最終回 世界の羊毛商に…

日豪貿易120年
明治38年、還暦の兼松房治郎。シドニーTalma写真館にて

集中連載 日豪貿易120年

日豪貿易のパイオニア、兼松房治郎

ー我れ、国家に裨益せんと欲すー

最終回 世界の羊毛商に…
寄稿=曾野豪夫

II シドニーで営業開始 II                        
 兼松がシドニーにおいて営業を開始したのは120年前の明治23年(1890)であった。その前年、神戸で「日濠貿易兼松房治郎商店」を設立した時の資本金は3万円だった。まず兼松はすべての役職を辞し、中之島の邸宅(今の日本銀行大阪支店西側)および玉江町の土地1,800坪と倉庫、有価証券などを現金化して資金1万円(今なら1?2億円)を投じた。
 住友家は廣瀬宰平名義で1万円、三井家は西邑虎四郎を通じて5,000円、藤田組藤田鹿太郎および藤本清兵衛は各2,500円と、それぞれ出資の約束をした。
その後1892年には、シドニーの支店を8 O’Connell Street に移し、1920年に入札によりこの建物を購入して、1965年まで濠洲兼松本社ビルとして使用した。

日豪貿易120年
昭和8年のシドニー羊毛競売場(Royal Wool Exchange)。
前列中央の○印が兼松(前年度買い付け1位の業者の席)

II 羊毛取り扱いで世界の首位に II
日豪間の輸出入貿易は順調に進んだかに見えたが、明治26年、オーストラリアで兼松は大恐慌に遭遇した。また34年、日本の恐慌にも翻弄された。しかし倒産寸前の苦しい時代を経ながらも、兼松の日豪間の各種輸出入商品の取引は年を追って増加していった。
 そして兼松は日本の独占的羊毛商として、明治末期には輸入シェア65%と圧倒的に優位な一時代を謳歌したのだった。すなわち、主たるオークション市場であるシドニーにおける兼松の羊毛落札俵数は、ヨーロッパ、アメリカのバイヤーに伍して、明治30年代に30位前後、40年代に20位以内、大正時代には堂々10位に躍進した。(筆者の父は大正11年兼松に入社した。)
 昭和初期には、日本のオーストラリアでの羊毛の買い付け量は、英国に次ぐ第2位となり、濠洲兼松は全世界の羊毛買い付け商の首位に迫るに至った。
戦後も兼松(株)は、日本の羊毛輸入同業者10数社中、シェア2割を超えて長年首位を保った。

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8 O’Connell Street, Sydneyの本店ビル。明治24年から昭和40年まで使用した

 一方、明治時代、兼松は粗悪な日本製タオルの輸出を恥じ、欧米タオルの見本数百種を取り寄せ、ドイツ製タオル製造機を輸入してメーカーに貸与し、その製品を輸出した。
 大正に入って創業者亡き後、後継者は貝塚において輸出用タオル製造会社を設立し、世界各国に良質のタオルを大量に輸出した。
II シドニー港のような大神戸港を II
兼松は政府に対してシドニーに領事館の早期設置を陳情したり(開設明治30年)、羊毛関税撤廃、肥料関税撤廃運動などを率先して行い、成功に導いた。
 さらにシドニー、メルボルン、ボンベイ各港のハーバー・トラスト法を翻訳出版して政府要路に配り、神戸港を立派な港にしたいと奔走した。例えば、県市の動きが鈍いため、書類を携えて単身上京し、東京の友人と井上馨伯爵(内務、農商務、大蔵大臣など歴任)の邸宅で、神戸税関拡張問題、築港問題に関して午前11時より午後5時まで6時間談論討議をして予算獲得に大いに貢献した。
昨今、石原都知事がポート・オーソリティーを、前原前国交大臣がコンテナ・ハイパー中枢港湾を目指しているが、これらの大筋は100年前に兼松が提唱していたことである。
II 嘉納治五郎 II

日豪貿易120年
シドニー病院兼松記念病理学研究所。昭和8年竣工

 ある日兼松は、東京高等師範学校の嘉納校長の訪問を受けた。「ある青年が、将来貿易により国家に貢献したいので海外で実務を体験したい、と言ってきた。東京で教育関係者と相談したが衆議一決神戸の兼松がよかろう、となった。自分の縁者のこの青年を預かり、鍛錬していただけないか」。 兼松は無上の光栄なりと感激した。
 しかし、折り悪しく大不況のため経営の浮沈に関わる危機的な状態だったので、どうしてもこれを受けることができなかった。兼松がいかに東京でも、一級の貿易人としてその名を馳せていたかが分かるエピソードである。
II 渡豪8回 II
日豪間の貿易を発展させるため、兼松は神戸からしばしば上京して、日本郵船の吉川泰治郎社長に豪州航路の開設を、また横浜正金銀行の園田孝吉頭取にはシドニー支店の開設を直訴した。
兼松は東京の帝国劇場の向こうをはって、神戸にオーストラリア式の凝った設計の劇場を造りたかった。帝劇のようにはできなかったが、神戸の「聚楽館」はその名残りである。
明治期に日本の貿易人でこのように外国に何回も渡航し、長期間滞在して交易を行い、帰国してその実情を政治家に、あるいは一般に報知し、さらには国運発展のために奔走した人士を寡聞にして筆者は知らない。
兼松は地元官民から衆議院議員への立候補を要請されたが固辞し続けた。また知事より叙勲の申請を幾度も申し渡されたが、聞き流していた。結局、病臥中に家族が本人に無断で書類を提出し、貿易功労者として勲六等に叙せられた。
日露戦争の終わった明治38年(1905)、兼松は最後の渡豪を行った。
大正2年(1913)神戸で永眠。享年68。日豪貿易に尽くすこと25年、人呼んで「兼松濠洲翁」。

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兼松神戸本店「濠洲館」。明治44年竣工。国の登録有形文化財(建築物)。兼松自らが構想設計を行った。丁稚房公ですら献身すればかかる建物が建てられることを示し、後進の奮起を促した

II 後継者によるメセナ II
もと丁稚の「房公」は、常々「儲けはカスである。余ったら公共のために寄付をするべきである」と言っていた。そして、兼松は少しでも余裕ができると、公益のため寄付をしていた。多分、オーストラリア人(元来はイギリス人)からPhilanthropyの思想を教わったのだろう。
この兼松の遺志を後継者が引き継いだ。資本金の何分の一かに当たる巨額を、故人の7、13、17回忌に際して、創業者の遺徳を偲んで記念の建造物と研究基金を寄付したのだった。
 神戸大学「兼松記念経済経営研究所」(資本金の1/3)、一橋大学「兼松記念講堂」(同1/9)や、シドニー病院「兼松記念病理学研究所」(濠洲兼松の資本金の1/4)などである。シドニー病院については、明治時代に日本から渡り行き倒れとなった人たちに対するオーストラリア人の博愛精神に対する謝恩の気持ちが含まれていた。
「兼松記念病理学研究所」設立にあたっては、NSW州政府が全取引先のapprovalを取得することを条件として、同額を拠出した。そして戦争中も「Kanematsu」の冠は残された。
この研究所からは1963年にSir John Carew Eccles博士、1970年にSir Bernard Katz博士と2人のノーベル医学生理学賞受賞者を輩出した。1982年に建物は取り壊されたが、シドニー病院の「Kanematsu Memorial Institute」は基礎医学の分野で人類への貢献を続けている。 
(完)


■参考文献
『兼松濠洲翁』 西川文太郎著 神戸新聞社 大正3年(1914)
『兼松回顧60年』兼松株式会社(1950)、『KG100(兼松100周年史)』(1990)
『写真で語る日豪史 昭和戦前編 (昭和2-17年)』曾野豪夫著 六甲出版(2000)
『兼松商店史資料第1・2巻』神戸大学経済経営研究所(2006)
『戦前日豪貿易史の研究 ?兼松商店と三井物産を中心にして』天野雅敏著 勁草書房(2010)

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