江町の話は本当に心に響いて、ずっと忘れません。相馬焼も本当にすごくて面白いと思いました。(中略)この伝統を生かすためそんなに一所懸命働けられることは素晴らしいと思って感動しました」(D.Sさん)

「4年前に起きた震災の影響について考えさせられました。原発震災のせいで、福島県に住んでいる人たちはほかの場所に避難しなければならなかったので、今もふるさとに帰れません。今まであまりこの人々の苦しみを考えませんでしたが、松永さんが彼のふるさとの伝統的な柤馬焼を守る意志を知って感動しました。(中略)相馬焼を存続されることはこの伝統を次の世代に伝えるためだけではなく、浪江町の人たちのアイデンティティーとそこで作った思い出と生き方を守るためです」(J.Tさん)

シドニー日系コミュニティの活動

冒頭でもお伝えしたとおり、3月11日前後、震災4周年という節目のタイミングでJCSレインボー・ステイ・プロジェクトはさまざまな活動を行った。プロジェクト代表の平野氏より届いた報告をもとに紹介していこう。

3月7日、同プロジェクトはマンリー・ビーチのプロムナード「コルソ」の野外ステージで、和太鼓りんどうの太鼓パフォーマンスやJCSソーラン踊り隊によるソーラン節、折り紙アーティストによる巨大折り鶴デモンストレーションなどさまざまなイベントを行った。会場周辺では東北被災地工芸品の展示販売も開催。福島県浪江町出身の日本人画家、舛田玲香氏の絵画が完売するなど好評を博したそうだ。震災から4年が過ぎた現在でも、オーストラリア現地の多くの人たちが、寄付をしてくれたことに集まった100人以上の日本人ボランティア・スタッフたちは感激したという。この1日で集まった寄付金は3,000ドル以上にのぼった。

また、11〜15日の5日間、バルメインの旅館・豪寿庵では東北工芸品の展示販売、日本画販売、被災地写真展示、ミニ・スクリーン上映などが開催され、1,000ドル以上の収益金を集めた。3月11日、震災発生時間の午後4時46分(日本時間2時26分)には、同旅館内で浄土真宗本願寺の渡辺重信住職による1分間の黙祷が行われ、全員で手を合わせて合掌。その後、松永武志氏による講演会や同じく浪江町出身の日本画家・舛田玲香氏によるスピーチ。続いて、岩手県大船戸市で英語教師を務めていて被災したオーストラリア人女性のアリス・バイロンさんが、震災当時の状況を報告した。その後、旅館内の日本庭園と池にキャンドルと灯篭を灯し、犠牲者の追悼を行ったという。

さらに15日には、クロウズ・ネストにある「ガイアハウス」で、セラピー、カウンセラー、ヒーラーの人々が集結し、義援金協力のためのセッションを終日開催。1,200ドルほどの義援金が集まった。プロジェクト代表の平野氏は今年の活動をこう振り返る。

「当初考えていた何倍もの多くの人たちの協力があり、収益があり、反響があり、感動があり、自分でも本当に驚いています。震災から4年が過ぎ、一部の被災地では復興も進み、震災が風化されてきているとも言えますが、4年が経つからこそ起きている問題はたくさんあります。そんな中、今回のイベントでは、遠い南半球からまだたくさんの人たちが震災支援を継続している事実を伝えられたかと思います。今後もこの支援がさらに継続されるよう、できる限りの活動を続けていきたいと考えています」

震災後、5年目という状況にいよいよ突入した。本紙でも引き続きさまざまな観点から取材を続け、海外の日本語媒体だからこそできる情報を掲載し続けていきたいと思う。


折り紙アーティストMIDORI FURZEさん作成のジャンボ鶴

30人以上が在籍する日本人合唱団「さくら合唱団」によるコーラスも行われた

和太鼓りんどうの太鼓パフォーマンスも注目を集めた

数多くの人々が被災地に向けてメッセージを書いてくれた

弾き語りシンガーの田中誠氏も、持ち歌を披露

2人組女性デュオの「QP★ハニー!」も登場

バルメインにある和風旅館「豪寿庵」では宮廷音楽の雅楽演奏、日本舞踏などさまざまな催し物が開催された


訪れた多くの人々が被災地へのメッセージを記入した

書家れん氏は東北に向けたメッセージを書にした

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