赤道直下、ラバウルへ

出倉秀男の日本料理と歩んだ豪州滞在記

出倉秀男の日本料理と歩んだ豪州滞在記
~オーストラリアでの日本食の変遷を辿る~

其の参:「赤道直下、ラバウルへ」

グアムを後にして船は赤道直下、パプア・ニュー・ギニアのラバウルへと向かいました。途中、穏やかな日は、キッチンから餌となるような魚や肉の切り身をもらい、船から釣り糸を流して釣りを試みましたが、収穫はゼロ。あれだけ海に囲まれていれば、大物がかかるのではないかと安易に期待していたのですが、待てど暮らせど、あたりもなく、太公望の夢ははかなくも破れ、たった1日で、釣りは諦めました。

荒れ狂う海の日は、怖いもの見たさに駆られデッキに出ました。大きく揺れる船の上を歩いて、やっとのことで最先端にたどり着きました。錨ののぞき見から海の様子を見ようと、まずは体を安定させ、近くにかけられていた錨の鎖をしっかりと握りしめました。6メートルほど大きく上下に揺れる波の中を抜けるように進む船の先端。海水が怒涛のように流れ込んでくるなど海の激しさを全身で感じながら、スリル満点な落差を童心に帰り楽しんでいました。今から考えると無謀なことをしていたと思います。しかし、案の定、しばらくして船のソーシャル・オフィサーから、忠告を受ける始末となりました。

もし、今のように写真が簡単に撮影でき、それを共有するなどしていたら面白い情報伝達になっていたでしょうが、当時は、現在のようなITの時代とはかけ離れ、電話、テレックス、ファックスがやっと普通に使われるようになってきた時代。船では無線やモールス信号が使われていた時代。電話も船内にあったようですが、高くて一般の人が使えるものではありませんでした。

いよいよ船は第二次世界大戦の激戦地でもあったラバウルの岸壁に到着です。「ラバウル小唄」がなんとなく頭をよぎりました。私は観る機会がなかったのですが、年配の方は『さらはラバウル』という映画を思い出されるかもしれません。朝から40度以上まで気温が上がっていていて、まさに見事な暑さ。午後になると、更に気温が上がりました。

火山灰の砂浜は黒く、不気味な海面ではありましたが、静かに波打つシンプソン・ハーバーは穏やかで、とても美しかったです。しかし、海岸近くに、戦争で使われたであろう朽ちた戦車や戦闘機が無残な姿で残されたままになっている情景には、一瞬、思い出したくないものを目にしてしまったような気持ちになりました。私は終戦間際に生まれ、激動の戦後の中で育ち、やっとのこと、何となく安定した世の中を迎えようという気配を感じていたところでした。日本の敗戦の中で育ってきた私にはまた過去に戻されたような気がしたのです。ラバウルでも日本兵を含む、大勢の人が亡くなったという事実は消えることはなく、尊い命を犠牲にして残ったものは何かを深く考えさせられました。

しかし、その思いにふける気持ちをかき消すかのように、船が着くと同時にカヌーを漕ぎながら、現地の女性たちがやって来て、いつの間にやら、船の周りでバナナの売り買いが始まりました。デッキにいる船客に声をかけて交渉が済むと、船の上からお金(コイン)を投げ、バナナを船まで投げてくれます。決して押し売りのような感じではなく、のどかな雰囲気に気持ちが和みました。


下船すると、すぐそばに青空市場を見つけました。現地の女性と子どもたちが売り込みに熱心でした。市場でもジャングルからの山積みされたバナナの山。またイモ類のタラいも、砂糖キビなどが売られていたのを記憶しています。私は黄色く熟れたバナナを買いました。自然に熟れたちょうどいい食べ頃のバナナでおいしかったです。黄色いバナナの横で、若い緑のバナナも売られていて、船に帰ってシェフに食べ方を尋ねたら、煮て食べるということだったので、後にシドニーで栗の甘露煮のようにして食べてみました。

また青空市場の近くに、「General Store」という看板がかかった小さな雑貨屋さんがありました。興味があったので、中に入ってみると、中国人の老夫婦がいて店番をしていました。どんなものが置いていたのか、すっかり忘れてしまいましたが、今でも思い出すことは、突然、「バターン」というすごい音と共に、突風が店の中に吹き、並んでいるものが幾つか飛ばされたのものの店の人が気にかける様子もなかったことです。店にいたオーストラリア人に尋ねたところ、暑いラバウルでは水車を使い、室内に立てかけた板にひもをつけ、それを倒して風を送る「扇風機」ならぬ「旋風器」(?)というものとのことでした。大きな板を倒し風を送る方法に大いに感心したのを思えています。

パプア・ニュー・ギニアでは、天災、内戦があったりと、不安な要素がたくさんありましたが、島に生きる人たちの自然と生きる知恵と工夫には学ぶものがありました。

日本は、先の戦争により多くの料理人も大勢失いました。私の師匠である、家元の獅子倉先生はよく、「このままでは戦後日本料理界が崩壊する。新しい視点を持って料理を育成する」と話していました。先生の活動姿勢に感動し、先生からの教えを継承する道を今でも模索しています。



出倉秀男(憲秀)
料理研究家。英文による日本料理の著者、Fine Arts of Japanese Cooking、Encyclopaedia of Japanese cuisine、Japanese cooking at home, Essentially Japanese他著書多数 。Japanese Functions of Sydney代表。Culinary Studio Dekura代表。外務省大臣賞、農林水産大臣賞受賞。シドニー四条真流文芸師範、四條司家師範、全国技能士連盟師範、日本食普及親善大使

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