新・豪リークス/「木曜島物語・前編〜知られざる歴史と日本との絆〜」

新・豪リークス

現在TBSのシドニー通信員を務める筆者が、オーストラリアの“ホット”な話題を独自の視点で分析する。あっと驚く“裏情報”や“暴露(リーク)情報”も!?

第15回「木曜島物語・前編〜知られざる歴史と日本との絆〜」

オーストラリア北部に浮かぶ小さな島「木曜島」。かつて多くの日本人がこの島に住み、日本とも長く深い絆を持つ。島にただ1人残る元日本人ダイバーや、木曜島で生まれ、その後生き別れになった日本人の父親を探す女性への取材を前編・後編に分けて報告する。

◇真珠貝がつないだ木曜島と日本人

オーストラリア大陸最北端のヨーク岬とパプア・ニュー・ギニアの間に広がるトレス海峡諸島の1つホーン島。今から75年前、第2次世界大戦中の1942年3月14日には、旧日本軍がこの島の軍事施設などに大規模な空襲を行った。

木曜島は、このホーン島からフェリーでわずか10分ほどの距離の所にある。周りには、小高い丘陵(きゅうりょう)のような形をした金曜島などの島々が、コバルト・ブルーの海に浮かんでいる。

木曜島の高台から見た景色。向かって左側に見えるのはホーン島(2017年3月19日筆者撮影)
木曜島の高台から見た景色。向かって左側に見えるのはホーン島(2017年3月19日筆者撮影)

面積が3.5平方キロ・メートル、人口は約3,500人という熱帯サバナ気候のこの小さな島に、かつて島民の6割が日本人だったという時代があった。19世紀後半、木曜島の周辺海域は良質の真珠貝の産地として知られていて、洋服のボタン用の真珠貝採取のため、当時世界一優秀なダイバーと嘗胆(しょうたん)されていた多くの日本人がやってきた。その中のほとんどが和歌山県出身者で、その中でも腕利きのダイバーとして鳴らしたのが藤井富太郎だった。

次女チオミさん宅前にある木曜島の名士、藤井富太郎の胸像(筆者撮影)

次女チオミさん宅前にある木曜島の名士、藤井富太郎の胸像(筆者撮影)


1925(大正14)年、18歳の時に木曜島に降り立った富太郎は、まさに死と背中合わせの危険な仕事だが、大金の稼げる真珠貝採取ダイバーになるべく苦労を重ねた。第2次大戦中は敵性国民として戦争捕虜収容所に収容され、戦後は多くの仲間が祖国に帰る中、現地の女性との間に家庭を持っていた富太郎は、周囲の反対を押し切って木曜島に留まることを決意。再びダイバーとして働く傍ら島の宿泊施設「レインボー・モーテル」を経営し、潜水病などで亡くなった約700人の同胞が眠る日本人墓地の整備に尽力するなどした。その後、78年に当地を訪れた作家の司馬遼太郎が書いた小説『木曜島の夜会』により日本でも木曜島と富太郎(小説では富三郎)の存在が知られるようになり、勲六等瑞宝章(当時)も授与された。86年に自宅で眠るように亡くなる直前まで、木曜島や真珠貝関連事業に携わる日本人のために思いを馳せていたという富太郎。昨年、次女のチオミさんらが父の生涯の記録を残したいと働きかけて実現した伝記の日本語版『最後の真珠貝ダイバー藤井富太郎』(時事通信社刊)も出版された。チオミさんは「父は本当に無口な人だったけど、世話好きで多くの人に慕われていたわ」と自宅の前に建つ富太郎の銅像の前で筆者に語ってくれた。

◇ただ1人、島に残る元日本人ダイバー

木曜島在住の元日本人ダイバー・平川京三さん(82歳)(筆者撮影)
木曜島在住の元日本人ダイバー・平川京三さん(82歳)(筆者撮影)

戦後、和歌山県出身のダイバーに代わり、木曜島に招かれたのは、当時まだ日本に復帰していなかった沖縄の人びとだった。今も島内に家族と暮らす、平川京三さん(82歳)は、1958年に沖縄から真珠貝採取ダイバーの募集でやってきた106人のうちの1人だった。戦前とは違い、既に島の周りの真珠貝は取り尽くされていたこともあり、いったんは郷里に戻り、建設作業員やタクシーの運転手などの職を転々とした平川さん。友人に誘われ26歳の時に再び木曜島に行くことを決意したが、その時には既にプラスチック製のボタンが登場しており、真珠貝の需要は激減していた。そこで、新たに目をつけたのが木曜島近海に多く生息していた伊勢エビだった。「まわりにはエビがウジャウジャいたさ」と、沖縄なまりで答えてくれた平川さん。当時は1回の漁で船に積んだ冷蔵庫に入りきれないほどのエビが捕れたと言い、それをケアンズのレストランに卸すなどして成功。稼いだお金で家を新築したり、新しい船を次々と購入した。その後、木曜島で知り合った現地の女性キャサリンさんとの間に、子ども5人と孫9人をもうけたが、やはり沖縄からダイバーとしてやって来た男性が2年前に亡くなり、今この島に残る元日本人ダイバーは、平川さんただ1人となってしまった。

「沖縄に帰っても皆忙しいそうで大変だ。家族もいるし、こっちは気楽でいいよ。全然寂しくないさ」と語る平川さん。右足が少し不自由で耳も遠くなったが、最近体調を崩している奥さんの身の回りの世話をしたり家の壊れたところを修理するなど82歳とは思えないほど元気な様子で、取材の帰り際、庭のヤシの木の間に青いサンゴ礁の海が見渡せるご自宅のバルコニーから笑顔でこちらに手を振ってくれた。

◇日本人の父に会いたい

木曜島で生き別れた父親を探しているサリー・ラッドさん(筆者撮影)
木曜島で生き別れた父親を探しているサリー・ラッドさん(筆者撮影)

今回、筆者が木曜島へ取材に訪れた理由は、実はもう1つあった。それは、ある女性の父親の消息を追うことだった。現在教師としてブリスベン郊外に住むサリー・ラッドさん。1961年に木曜島で生まれたサリーさんは、生後3週間で養子に出され島を離れたが、彼女が20代の時、実の母親から父親は日本人だと初めて聞かされた。漢字の名前は分からないが、沖縄から真珠ダイバーとして木曜島に来ていた「シマブク・ヨシノリ」だと伝えられたが、その実の母親も数年前に亡くなり、自身も離婚を経験するなど苦労もしていて、「生き別れた」父親の消息を探す余裕もなく56年の歳月が流れてしまっていた。そんな矢先の昨年、身に降りかかったある大きな出来事が、彼女に沖縄への「父親探し」の旅を決意させる。

とは言え、漢字名はおろか父親が沖縄のどこの出身かさせえも分からず、あまりにも情報が少な過ぎる。近所に住む親しい日本人女性の協力もあり、そのことを自身のフェイスブックに書き込むと、即座におびただしい数のレスポンスがあり、中には見ず知らずの沖縄在住の夫婦から現地での案内をしたいとの申し出まであった。

その情報が知人を通じて筆者にも届き、今回木曜島へ赴くきっかけとなったのだが、現地で取材を進めていくうちに、シマブクさんを知っているという人物を見つけることができた。和歌山県出身の元ダイバーを父に持つその男性は、シマブクさんと思われる男性と親しく、当時よく一緒に行動していたという。また、驚いたことに彼はサリーさんの実母と同じ学校に通っていた幼なじみで、サリーさんの写真を見せると「彼は屈強でハンサムな男だったよ。彼女は目元がヨシノリによく似ているね」とうれしそうに話してくれた。そして、別の情報筋からは、シマブクさんと思われる男性が、沖縄のある島の出身ではないかということも分かってきた……。

偶然にも4月初めのサリーさんの訪日の日程に、かねてから決まっていた筆者の日本行きの予定が重なり、わずか1日ではあるが、沖縄への「父親探し」にも同行できることになった。

彼女に父親探しを決意させた出来事とは何か?そして、果たして沖縄で父親の消息はつかめるのかについて、次回の本コラムで報告する。


PROFILE
飯島浩樹(いいじま・ひろき)
日本の民放局でニュース番組のディレクターなどを経て来豪。豪SBSの日本語教育番組の制作などに携わった後、TBSのシドニー五輪支局現地代表となる。現在、TBSのシドニー通信員として多くのニュース・レポートを日本に送っている。オーストラリア人の妻、子ども3人とシドニー北部に在住。

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