シドニーから南へ約3時間のサウス・コーストに移住して以来、生活圏にある豊かなマングローブ林を散策する楽しみが日常に加わった。海水と淡水が混ざり合う場所で育つマングローブ林の中で耳を澄ますと、ささやかな水音と共にたくさんの生き物の気配が感じられる。その生態の特異さや自然環境の中での役割を知れば知るほど、マングローブへの興味は増すばかりだ。(文・写真:七井マリ)
水上に広がる緑の森林

買い物などに時々訪れる近隣のハスキソン(Huskisson)の町には、複数のマングローブ林がある。町の中心部から近いジャービス・ベイ海洋博物館の目の前に近年、マングローブ・ボードウォークという1.4キロにわたる水上の遊歩道が設置され、林の中を散策できるようになった。
初めてそこを歩いた時、水上に森が浮かぶ異次元に迷い込んでしまったようだと思った。入り組んで生えるマングローブの木々をよく見れば造形の特異さも美しい。つやのある葉は平凡な色形に見えるが、その下では曲線的な幹や根が水から生えている。そこは完全な陸上とも海中とも異なる潮間帯。干潮時には泥から突き出ている小さな黄緑色の芽は満潮時には水中に沈み、その周りを何種類もの魚が泳ぐ。
日本でも沖縄などに存在するマングローブだが、私はオーストラリアに来るまで自分の目で見たことがなかった。オーストラリアでは亜熱帯性気候の北部に多いものの、シドニーの一部や私が住むサウス・コーストなど南部の温帯性気候の地域でも、河口から遠くないエリアにマングローブが自生している。
マングローブにはさまざまな種があり、たくさんの花や実、芽など季節ごとの表情も独特で楽しい。その周りで暮らす水生生物やそこを餌場とする鳥は、生態系の鮮やかさを教えてくれる。マングローブ林を気に入って以来、外出のついでに何度も訪れては、色鮮やかな眺めとそこに息づく生物の営みに毎回釘付けになっている。
マングローブ林の生き物の気配

マングローブ林は多種多様な生命を育むゆりかごのような場所だ。遊歩道をほんの数分歩くだけで、何種類もの生物の姿を確認できる。
引き潮で露出した泥の上では、小型のカニが這い回って餌を食べている。片方の鋏角(はさみ)だけが異様に大きいカニはフィドラー・クラブ(fiddler crab/和名:シオマネキ)の1種で、敏捷(びんしょう)な横歩きやはさみで食べ物を口に運び続ける姿が愛らしい。何時間でも飽きずに見ていられそうだが、物音などに驚くと捕食者から身を守るために地下へ続く穴に隠れてしまう。
マングローブ林には鳥も多い。眼光の鋭いホワイトフェイスド・ヘロン(white-faced heron/和名:カオジロサギ)は、浅瀬に適した長脚で抜き足差し足しながら小魚をねらっているように見える。遥か上空を舞うトビは翼の一部や腹部が白かったので、きっとホイッスリング・カイト(whistling kite/和名:フエナキトビ)だ。
遊歩道の終わりの河口が近付くエリアでは、マングローブの木々の間で小魚が群れを成している。潮位が高かった時間帯に一度、海から汽水域まで泳いで来たらしいスティングレイ(stingray/和名:アカエイ)を間近に見る幸運にも恵まれた。生き物の気配をそこかしこに感じるマングローブ林は、木漏れ日の明るさも相まってどこか心安らぐ場所だ。
温暖化の中でマングローブ林が果たす役割

マングローブが身近な地域で暮らすようになったことで、その生態への興味は自然と深まってきた。マングローブといえば、高波や高潮を緩衝して海岸の浸食を抑え、自然の防波堤として大きな役割を果たすことで知られる。同時に、沿岸の土壌からの流出物をろ過することで、海への汚泥の流入も防ぐ。気候変動に伴ってサイクロンや海面上昇などが深刻化する中、マングローブ林には熱い期待が寄せられている。
成長が早く、多量のCO2を取り込んで酸素を作り出すことも特徴だが、さらにマングローブ林は高い炭素固定能力を持つ。熱帯雨林と比べてもマングローブ林は面積当たりでより多くの炭素を幹や根、土の中に貯留できるため、マングローブ林を守り育てる意義は温室効果ガス対策としても大きい。人間の経済活動やライフスタイルが多量のCO2を放出し続けている一方で、マングローブは河口付近に立って生態系の中で黙々と大仕事を続けているということだ。科学技術によって気候変動やそれに伴う天災に対処していくことも価値があるが、地球が太古から育んできた自然の仕組みの価値についても改めて考えさせられる。
もし、マングローブ林が消失したら

人間の未来にとっても重要な役割を果たすマングローブだが、残念なことに近年は世界中で減少の一途を辿るばかりだ。その原因は、食用エビの養殖場やヤシ油用のパーム栽培地を確保するための伐採、住宅地や工業用地に転換するための埋め立てなど、人間の経済活動が大きな割合を占める。温暖化による海面上昇でマングローブが育つ潮間帯の範囲が変わってしまうケースもある。
ここサウス・コーストから離れたオーストラリア北部では、2017年には異常気象による極度の干ばつで約7400ヘクタール分のマングローブが立ち枯れた。サッカー場に例えれば1万個以上に相当する面積。マングローブの枯死に伴って失われた周辺の生態系は、簡単には元に戻らない。
もしも地元のマングローブ林がなくなってしまったら、と想像する。マングローブ林のカニや魚は消え、それらを食べていた鳥は餌場を失って個体数を大きく減らすだろう。土壌の緩衝機能がなくなれば陸地の浸食が起こるだけでなく、汚泥が海水に流れ込んで海の生態系も壊れてしまう。人びとを魅了していた白い砂浜や青い海は同じ姿を留められず、漁業や観光業、不動産業は打撃を受け、町の暮らしも様変わりするはずだ。マングローブがなくなって荒れた水辺を、私たちはどんな思いで眺めるのだろうか。そうならないように、自然環境を傷つけない生き方を私たち人間は考えるのだ。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住