日系コミュニティーで活躍ローカル人・インタビュー

Interview ローカル人インタビュー

オーストラリアの日系コミュニティーで活躍するローカル人に話を伺った。

ピーター・ギブソンさん
Peter Gibson

第2回 ビジネスは絆が大切。「お金ありき」は成就しない

1980年代に日本プロテニス協会の認定を受けた初の外国人選手として活躍した後、故郷のシドニーで30年以上にわたってスポーツ関連ビジネスを手掛けてきた。熱狂的な阪神タイガースのファンで、利き酒師の肩書も持ち、オーストラリアの日系コミュニティーに友人も多い。現在、2019年のラグビー・ワールド・カップと2020年の東京オリンピック・パラリンピックを控え、大手会計事務所「プライスウォーターハウスクーパース」(PwC)のエクゼクティブ・アドバイザーとして日豪スポーツ交流に力を注いでいる。(聞き手:守屋太郎)

――幼いころから日本に憧れていたのですか?

シドニー北部で生まれ育ち、今もずっとそこに住んでいます。幼少時代は日本のことは全く知りませんでした。高校はハンターズ・ヒル(シドニー北西郊外)のセント・ジョセフズ・カレッジでの寮生活。テニスの強豪校で、私もテニスの才能があったので、のめり込んでいきました。母校はラグビーも強く、私の中にはラガーマンの血も流れています。

日本に初めて興味を持ったのは、卒業して2年ほど経った時のことでした。そのころ、シドニー北部に住む日本人の駐在員が増えていました。ローズビルでテニスのコーチをしていたのですが、東京マート(シドニー北部ノースブリッジにある老舗の日本食料品店)で「日本語教えます」という張り紙が目に留まりました。それが運命の始まりでした。日本人にテニスを教えるのに話せれば良いと思って日本語を学び始め、日本人とのつながりができ始めたのです。

オーストラリアのプロ・テニス選手は強くなると米国や欧州に行くのが通例ですが、私は正直、そこまでの実力はないと感じていました。それならアジアを目指そうと思い、半ば偶然で日本に渡りました。文化や習慣を何も知らないまま、当日にトーナメントへの出場を申し込んだんです。それ以来、私は初めてお世話になった滋賀県の家族を両親のように慕ってきましたし、京都と横浜にも「家族」がいます。

――阪神ファンになったきっかけは?

一般的なオーストラリア人と同じく、初めは野球のことは全く知りませんでした。日本で初めて甲子園球場の阪神の試合に連れて行ってもらった時、ライト・スタンド全体が揺れるような大声援と六甲おろし(阪神タイガースの応援歌)に、身震いがするほど感動したのです。

実は、1985年の阪神の歴史的な優勝(リーグ優勝は21年ぶり、日本一は球団史上初)時は、ちょうど日本にいなかったので、実体験していないんです。でも、有名なバース、掛布、岡田の「バック・スクリーン3連発」(85年4月17日の巨人阪神戦の7回裏、阪神の打者3人が巨人・槇原投手から放った伝説の3者連続本塁打)や、「カーネル・サンダースの呪い」(阪神がリーグ優勝した夜、興奮した阪神ファンが大阪・道頓堀のケンタッキー・フライド・チキンのカーネル・サンダース像を胴上げし、道頓堀川に投げ込んだため、翌年から阪神が急激に弱体化したと言われている都市伝説)のことはよく知っていますよ。

阪神はその後17年間、カーネル・サンダースの呪いのせいで優勝できませんでした(笑)。でも阪神ファンは「諦めたいけど、諦めない」。選手の顔ぶれは時代と共に変わりますが、応援団は阪神が強い時も弱い時も、甲子園に通い続けています。私はそんな阪神ファンの方々との交流を通して人と人との絆を深めていきました。現在もオーストラリアからフェイスブックの「豪虎会」(GoKoKai)で応援していますし、日本に行った際は必ず球場に行って阪神戦を観戦しています。

――帰国後はどのような活動をしていたのですか?

シドニーに戻った後は、チャッツウッド・テニス・クラブのオーナー兼最高経営責任者、スポーツのイベントやスポンサーシップを手掛ける企業「レジェンズ・クラブ」のジェネラル・マネジャーなどを歴任し、30年以上にわたって一貫してスポーツ関連のビジネスに携わってきました。オーストラリア・テニス協会の諮問委員も長年務めています。

その間もずっと、日本は私のDNAであり続けました。年に数回は日本を訪問し、日本の方々と交流を続けてきました。ビジネス哲学においても「プロセスに集中すれば、結果は後から付いてくる。まずお金ありきでは決して成功しない。文化的資源に投資することが大切だ」ということを学びました。

もちろん、日本が全て完璧なバラ色の国だというつもりはありません。深刻な社会問題もあるでしょう。でも、それはどこの国にもあることです。日本は私にとって第二の故郷です。人と人の絆を大切にし、お互いをリスペクトする。そんな日本にいると、とても心地良く感じます。そうした経験やスポーツを通してオーストラリアと日本が共に発展するのを支えたいと考えるようになりました。

東日本大震災の被災地を歩く
東日本大震災の被災地を歩く

2011年に東日本大震災が発生した際は、すぐに飛んで行きたいと思いましたが、仕事が忙しくてかないませんでした。震災から2年後、当時の会社を退職したことを機に、子どもたちにテニスを教えたり、仮設住宅を訪問したりして地元の人たちと交流しながら被災地を歩きました。一瞬にして約300人の命が失われた海辺で「世界は決して忘れない」と誓いました。

日本酒は以前から好きだったのですが、正面から向き合うようになったのは、東北でサンマの塩焼きを食べていた時、「一ノ蔵」という宮城県の銘酒に出合ったのがきっかけです。以来、日本酒を真剣に勉強するようになり、「利き酒師」の資格を取得し、オーストラリアに日本酒の良さを広めようと努めています。ただ、オーストラリアや世界には日本酒のプロがたくさんおられます。私はまだまだ「若輩者」ですから、今後もっと日本酒のことを深く学んでいきたいと思います。

――現在の仕事と今後の人生の目標について教えてください。

1980年代、日本でテニスのプロ選手として活躍
1980年代、日本でテニスのプロ選手として活躍

日本とオーストラリアの両政府は昨年1月、安倍晋三首相が来豪された際、スポーツ交流に関する覚書に署名しました。2019年に日本で開催されるラグビー・ワールド・カップ、20年の東京オリンピック・パラリンピックを控え、日本とオーストラリアにおける国際大会やスポーツ政策、トレーニング、試合、指導者の育成、スポーツ外交などの促進をうたっています。

これを具体化する民間の取り組みとして、PwCでは現在、「オーストラリア・ジャパン・スポーツ・ビジネス・プロジェクト」を事業化しています。私はこのプロジェクトのエクゼクティブ・アドバイザーとして、オーストラリアの使節団の訪日を支援するなど、スポーツを通した日豪ビジネス交流の促進に携わっています。企業が日本市場に進出する上で、スポーツを生かす最適な方法も提案しています。

また、オーストラリアの旅行会社「ガリバー・スポーツ・トラベル」の日本市場、ラグビー・ワールド・カップ部門のジェネラル・マネジャーも兼務しています。この会社はラグビー・ワールド・カップ第1回大会以来の公式旅行代理店です。19年大会と20年五輪に向けて、合計3,000人のオーストラリア人を日本に送客する予定です。オーストラリアのラグビー・ファンに、私の第2の故郷をお見せするのがとても楽しみです。

今後は、ラグビー・ワールド・カップと東京オリンピック・パラリンピックだけにとどまらず、長期的な視点に立って、スポーツを通したオーストラリアと日本の絆を深めていきたいですね。日本での経験は私に多くのことを教えてくれました。オーストラリア人には一般的に短期的視点でものを見る傾向があり、日本とのビジネスは「時間が掛かりすぎる」とか「忍耐力が必要だ」と感じる人が多いです。一方、日本人は長期的視点に立って考える傾向があります。そうした文化を理解して視野を広げれば、より良い結果につながるでしょう。私も日本語の勉強や日本文化への理解を更に深めることができるよう、これからも修練を続けていきたいと思います。

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