第1回 日豪貿易のあけぼの

日豪貿易120年
創業当時の兼松房治郎(44歳)

集中連載 日豪貿易120年

日豪貿易のパイオニア、兼松房治郎

ー我れ、国家に裨益せんと欲すー

第1回 日豪貿易のあけぼの

寄稿=曾野豪夫
 日豪間の経済や文化活動の交流は今日、非常に隆盛を極めており、喜ばしい限りであります。今からちょうど120年前の明治時代中期に、シドニーで貿易事業を始めた兼松房治郎(総合商社「兼松」の創業者)をはじめ、多くの先人たちの汗と涙の賜物と言えるでしょう。これを機会に3回にわたって、あまり知られていない兼松房治郎の当時の軌跡について振り返ってみたいと思います。

II シドニー支店を開設 II
 120年前の明治23年(1890年)1月14日、44歳の兼松房治郎(1845?1913)と24歳の北村寅之助(1866?1930)は、汽船サイナン号で神戸港を出帆、2月17日にシドニー港に着いた。2人はまず下宿先を決め、早速適当な事務所選びに入った。人生50年と言われた時代に、44歳で豪州との貿易に大きな一歩を踏み出した兼松。彼の生き方は、日本の未来を見据えた挑戦の連続だった。
 この訪豪3年前の明治20年、兼松は大阪日報を買収(翌年大阪毎日新聞と改名)。社主兼主幹でありながらその事業を友人に託して、単身自費で半年間、シドニーとメルボルンなどに赴き、ビジネスの可能性の調査を行い、翌21年に帰国した。さらに翌22年、大阪毎日新聞社を本山彦一氏に譲渡。神戸市栄町5丁目で「濠洲貿易兼松房治郎商店」の看板を掲げた8月15日から、わずか半年後のことであった。
 さて、豪州上陸2カ月後の4月10日、兼松はクラレンス通り99番地に支店登記をした。

日豪貿易120年
1890年(明治23年)4月、兼松商店初の支店となったシドニー支店の前で兼松房治郎(左)と北村寅之助ら。ビル1階の事務所の窓には「F. Kanematsu Importers of Japanese Goods」の文字が見える

II 商館貿易 II
 兼松は、日本で仕入れて持参した繊維類、陶器・漆器・竹器などの東洋趣味の雑貨、マッチなどの商品を販売して現地での運転資金としながら、日本製各種製品の販売調査活動に入った。
 一方、日本で買い付け注文を受けていた洗い上げ羊毛(scoured wool)187俵、牛皮321枚、牛脂29樽などを、5月22日にシドニー港から積み出した。
 この羊毛こそが、日豪の羊毛通商史上に記録として残る、日本人自らの手で買い付けされて日本に直輸出された最初の荷口である。
 当時、日本の輸出入の9割は商館貿易(居留地貿易)によるものであった。すなわち、安政の欧米列強諸国との和親条約による開港地である函館、横浜、神戸、長崎および新潟などの居留地に事務所を持つ、欧米清各国商館(イリス、デント、ジャーデン・マディソン、ハンター商会など)を訪ねて、商品を「売らせていただく」「買わせていただく」というような情けない状態だった。日本人が欧米人と直接に売買交渉することは難しく、買弁という清国人の番頭(仲介者兼通訳)を通じて交渉せざるを得ない状況であった。
 イギリス商人はオーストラリアの原毛(greasy wool)をいったん英国のリヴァプール港に輸送し、ブラッドフォードで脂分や土砂を洗浄して加工度を上げた洗い上げ羊毛として、日本に回送して多大の利益を得ていた。
 明治維新後の日本では、役人や軍人、警察官、教職員、鉄道員、郵便局員などの制服用や、一般の背広用に、毛織物の需要が急増しつつあったのである。

II 「兼松君、狂せり!」 II

日豪貿易120年
兼松の最初の羊毛インボイス(1890年)

 兼松はその羊毛を、日本人の手によってオーストラリアで買い付けて、日本向けに直接輸送したい、と考えた。北村を伴ってシドニーに赴いた前年、神戸で会社を設立した兼松は趣意書に、
“向来我が国の福利を増進するの分子を茲に播種栽培す…幸いに此業にして果たして隆盛を見るに至らば独り我々の利益なる而己(しかのみ)ならず或いは国家に裨益(ひえき)する事なしとせず”
 と高らかに謳い上げた。
 大阪での社会的地位も名誉も、そして約束された安泰な将来の生活をも捨てて、兼松は神戸とシドニー、メルボルンでの冒険的な貿易事業に飛び込んだのであった。「兼松君、狂せり!」、あるいは「人種偏見に苦しまされるだけだよ」と、彼の友人らは嘆じた。
 兼松は20歳代の一時期はともかく商売の経験はなく、北村も4年間ほど香港で清国人との取引をしていただけなので、国際貿易の実務には疎く、2人は右往左往する毎日だった。もちろん英語が堪能だったわけでもなかったのだ。
II 商売人として信用を得る II
 兼松の前にシドニーやメルボルンに渡った幾人かの日本商人もいた。彼らに対するのと同様の侮蔑の目を持って兼松を見ていたオーストラリア人は、しかし兼松と北村の誠実な営業ぶりに接し、2人を信用するようになり、徐々に輸出入取引の実績が得られるようになった。
 それ以来120年、読者の皆さんの善意も相まって、今日の友好的な日豪関係が築かれてきたのである。
(次号に続く)

付記

日豪貿易120年

 私事ながら筆者の父近一は、短期間のメルボルン勤めのほかは、主として濠洲兼松シドニー本店に昭和2年(1927年)から16年(1941年)12月の開戦時まで勤務(5年から7年まで神戸本店勤務の期間を除く)。翌年10月日英交換船で帰国した。
 筆者の名前は豪州生れであることから名付けられた(戦争前の昔のお話しです)。筆者も兼松に勤務したが、残念ながらオーストラリア駐在はなかった。しかし、定年直前の満55歳の時に初代オーストラリア連邦政府駐日投資促進顧問として5年間あまり在京大使館に勤務した(1988?1993年)。
 2000年シドニー・オリンピックの年に『写真で語る日豪史 昭和戦前編(昭和2?17年)』を出版したが、それは日豪プレスに50回にわたって連載した記事が基になったものである(関心がおありの方は sonotakeo395-1453@iris.eonet.ne.jpまで)。
 今年2010年半ばから娘婿の勤務の関係で、娘一家がメルボルンに住んでいる。娘も兼松東京本社に勤務していたことがあり、会社として初めての直系3代勤務であった。我が家のオーストラリアとの関係も4代80年を越えることになった。
(※本稿は本年8月神戸大学凌霜午餐会でのスピーチ原稿をアレンジしました。出典は最終号に記載します。)

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る