在外邦人の先駆者“戦争花嫁”がシドニーを訪問

在外邦人の先駆者“戦争花嫁”がシドニーを訪問

「さくら会」のメンバー20人が参加

表敬訪問した在シドニー日本国総領事館で記念撮影

表敬訪問した在シドニー日本国総領事館で記念撮影

現在、約8万人もの日本人がオーストラリアで生活をしている。今でこそ多くの在豪邦人がいるが、その先駆者といえるのが「戦争花嫁」たちだ。「戦争花嫁」とは、第2次世界大戦終戦の折りに日本に駐留する海外の将兵や軍属と結婚し、夫の母国へと移住した日本人女性の呼称である。オーストラリアにはおよそ650人の戦争花嫁が海を越えて来たと言われている。そのオーストラリア在住の戦争花嫁らが中心となって結成された親睦会「さくら会」の会合が、10月20~23日にかけてシドニーで行われた。21日にはシドニー日本領事館を表敬訪問。22日にはオペラハウスを訪れた。(取材・文=山本眞慈)

「さくら会」は、オーストラリアに住む戦争花嫁を中心として2008年に結成された「日系国際結婚友の会」から、会の名称を変えるかたちで14年1月に発足。国際結婚を経験した人に限らず、広くさまざまな人が参加できるようにという思いから名称を変更した。1952年に渡豪した戦争花嫁第一弾であるチェリー・パーカーさんの名にちなんで「さくら会」と名付けられた。現在のメンバーには戦争花嫁だけでなく、その家族なども含まれており、年に1度の旅行、年に2度のニュースレターの発行を行っている。

リラックスした雰囲気の中、笑顔で挨拶する高岡総領事
リラックスした雰囲気の中、笑顔で挨拶する高岡総領事

在シドニー日本国総領事館では高岡正人総領事、松前了領事とさくら会のメンバーが懇談会を行った。会は終始和やかな雰囲気で、当時の様子や近況などが話し合われた。高岡総領事は挨拶で「現在、多くの日本人がオーストラリアで暮らしていますが、皆様は初期からお住まいであり、在豪日本人の先駆けでおられます。今でこそ我々日本人は快適に過ごせておりますが、それは皆様が、日本人に対しての良いイメージを作り上げてくださったおかげであります。大変なご苦労もあったこととは思いますが、この場を借りてお礼申し上げます」と語り、戦争花嫁たちのこれまでの人生、そして日豪関係への貢献に対して敬意を表した。

異国の地で懸命に生き抜いた花嫁たち

戦争花嫁が海を渡ってきた当時、オーストラリア社会は白豪主義であり、有色人種軽視、白人至上主義の考えが色濃い時代であった。さらに、日本は第2次世界大戦においてはオーストラリアの敵国。彼女たちへの視線に厳しいものもあったことは想像に難くない。

あるメンバーは「教会で、ある人に『あなたはここに来るべきではない』と言われた。教会でそんなことを言うべきではないのに」と差別の経験を明かした。船でメルボルンへ渡った花嫁たちは、ボディーガードに守られて船を降りた。下船の際に襲われる可能性が考慮されてのことだった。結婚相手が敵国の人間だからという理由で、夫の親族に結婚式への出席を断られたメンバーもいた。当時の戦争花嫁たちの立場の難しさが伝わってくるエピソードである。

懇親会の最後に21の俳句が詠まれた
懇親会の最後に21の俳句が詠まれた

また、小紋寿(こもんず)ルミさんが紹介した、戦争花嫁たちの経験をもとに作ったという俳句(編注:季語がないため厳密には俳句ではないが彼女らはコミュニティの中でこれを英語に訳し「バイリンガル俳句」と呼び楽しんでいる)には、当時の戦争花嫁が経験した苦労がありありと表されている。

「敵国の 花嫁なれば 渡航不可」
「メルボルン ガードに守られ 下船する」
「学校で いじめに遭う  母のせい」
(記載した俳句は一部)

もちろん、すべての戦争花嫁が、蔑視されたことがあるという認識を持つわけではない。「白豪主義の時代といっても、多くの一般の方々は日本人を白眼視していたわけではないと思う」と語るメンバーもいる。

しかし、各々の経験に差異はあったとしても、国際結婚による海外への移住ということもあり、戦争花嫁たちは多くの苦労をしてきたことだろう。

彼女たちは、終戦直後の異国の地での人生をたくましく生きてきた。懇親会後、戦争花嫁の1人である美恵子ミラーさんにインタビューを行い、「大変だったことは何か」と尋ねてみた。

「日本が戦争で負けたでしょ。ご主人を亡くした人にはつらかったでしょうね。嫌なことも言われて。どうしてあんたがここに来ているのかとか。私ゴールド・カードを持っているんです。主人が亡くなった後も。それを病院で出した時に、なぜあんたがそれを持っているのか、持つ理由がないとかそういうことを言われたりしました」

シドニーの象徴、オペラハウスにも訪れた
シドニーの象徴、オペラハウスにも訪れた

オペラハウス館内にて。笑顔で談笑する姿が見られた
オペラハウス館内にて。笑顔で談笑する姿が見られた

彼女はそのあと、こう続けた。「そう言われたので、あんたがそんなことを言う筋合いはないですよと言った。そうしたら納得された。ほかにも、こっちに来て初めのころは小さい子どもとか若い子に、お前はジャップだ、何をしているんだなどと言われていましたが、あんたたちも違うでしょと。あんたたちも外国から来た人たち。そういうことを言う筋合いはないでしょと。そう言いました。それからはそういうことを言われることはなくなりました。思ったことはちゃんと言ったほうがいいと、主人がよく言っていたんですよ。日本のようにおとなしくしていたらダメだと。その時初めて感じましたね」

理不尽な扱いにも負けず、慣れぬ異国の地で懸命に歩んできたことがうかがい知れる。ほかの戦争花嫁たちも、美恵子さんのようにたくましく、この地で自らの人生を築いてきたに違いない。

さまざまな苦難を乗り越えてきた、在豪邦人のさきがけである戦争花嫁。高岡総領事が挨拶で贈った言葉が思い起こされる。彼女たちの歩んできた道の上に、8万人の日本人がオーストラリアで生活する今がある。

22日には有志がオペラハウスを訪れ、日本語でのガイド・ツアーに参加した。ガイドの話に耳を傾け、世界遺産である建造物を見て回りながら、気の置けない仲間と談笑する、楽しそうな表情が目立った。

その日、彼女たちの周りには若い日本人の姿もあった。世界遺産との出合いを楽しんだ彼らの側には、強く、たくましき「先駆者」たちの笑顔が輝いていた。

オペラハウス日本語ツアースタッフのクロフェット孝子さん

<取材協力>
オペラハウス日本語ツアー・ガイド

劇場のコンサート・ホールやオペラ・シアターの観覧を含めた30分のツアー。経験することのできない魅力が盛りだくさん。予約不要。
※公演のある週末は入れるエリアに制限があるため平日がお薦め。
料金:大人$21.60~24.00、子ども$10.50
時間:10:45AM、11:45AM、1:15PM、2PM、2:45PM、3:30PM、4:15PM~

◀◀◀オペラハウス日本語ツアースタッフのクロフェット孝子さん


「さくら会」ツアー参加者からの手記
今回の「さくら会」シドニー・ツアーに参加した4人の参加者から手記をいただいた。

繁子オールドハムさん

私は広島市己斐町という所に4人姉妹の次女に生まれ、己斐小学校から広島の女学校に入ったころは戦争中でした。父は軍属でニューギニアの方に行きました。姉は結婚して広島市に住んでいました。母と私と妹2人で可部という田舎の親戚の所に疎開しました。疎開先にはほかの家族、老人夫婦がお孫さん2人を連れて広島市から来て親戚の駄屋に住んでおられました。

私は朝早く起きて広島の女学校に通いました。土・日曜日は母と一緒に田植え、畑仕事をしました。戦争中で勉強は工場の休み時間だけして、工場では飛行機の部品を作っておりました。

1945年8月6日の朝、疎開先から広島駅に着いた8時6分、プラットホームで原爆にあいました。プラットホームの屋根の間をB29が飛んでいるのを見ていた瞬間、ピカーッと光り、ドーンと爆風と衝撃がありました。無意識に荷物運搬用の大きな台車の下に隠れていました。あの時駅の外に出ていたら火傷を負っていたと思います。私は幸いにも建物の中にいて助かりました。

台車の下にいて、気がついたら線路を走って来る人びとが「山に逃げろ、山に逃げろ」と言う声がして、その人たちについて線路を渡り山の方に行く途中、血だらけの赤子を抱いた母親が火傷を負って走っておられ、また山の上では兵隊さんが大火傷を負って走っておられました。その時、黒い雨が降り出したので人びとはまた走って山を下りました。吉備線の駅では沢山の人びとがおられ、そのほとんどの人が大火傷を負っており、軍の将校さんが生気を失って軍棒を振り回しておられる姿を見ました。この日の光景は一生涯忘れられません。1日中歩いたり走ったり、川を渡ったりして夜8時に家に着きました。母たちは大変心配していて、私の到着をとても喜びました。

戦後は広島県庁に勤め出しました。その時一緒に勤めていた友達のボーイフレンドが主人を紹介してくださいました。

付き合って結婚を考えた時、オーストラリア政府は日本女性の結婚を許可してくれませんでした。主人はオーストラリアに帰され、キャンベラの政府や移民局に手紙を出したのですが、それでもやはり許可はされませんでした。

朝鮮戦争が始まり、彼はまた志願をして呉(広島県)に来ました。そのころから結婚がぽつぽつできるようになってきておりましたが、「外国に行くのだったら2度と帰って来るな」と言われ、私の結婚は親と姉に反対されました。54年12月の初めに呉から船に乗って28日にシドニーに着きました。船で一緒だった人たちと「また会いましょう」と誓い合って別れ、その後何十年と手紙を出し合ったり、会ったりしました。

私達夫婦はタスマニア島に行きました。主人の家族がロンセストン市から1時間半かかるレージウードという田舎に住んでおりました。主人の母と妹、弟がロンセストン市の飛行場に迎えに来ておりました。家に着くと夕食にチキンの料理とケーキが用意されており、家族からウェルカムのもてなしを受けましたけれど、食べたこともない料理ばかりであまり食べられませんでした。

6カ月主人の家族と一緒に住み、姑さんがオーストラリアの習慣やマナー、料理もすべて教えてくれました。近所の主婦と友達になって、教会の手伝いをしたりケーキ作りやジャム作りを習って、ボランティアの仕事をしました。

オーストラリアに来た1年後に娘が生まれ6年生まで田舎のスクールに行き7年目から市のボーディング・スクールに行きました。

主人は軍隊を辞めブルドーザーを2台買ってビジネスを始めました。農家の家畜用のダムを作るのがほとんどでした。

田舎の生活は17年でした。主人が病気にかかりまして朝鮮戦争の精神的な後遺症に苦しんでおり、45歳で亡くなりました。

私と娘は田舎の家を売ってロンセストン市に移り、私は保育園のコックとして働きました。小さな子どもたちに作る食事をいろいろと考えるのは、とても楽しかったです。その後、娘が結婚してメルボルンに住んでいたので、メルボルンで一緒に生活をすることにしました。それから孫2人がメルボルンで生まれ、娘の主人の仕事がブリスベンに移りました。ブリスベンでの生活は今で23年になります。

10年前に娘夫婦が離婚をして、私と娘はタウン・ハウスを買って住んでいます。裏庭にたくさんの木や花を植えて楽しんでおります。また週に2回ゴルフに行きます。何十年とゴルフを楽しくやっておりますけど、歳もとってきたのでそろそろ止めようと思っております。孫2人は男の子27歳、女の子24歳になりました。たまに家に遊びに来て、私は食事を作ります。

月の4週目の木曜日は日本人会のランチが町の花市というレストランであり、それを楽しみにしています。20人くらいが参加されております。

来年の4月に3週間、家族5人、娘、孫2人とボーイフレンドで日本旅行に行きます。これが私の最後の日本旅行になると思います。

オーストラリアに来て60年になります。いろいろな思い出がたくさんありました。苦しんだこと、寂しかったこと、また楽しかったことも、オーストラリアに来て良かったと思います。

広子ファーガソンさん

月日の経つのは風の吹くように過ぎ去り、メルボルンに住み60年ほどになりました。戦争花嫁の方々が八重桜会と名付けて、1カ月に1度日本食のレストランでお食事とともに世間話を2~3時間楽しんでいます。以前は多くの方が参加されていましたが、最近では2、3カ月に1度でも10人集まれば良いほうです。お体が不自由になり、ホームに入る方もいらっしゃいます。私のお友達も3人ほど亡くなり、寂しい経験でした。当時私は1人暮らしをしており、治安の良くない年代でいろいろなことがあり娘が心配だったので、今はともに暮らしております。

思えば亡き主人が軍隊で2年ごとに転勤し、2人の娘も学校が再三変わりましたがことなく成人しました。私の人生で1度、イングランドに転勤。ヨーロッパの国々、スコットランドの方面へと、週末はドライブとお城巡りを楽しみました。亡き主人にもらった幸福な経験を振り返り、一筆致しました。

80数年の長い人生を乗り越えられた私達の時代の皆様、またお会いして一緒に楽しく過ごしたいと思います。

静子ホーランドさん

21歳の時に軍隊の所で、1人のお姉さんに「家にお茶しにいらっしゃい」と言われたので訪ねたところ、彼女の彼とその友人がいて、その方と見合い的に交際を始めました。父に反対され、隠れて交際。母方の方は自分の家が広く、そういう人に貸していたので反対もありませんでした。彼は軍隊を辞め、1年したら必ず帰って迎えに来るということでオーストラリアへ帰りました。彼は真面目な人で給料をほとんど自分の母親に送金していました。また彼の母はお金を貯めて家を買っていました。

1年後彼は就職し日本へ来て、東京、横浜に住み、お手伝いさんもいた裕福な生活を送っていました。東京で長女を出産し、1955年船にてオーストラリアへ。彼の母親に会った時、言葉も出せないほどでハグをしました。家もあったのでそこで生活。その時に近所に日本人らしい人がいると言われ出会ったのがトミ子さんで、それ以来60年のお付き合い。またハウズ愛子さんとは岩国出身で、知り合い、本当に良き友に巡りあい、友の素晴らしさを知りました。

オーストラリアへ来ての生活も長男次男の出産で忙しく、全然困ったことがない上、チャイナタウンには日本食もあって買い物にも行きました。思い出せば63歳でガンを患い、他界した主人は、金に細かいけれど、あっちこっちと家を買ったりして私のために財産を残してくれた良き主人でした。庭が広いので畑仕事をして野菜作りをしました。義母と半年ほどともに生活もしました。文化の違いでいろいろあったけれど、自分がこの義母に優しくすれば日本の母が誰かに良くされると思い、義母に尽くしました。嫁姑の関係はどこの国でも永遠の課題ですから。その義母が近所へ行って「うちの嫁は良くしてくれる」とあっちこっちで言っていたことが彼に伝わり、心は通じると思いました。また、主人は私の母に「5年後に必ず一時帰国させます」と言ったことを実行し、母方の親戚は日本で大歓迎してくれた。今は子が3人、孫が6人、ひ孫が4人います。

皆の行く末を見守りながら「さくら会」の良き友を得、主人にはまだそっちには行かれません、やることが残っているから呼ばないで!!と言いつつ、元気に車を運転して買い物にMeetingに旅行にと、参加しています。

浩子ファイフさん

私が戦争花嫁さんのグループの方々と初めてお目にかかったのは2003年9月にキャンベラで開催された日系国際結婚親睦会の時でした。07年5月に開催された日系国際結婚親睦会シドニー大会に参加した際、会長をされていた田村恵子さんが今回で親睦会を解散すると宣言されました。

その時、多くの戦争花嫁さんから「これで会えなくなるのは悲しい」と言う声があり、コンピューターが使えるので皆さんから押され、タイミング良く定年退職をしたところだったので、お役に立てるのだったらと思いお世話をする決心をし、今日に至っております。

08年からは、共に長い船の旅で知り合った仲間と定期的に会わせてあげたいとの思いで、年に1回の集いを持ち、年に2回ニュース・レターを発行し、皆さんの近況をお知らせあっています。

08年にはアデレード、10年にはメルボルンとタスマニア、11年にはキャベラでの懇親会。12年8月にはメルボルン、モーニングトン・ペニンシュラ、ジーロンへの温泉旅行。13年9月にはブリスベンとゴールドコーストの旅。14年にはニュージーランド北島縦断旅行、そして今年はシドニーでの集いを行いました。

一番若い戦争花嫁さんですら82歳となり、年々健康上の理由から、懇親会に参加できる方が少なくなり、寂しく思われます。悲しいことに、私が引き継いでから、既に10人の方が他界されました。そのつど、家族を亡くした時のように皆が深い悲しみを覚えます。

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